撤退-絶対強者の直感
僕は路地裏の湿ったゴミ箱の陰で、丸まった毛玉のようになって震えていた。
今の僕は、伝説の暗殺者でも、便利屋のルウでもない。ただの小さな、足の短いマンチカンだ。だが、かつて「最悪の終焉」と呼ばれた僕の直感は、戦場の空気が異常な変質を遂げたことを敏感に察知していた。
そこには、二つの「異常」が並び立っていた。
一つは、無機質な死の演算機、マンティ。彼は今、アニルの心臓を貫いたばかりで、その全身からは「管理」という名の冷徹な殺気が立ち上っている。
アニルの喉元を断ち切り、その命が完全に潰えるのを、マンティは無機質な瞳で見届けていた。崩れ落ちた策士の体、鏡面のように滑らかに切り裂かれた石壁、そして自身の肩から流れる一筋の鮮血。マンティにとって、これは「庭」を整理するための当然のコストであり、予定調和の結末だった。
彼は仕込み杖を突き、返り血のついた空間を自身の領域『停滞する銀世界』で塗り潰そうとした。すべての「色」と「音」を奪い、死体すらも風景の一部として処理しようとしたその瞬間――。
完璧に管理された彼のドミナンス(支配領域)に、物理法則を無視したような、あり得ない「ノイズ」が紛れ込んだ。
それがもう一つの「異常」……。
「あらあら、まあ……。お外が騒がしいと思ったら、こんなところで大きな音を立てて。建物を壊して回るなんて、お行儀が悪いですね?」
聞き慣れた、おっとりとした、春の陽だまりのような声。
アイリス姉さんだ。
「にゃあ……(嘘だろ、姉さん……。相手は『静寂の捕食者』のボス、あのマンティだぞ……!)」
僕は絶望した。なぜよりによって、こんな血生臭い「処理場」に彼女が迷い込んでしまったのか。アニルは死に、マンティの魔糸が空間を切り刻んでいる。一般人が一歩でも踏み込めば、文字通り肉片に変わる地獄だ。
マンティの動きが止まる。彼の『略奪者の選別』が、姉さんという不確定要素を解析しようと火花を散らしているのがわかる。
「……誰だ。私の管理を邪魔する不確定要素は。一般人であろうと等しく肥料にしてやるぞ」
マンティが冷たく言い放ち、姉さんの周囲に不可視の魔糸を展開した。
僕は声を上げようとした。叫んで、姉さんに逃げろと伝えたかった。でも、声が出ない。
いや、違う。僕が驚愕したのは、マンティの攻撃に対してではない。
(……え? 魔糸が、曲がってる……?)
僕の目には見えていた。ダイヤモンドさえ断つはずの死の糸が、アイリス姉さんの肌に触れる直前で、まるで意志を持つ蛇が熱い鉄板を避けるように、怯えて歪んでいるのだ。魔糸だけじゃない。マンティが展開していた固有結界『停滞する銀世界』の色彩さえも、彼女が歩く場所から順に、温かな、けれど容赦のない「日常の色」に塗り替えられていく。
「あなた、お肩を怪我しているじゃない。そんなに血を流して歩き回るなんて、子供たちに見せられませんわ」
アイリス姉さんは、血の海も、転がる肉塊も、まるで「散らかったおもちゃ」程度にしか見ていない。そのおっとりとした微笑みのまま、一歩、マンティの方へ踏み出した。
その瞬間、僕は見た。
あの、感情を排した機械のようなマンティの頬を、一筋の冷や汗が伝うのを。
「貴様、何者だ。刺客か?」
マンティの声が、わずかに震えている。
「こんなに汚れたものをまき散らして...。子どもたちの教育に悪影響が出たら、どう責任を取ってくれるの?」
姉さんの瞳が、スッと細くなった。
次の瞬間、路地裏を支配していた重圧が爆発した。魔力じゃない。それは、魂の格。生存競争の頂点に立っていると信じていたマンティという猛獣が、初めて「自分より巨大な天敵」の前に引きずり出された瞬間だった。
マンティが、武器を振り上げた。反射的な防衛本能だ。だが、彼が刃を振るうよりも早く、姉さんの背後に「何か」が見えた。般若のような、あるいは神の宣告者のような、どす黒い慈愛。
