決断-深夜の脱走劇
ついに元白爪もこの戦争に参加。
アニルという男の命が、マンティの無機質な鎌によって完全に刈り取られた翌日の昼。街は、表向きには「不幸な強盗殺人」という知らせに包まれていた。アイリス姉さんが憲兵団に通報したことで、現場は規制線が張られ、慌ただしい検証が続いている。
「(なんだあれは、随分と騒々しいな)」
僕は、アイリス姉さんの足元に擦り寄る一匹の「飼い猫」として、野次馬の群れに紛れていた。
「にゃあ……(ひどい匂いだ。マンティの冷たい魔力と、アニルの深淵の残滓。……それに、微かに漂うマゼンタの香気。あの剣豪、カリスも近くにいるのか?)」
風が吹き抜け、憲兵が書類を整理する際にこぼしたのか、あるいはアニルが死の間際に「誰か」へ託そうとしたのか――一枚の、泥と血に汚れた紙切れが舞った。それはひらひらと宙を踊り、僕の目の前の水溜まりに落ちた。
僕は音もなく近づき、柔らかな肉球でその紙をそっと押さえた。周囲の人間には、猫が偶然動くものに興味を示したようにしか見えないだろう。だが、僕の瞳――『狼王の眼』は、泥の下に隠された絶望を瞬時に見抜いた。
「(……なんだ、これは。暗号化されているが、僕の目は誤魔化せないぞ)」
そこにしるされていたのは、単なる軍事的な記録ではなかった。ベスパ直筆の魔力サインが刻まれた、血塗られた機密文書。
僕は肉球の下にある紙の文字を、脳内で超高速解析していく。
「(とてつもない複雑な暗号だ。ベスパの奴め、アニルにこれを持たせていたのか。ダミーか? いや、アニルが死の間際まで隠し持っていたという事実は、これが本物である何よりの証拠だ。だが、なぜ政治家との交渉にこれが必要だった……?)」
読み進めるうちに、僕の小さな体から血の気が引いていくのがわかった。
僕はとある知らせを思い出した。最近は爆破実験が行われていたことを。
そして最近になって知ったが、何者かによって冥府の羽音の第8支部が破壊されたことを風のうわさで聞いた。
「(あの事件と結び付く可能性もあるぞ......。まさか、奴の狙いがマンティが率いる『静寂の捕食者』だけじゃないのか!? 南の大陸の主要都市、住民の数、避難経路の遮断ポイント、そして魔力供給路の急所……。だとするなら、そのすべてを『放棄(焼却)』するつもりか……!?)」
アニルという唯一の「ブレーキ」を失ったことで、ベスパの狂気はついに臨界点を超えるに違いない。
あの冷酷非道すぎる人物のことだ。マンティとの縄張り争いなど、奴にとってはどうでもよくなっている。あのアホなスズメバチは、自分を「見捨てた」と信じ込んでいるこの大陸そのものを、巨大な火葬場に変えるつもりなのだ。
そして、そのリストの端には、僕が今いるこの街の座標も刻まれていた。
「にゃあ(ベスパ、貴様……。アイリス姉さんのいるこの街まで、その汚い火を向ける気か……!)」
喉の奥から、低く鋭い唸り声が漏れる。かつて「最悪の終焉」として、一軍を瞬時に首の飛ぶ「風」に変えていた頃の、凍てつくような殺気が僕のマンチカンの体を支配した。もはや、日向ぼっこをして喉を鳴らしている猶予は、一刻も残されていなかった。
-----
深夜。孤児院の中は静まり返り、アイリス姉さんの穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
僕は暗闇の中で、静かに思考を巡らせていた。
「(どうする。僕一人の力では、ベスパの軍勢を止めるどころか、街を出る前にアイリス姉さんの『お説教』の餌食になる。潜入に適任なのは……ヌーベだ)」
霧の幻術を操る『最悪の不可視』、ヌーベ。彼なら、僕が「猫の姿で丸まって寝ている」という幻影を姉さんの目に焼き付けることができるはずだ。
セーダがいれば、その鋼の糸で精巧な「身代わりのぬいぐるみ」を動かすこともできるが、彼は今、子供たちの靴下を永遠に縫い続けるという「聖母の刑」の真っ最中だ。無理に連れ出せば、メンバーの欠落がすぐにバレる。ここは、参謀のヌーベと二人だけで動くしかない。
月が雲に隠れた瞬間、僕は窓枠を音もなく蹴った。
庭の影から、一人の男が静かに姿を現す。昼間はエプロン姿で子供たちと遊んでいるスタッフの一人。だが今、その瞳に宿っているのは、かつて僕の右腕として戦場を霧に包んだ義賊としての冷徹な光だった。
「ルウさん。俺に何の用です?」
ヌーベの声は、夜風よりも低く響いた。
「(聞いてくれ、ヌーベ。ベスパが大陸を焼き払うつもりだ。これはアニルの死体から見つけた計画書の断片だ。……嘘じゃない、奴は本気だぞ)」
ヌーベは僕が差し出した(口に咥えてきた)紙の写しを、指先でなぞった。彼の表情が、一瞬で険しいものに変わる。
「……ルウさん、本気ですね。その目……ただの猫の遊びじゃない。かつての、あの『終焉』の目だ」
「にゃあ(ああ。あのアホな羽音を止めなければ、この孤児院も、アイリス姉さんも灰になる。……ヌーベ、力を貸せ)」
ヌーベは少しの間、沈黙した。彼は僕よりもずっと現実的だ。アイリス姉さんの恐ろしさを、誰よりも理解している。
