軍議-深夜の緊急作戦会議
ピセアの薬草園は、南の大陸のどの場所よりも静謐で、そして恐ろしい場所だ。
ヌーベと僕は、メイの仕立てた隠蔽用の服を纏い、息を殺して茂みに潜んでいた。
「にゃあ(……おい、ヌーベ。あそこにいるのは……)」
「ルウさん、声を抑えてください。少しでも殺気を出せば、ピセア様の『全生変換』の餌食になりますよ」
ヌーベが指差した先。色とりどりの薬草が咲き乱れる平和な風景の中に、それはいた。
かつて一晩で一万人を「肥料」に変え、国家規模の軍隊を絶望の淵に叩き落とした伝説の義賊コンビ『翠影双翼』。
……の、なれの果て。
「ムシャムシャ……(おいアスト、明日のブラッシング時間は15分延長らしいぞ。ピセア様がお怒りだ。俺たちが昨日、キャベツの苗を一本踏んづけたのがバレたらしい)」
白と茶のぶち模様が特徴的なロップイヤー(ウサギ)の姿になったフォルトが、不貞腐れたように雑草を食んでいる。
「モグモグ……(……フォルト、贅沢言うな。俺は今日、種まき中に居眠りして背負いカゴから落とされたんだ。今の俺たちは『天空の亡霊』じゃない、ただの『重力に弱い毛玉』だ)」
グレーの毛並みのロップイヤー、アストが力なく応じる。
かつて魔王の心臓を射抜き、勇者の剣を叩き折った「絶望の象徴」と呼ばれた二人は、今やピセアの「圧倒的な無関心」という名の平和に完全に調律(飼育)され、除草作業という名の強制労働に勤しんでいた。
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僕は隙を見て、ピセアの工房の窓辺に飛び乗った。
「にゃあああ! にゃあ、にゃあ!(フォルト! アスト! 助けてくれ、緊急事態だ! 遊んでいる場合じゃない、人間に戻る薬を出せ!)」
僕は騒いだが、幸いなことにメイの工作によって付け加えられていた首元の鈴が飼い主のセンサーを妨害していた。これがなければ僕は間違いなく捕まっていた。
必死に鳴き、窓ガラスを肉球で叩く僕に対し、草を食んでいたフォルト(ウサギ)が長い片耳をピクリと動かした。彼は面倒そうにこちらを振り向くと、ウサギ特有の念話で答える。
「モグ……(おいおい、見覚えのあるチビ猫が来たと思えばルウか。相変わらず足が短いな。……おい、そんなに大声で鳴くな。ピセアにバレるぞ?)」
「モグモグ……(そうだぞ。いや、それよりマズいのはアイリス様だ。あのお方が『うちのルウくんがいないわ!』と赤目になって探しに来たら、この森どころか南の大陸ごと消滅するぞ。俺たちを巻き込むな)」
アストが怯えたように周囲をキョロキョロと見渡す。最強の義賊だった連中をここまで怯えさせるとは、アイリス姉さんの「教育」は僕の想像を絶する恐怖だったらしい。
「にゃあ!(……そ、それはわかってる! だが今はそれどころじゃないんだ。ベスパが大陸を焼こうとしてる! アニルが死んで、あいつの狂気はもう誰にも止められないんだよ!)」
僕の必死の訴えに、二羽のウサギは食べる手を止めた。
そのとき、フォルトの毛がわずかに動いた。
「(ベスパの野郎、本当にやりやがるのか……?いや、あの男のことだ。あいつの本気ならこの森の結界すら焼き尽くされるな)」
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二匹のウサギと一匹の猫が窓際で揉めている中、工房の扉が静かに開いた。
「失礼します。近隣で天候調査をしている者ですが、急な雨の気配を感じまして……少しお水をいただけませんか?」
そこに立っていたのは、完全に「しがない気象予報士」に変装したヌーベだった。
幻術の効果も相まってか、匂いを完全にごまかしている。
彼はかつての殺し屋としての気配を完全に霧の中に隠し、一般人特有の「無害な空気」を全身から醸し出している。ピセアの絶対中立圏は、攻撃性を持つ者にのみ反応する。ヌーベはそれを逆手に取り、自分の心を「ただの親切な予報士」に書き換えることで、ピセアの懐へと滑り込んだのだ。