「……っ。今日の剪定は、ここまでにする」
マンティが逃げた。
あの、逃げ場を1ミリも残さない完璧なチェスプレイヤーが、戦いもせず、プライドも投げ捨てて影に溶けた。
僕はゴミ箱の陰で、あんぐりと口を開けてそれを見送るしかなかった。
「(嘘だろ姉さん……。女子会で『悪い子はしつけなきゃね』なんて笑ってたけど、本気でやっちゃったよ……!)」
マンティの気配が完全に消えた後、僕は恐る恐る物陰から這い出した。
「にゃ、にゃあ……(姉さん、何やってんの……?)」
アイリス姉さんは、崩れ落ちたアニルの亡骸の前に膝をついていた。
その背中を見て、僕は背筋が凍りついた。いつもの、ふわふわとした癒やし系のオーラが、一滴も残っていない。
「……アニルさん。あなたは、言葉という宝物を、人を傷つけるためだけに使ってしまったのですね」
彼女の声は、氷点下の静寂を纏っていた。
「外交とは、本来は手を取り合うためのもの。それを内戦の火種に変え、国家を崩壊させるなんて……。それは、せっかくもらった知恵を、泥遊びで汚してしまうよりずっと、悪いことです」
姉さんが、ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、僕は自分の毛が一本一本逆立つのを感じた。
透き通るような水色の瞳が、ボタボタと滴る鮮血のような赤へと変色していく。
――レッド・アイ・ドミナンス。
世界が赤く染まる。いや、彼女の怒りが世界の色を上書きしているんだ。
「にゃ、にゃあッ!?(始まった……ガチギレだ! 逃げなきゃ、僕まで消される!)」
僕は必死に距離を取ろうとしたが、足が竦んで動かない。
姉さんは、冷徹なまでの論理で、死者にすらお説教を続けていた。
「アニルさん、あなたは『冥府の羽音』の外交担当として、何かいろいろ考えて、計画を進めていたそうですね? 人が積み上げてきた営みを、ただの『実験の続き』としてゴミ箱に捨てるような真似……。それは、命という贈り物を、包装紙ごと燃やすようなものです。そんな無責任な大人に、私は教育者として、一言も、一秒も、猶予を与えるつもりはありません」
僕は震えながら思った。
(……姉さん、アニルの思考を読んでるのか? それとも、この短時間でそこまで察したのか……?)
アイリス姉さんは、マンティが逃げ去った虚空を見据えた。その眼差しは、すでにマンティの潜伏先すらも「管理」の下に置いているかのようだった。
「逃げても無駄ですよ、庭師さん。……あなたが壊した石壁の一片、汚した空気の重さ。そして、あなたが安売りしたアニルさんという命の責任。……孤児院の掃除が終わったら、たっぷりとお話ししに行きますからね。……覚悟しておきなさい?」
その宣告は、物理的な音を超えて、世界の因果律に刻み込まれたように感じた。
遠く離れた場所で、マンティが今頃、得体の知れない心臓の痛みにのたうち回っているのが目に浮かぶようだ。
(にゃあ……。終わった。あの管理者、もう詰んでるよ。アイリス姉さんの『教育』からは、死んでも逃げられないんだ……)
僕は、激怒の余韻を纏った姉さんの足元で、ただひたすら小さくなって震えていた。
姉さんは、僕を抱き上げると、いつもの穏やかな笑顔に戻って言った。
「さあ、ルウくん。帰りましょうか」
「にゃ、にゃあ!?(くそ、あいつを一発殴らせろ!)」
南の大陸を支配する二大巨悪。その一角を崩したアニルの死さえも、アイリス姉さんにとっては「不始末な大人の片付け」に過ぎなかった。
僕は、マンチカンの短い手足でバタバタとあがきながら、これから大陸を揺るがす「本当の戦争」の予感に、ただただ、猫としての悲鳴を上げるしかなかった。