「……まずは、戦闘力が極限まで弱体化したルウさんを人間の姿に戻さなければならない。あの『人間に戻る薬』……あの森の義賊コンビ、翠影双翼の二人から預かった予備が、まだ森の隠れ家に隠してあります。ですがルウさん、あの薬は魔力の揺らぎが大きすぎる。使えばすぐにアイリス姉さんや、森の管理者のピセアさんに位置がバレるでしょう。……あのお二人に見つかれば、ベスパと戦う前に、僕たちはこの世から『お片付け』されますよ」
「にゃあ(……わかっている。だから、まずはあの仕立て屋の力を借りる。彼女なら、魔力の漏洩を防ぐ細工ができるはずだ)」
僕たちは夜の闇を縫い、街の片隅にある古びた仕立て屋へと向かった。
-----
――コンコン。
仕立て屋の裏口。合言葉代わりの引っ掻き傷を三回、扉に刻む。
鍵が外れる乾いた音がして、中から暖かなランプの光が漏れた。
「……こんな朝早くから脱走してきたお客さんなんて、うちの台帳には載ってないわよ?」
呆れたような声と共に現れたのは、偽造屋のメイだ。彼女は僕をひょいと抱き上げると、工房の奥へと招き入れた。
ヌーベが真剣な面持ちで切り出す。
「メイさん。単刀直入に言うが笑い事じゃない。ルウさんの正体を隠し通すために、特別な細工が必要だ。一般人の旅行者に見える変装、それと魔力を遮断する特殊な裏地。それから……かつての道具(獲物)は揃っているか?」
メイはランプを置き、僕の首元のリボンを弄りながら溜息をついた。
「ベスパがこの街を焼き払おうとしている。ルウさんはそう確信しているんだ」
ヌーベの言葉に、メイの手が止まる。
「……あのベスパなら、やりかねないことね。郵便局のゼトさんから、ついさっき特急の『暗号チラシ』が届いたわ。月下狂牙のカリスたちも、すでにベスパの不穏な動きを察知して、直接叩きに行く準備をしてるみたいよ。……南の大陸が、火の海になろうとしてる」
「メイさん。……このことは、ほかのメンバーには伏せておいてくれ。特に、アイリスには。俺とルウさん、二人だけでカタをつけたい」
ヌーベがそう言うと、メイは手際よく僕の猫用の服――今着せられている「可愛いリボン付きの服」の裏地に、特殊な銀糸を縫い込み始めた。
「いい? これでしばらくはルンの検問も、ピセアの『全生変換』の探知も誤魔化せるはずよ。でも、薬草農家のピセアのところへ行くなら本当に気を付けて。彼女、最近『森の土を荒らす害虫』……つまり不穏な魔力に、すごく敏感になってるから」
「にゃあ(恩に着る、メイ。……ゼトには、僕たちが動いたことをアイリス姉さんたちに伝えないよう念を押してくれ。鉢合わせれば、余計な火種になる)」
僕はウサギにされたあの二人のことも思い出した。フォルトとアストのことだ。
「にゃあ(そうだ。あの翠影双翼のコンビにも知らせなければ、ペット連合を結成しなければ、あの巨悪どもをつぶすことはできない)」
「わかったわよ。……でもルウくん、アイリスさんには内緒にしてあげるけど、無事に帰ってきたら、ちゃんと『新しいお洋服のフィッティング』に付き合ってもらうからね? 今度はもっとフリフリのやつを準備しておくから」
「にゃあ……(……それはそれで死の宣告より恐ろしいな)」
メイはさらに続けた。
「幸いなことに、ロキさんの観測網では、まだ『飼い主』たちは眠りについているわ。南の大陸にいる7人の『飼い主』とかいう変な女たち……そのうちの3人は、それぞれ別の『猛者』……あなたの仲間たちを追跡中みたいだけど」
ヌーベが本気の目に変わる。
「7人か。アイリスも、ルンも含めて欺くのも大変になるな。だが、そんなことはどうでもいいだろう。まずは巨悪を止めるのが先だ」
「にゃあ(忠告、恩に着るよ。行こう、ヌーベ)」
僕は、窓の外に広がる深い森と、その先にそびえる冥府の牙城を見据えた。
猫としての安寧を捨て、再び修羅の道へ。
僕の短い肉球は、今だけは、研ぎ澄まされたアサシンの爪へと先祖返りしていた。
ヌーベと共に工房を飛び出した僕の視線の先には、ベスパが潜む焦熱の牙城、そして禁断の薬が眠るピセアの森が広がっていた。
「にゃあ(ベスパ……。お前の『放棄』を、僕の爪で『拒絶』してやる。……アイリス姉さんが目を覚ます前に、すべてを終わらせてみせる)」
僕たちにとって、平穏が奪われるほど恐ろしいと感じていることはこれ以外にない。
闇夜を駆ける二つの影。南の大陸を襲う未曾有の危機に対し、かつての最強の主従が、ついに沈黙を破った。
僕はこの先に待つピセアの森の管理者が、いかに「圧倒的な無関心」をもって、僕たちの殺意を「植物の栄養」に変えてしまうのかを一度見てきた。
あのフォルトとアストがウサギに変えられたことも一度覚えている。
アイリス姉さんが目を覚ました時、ベッドにいるはずの僕(の幻影)が消えていることに気づいた際、南の大陸の全人類がどれほどの戦慄を覚えることになるのかはどうかはまだ知る由もない。
それでも、僕は走る。
それが、一匹のマンチカンどころか、伝説の暗殺者としての、唯一の矜持だからだ。