(今は脱力だ。あれを考えるだけでもボロが出るからな)
「あらあら、夜分に珍しいわね。予報士さん、お仕事ご苦労様。どうぞ、ゆっくりしていって。冷たいハーブティーを淹れるわね」
「いえいえ、お水一杯で結構ですよ」
ピセアはおっとりと微笑み、ヌーベを工房の中へと招き入れた。その天然すぎる包容力に、一瞬ヌーベの表情が引き攣ったのを僕は見逃さなかった。
ヌーベはピセアがお茶を淹れるために背を向けた隙に、僕とウサギたちに鋭い視線を送った。彼の視線の先には、ウサギたちが作業に使っている「背負いカゴ」。その底にある二重底の隠しスペースには、かつて僕たちが預けた「人間に戻る薬」の小瓶が隠されている。
(……あれか。確かにリスクはあるが、慎重に使わねばならん。ルウさん、俺がフォルトとアストをカゴに誘導します。泥棒だとピセア様にバレたら、僕も一生マンホールの清掃か、それこそ『ハムスター』に転生させられるのは確定かもしれませんからね)
ヌーベは冷や汗を流しながらも、天候グラフの巻物を広げてピセアの注意を逸らし始めた。
「(ルウさん、準備は整いました。あとは、あの天然の絶対強者、ピセア様をどうやって『お昼寝』させるかですが……)」
僕は窓枠を蹴り、フォルトとアストの背負いカゴの中へと飛び込んだ。
「にゃあ(ヌーベ、任せたぞ。ピセアが寝たら一気にカゴごと持ち出すんだ。……フォルト、アスト、ちょっと我慢しろよ)」
「モグ……(おいルウ、爪を立てるな! 毛が乱れるだろうが!)」
「モグモグ……(……ああ、俺の誇り高い『風切の翼』が、猫のクッションにされる日が来るとは……)」
南の大陸の運命は今、一匹のマンチカンと二羽のロップイヤー、そして必死に変装を維持する幻術師という、世にも奇妙な「義賊再集結」のチームプレイに託された。
アイリス姉さんが目を覚ますまで、あと数時間。
僕たちは、最強の「日常」という名の檻から抜け出し、炎の魔王ベスパを止めるための「力」を取り戻さなければならない。
ピセアの工房内は、不気味なほど穏やかな空気に満ちていた。だが、僕の心臓はマンチカンの小さな胸の中で、早鐘のように打ち鳴らされている。相手は伝説の『調律師』ピセア。彼女が本気になれば、この場の全員が瞬時に「観葉植物」に変えられ、二度と人間に戻ることはできないだろう。
「あら、あの窓の外の花……あんな時間に咲くのかしら?」
ヌーベが絶妙なタイミングで幻術の霧を薄く展開し、ピセアの意識を窓の外へと逸らした。流石は僕の右腕だ。
その隙を逃さず、ロップイヤーのフォルトが器用に体をくねらせ、背負いカゴの底を蹴り上げた。コロン、と床に転がり落ちたのは、僕たちが求めて止まなかった「人間に戻る薬」が入った小さな蒼い小瓶。
『(ルウさん、今です……! ピセア様に少しでも感情の揺らぎを察知されたら、僕たち全員、今度は「サボテン」にされて玄関に飾られます)』
ヌーベの念話に、僕は無言で頷く。僕は音もなく窓枠から飛び降り、影のように滑って小瓶を口に咥えた。ガラスの冷たい感触が歯に伝わる。
「ピセアさん、ありがとうございました。失礼します」
ヌーベは何事もなかったかのようにドアを開けた。
伝説の調律師を相手にした、444人リスト級の猛者たちによる冷や汗ものの窃盗作戦。それは、かつての魔王討伐よりも遥かに緊張感のある「仕事」だった。僕はそのまま工房を抜け出し、ピセアの鼻先をかすめるようにして外へと脱出した。奇跡的な成功だった。
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森の境界線、ピセアの絶対中立圏が届かない岩陰。そこが僕たちの「司令部」となった。
一匹の猫、二羽のウサギ、そして変装を解いたヌーベ。月明かりに照らされたその光景は、知らない者が見れば平和な動物たちの集まりに見えるだろう。だが、ここにいるのは世界を震撼させた伝説の暗殺者と義賊のリーダーたちだ。
僕は口から小瓶を離し、ヌーベに手渡した。
「にゃあ(……よし、薬は手に入れた。だが無闇に使うわけにはいかない。ヌーベ、この薬、一回飲めばどれくらい持つ?)」
僕の問いに、ロップイヤーのフォルトが太い前足で地面をドンと叩き、重々しい念話で答えた。
『モグ……(以前、俺たちが試したときは三日間だったが、今じゃゼトさんの情報によると、メイさんから新しいレシピをもらった。俺たちが試したデータからして、効果はきっかり一週間だ。168時間後には、反動と共にまたこの屈辱的なモフモフの身体に戻る。決戦に使うなら、飲むタイミングを間違えるなよ)』
一週間。168時間。それが、僕たちに与えられた「人間として戦える」最後の猶予。
『モグモグ……(……ルウ、お前がその姿でいる間、アイリス様にはどう言い訳するつもりだ? 飼い猫がいきなり屈強な男になって帰ってきたら、腰を抜かすどころか「不審者」として即座にレッド・アイが発動するぞ)』
アストの現実的な指摘に、僕は思わず身震いした。確かに、アイリス姉さんの怒りはベスパの炎よりも恐ろしい。
「にゃあ(……それは後で考える! 今はベスパだ。そういえばヌーベ、君はスタッフの仕事中にチンピラに絡まれていたな。その時に盗み聞きした「ベスパの計画」の弱点はなんだ?)」
ヌーベは表情を険しくし、懐から一枚の地図を広げた。
――全都市放棄化計画
僕が以前拾ったベスパの計画は断片的なものだったが、中身は恐ろしいものだった。アイリス姉さんが聞いたらどんな反応をするのやら。
「ええ。ベスパは『全都市放棄計画』を確実なものにするため、自分たちの精鋭だけでなく、近隣の小規模な暗殺組織や武装集団を強引に傘下に収めています。やり方は卑劣です。『家族を人質にする』『逆らえば街ごと燃やす』といった脅しを使い、本来は義理難い連中まで手駒として使い潰している」
ヌーベのこの情報は、孤児院周辺で暴れていたチンピラを目撃したときに知ったことだという。
僕は地図上の赤いマークを見つめる。
「にゃあ(……なるほど。無理やり従わされている連中か。まずはそこを叩く。彼らを解放し、味方に引き込めば、ベスパが自信満々に築き上げた包囲網に大きな穴が開くはずだ)」
「その通りです、ルウさん。彼らの拠点を一つずつ潰し、人質を解放すれば、冥府の羽音の足並みは一気に乱れます。ベスパが孤立した瞬間に、本丸を叩く。これが最短ルートです」
ヌーベの言葉に、フォルトとアストも頷いた。ウサギの姿のままだが、その瞳にはかつての戦士の光が宿っている。
「にゃあ(……決まりだ。一週間で、この大陸の「掃除」を終わらせる。脅されて悪事に手を染める連中を救い出し、ベスパの狂った炎を消してやるぞ)」
史上最強の動物軍団が、夜の闇へと駆け出した。猫のしなやかさ、ウサギの瞬発力、そして幻術師の知略。
僕の心の中には、眠っているであろうアイリス姉さんと孤児院の子供たちの笑顔があった。
(アイリス姉さん、待っていて。これは君たちを守るための、僕の「秘密の奉仕活動」だ。だから、帰った時に勝手にいなくなったことを怒らないでほしい……切実に!)
彼女はゆったりとお茶を啜る。
ヌーベは走りながら、心の中でガッツポーズを決めていた。
(よし! 俺の幻術作戦は完璧だ。調律師の目すら欺いてみせた。俺たちなら、ベスパなんて敵じゃない!)
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その頃、ピセアの工房。
ピセアは何事もなかったかのように、窓の外を見つめていた。
「あら、ウサギさんたちがいないわね。お散歩かしら? 元気なのは良いことだわ」
しかし、ヌーベはまだ気づいていなかった。
ピセアがわざとらしく窓の外を見ていた際、彼女が微笑みながら小声で呟いた一言を。
「……帰ってきたら、ブラッシング3時間の刑ですからね、フォルト、アスト」
伝説の調律師の手の平の上で、僕たちの最後の戦いが今、幕を開けた。




