深淵-1.無音の解体
「やれるものならな! 構えろ!」
アニルの合図と共に、背後に控えていた護衛二名が即座に動いた。彼らは至近距離から、マンティの心臓と頭部を目がけて、特製の魔力散弾を装填したショットガンを斉射した。
――ドォンッ!!
アニルの護衛が放ったショットガンの弾丸は高精度かつ正確。普通の人間なら即死。
放たれたはずの轟音は、マンティが展開する固有結界『停滞する銀世界』に飲み込まれ、不気味なほど小さく、くぐもった響きへと変えられた。
マンティは一歩も動かない。回避の仕草すら見せない。ただ、手に持った仕込み杖の先を、コン、と軽く床に突いただけだった。
「……余計な枝葉だ。まずはトリミング(剪定)が必要だな」
ザシュッ……!!
肉が裂ける音すら、遅れてやってきた。
次の瞬間、ショットガンを構えていた護衛たちの身体が、まるで積み上げられた積み木が自重で崩れるように、バラバラの肉塊へと分解された。
彼らが引き鉄を絞り、弾丸が銃口を飛び出すよりも早く、マンティの操る「不可視の魔糸」が、原子の隙間を滑り抜けるように彼らの関節と急所を寸断していたのだ。
悲鳴も、飛び散る血飛沫の音さえも、この停滞した銀色の空間に吸い込まれていく。床に転がった護衛たちの断面は、鏡面のように滑らかに磨き上げられていた。
「なるほど。噂に違わぬ手際……貴様の実力、侮れんな」
アニルは、目の前で部下たちが標本に変わった光景を見ても、眉一つ動かさなかった。むしろ、その異常なまでの「静寂」を、ベスパの幹部である外交担当として冷静に分析し始めていた。
「……流石は『静寂の捕食者』の『庭の捕食』。私の護衛を、瞬きする間に見事な標本に変えるとは。その執刀技術、我が組織のドラアにも見せてやりたいものだ」
アニルは優雅な所作で漆黒の細剣を引き抜く。その剣身は、光を吸い込むような深い闇の色をしていた。
「……死人に、見せる必要はない。お前はこの銀世界の中から逃げられない。今日で運命が決まったと思え」
マンティの仕込み杖から、極薄かつ長大な二振りの双鎌――処刑鎌『エデン・シザー』が展開される。マンティの一歩は、距離という概念を無視した。まるでスライドショーの次のコマへ移動したかのような唐突さで、彼はアニルの懐へと踏み込む。
ヒュッ――!!
音もなく放たれた一閃が、アニルの喉元を凪いだ。
アニルは外交官としての超感覚を極限まで研ぎ澄ましていた。首筋の産毛が刃に触れ、皮膚がわずかに切れる感触。文字通り「紙一重」の回避。
「ククッ……あぶない、あぶない。今のを少しでも読み違えていれば、私の首は貴公との外交カードとして使えなくなるところでしたよ」
アニルは細剣を突き出し、マンティの喉元を鋭く突く。マンティは最小限の首の動きだけでそれをかわし、魔糸を指先で操ってアニルの死角から鎌を振り下ろす。
「……その饒舌さ。やはり、お前という存在は私の庭に咲く毒草と同じだ。美しく装おうとも、根底にあるのは秩序を乱す毒。根刮ぎ、刈り取らせてもらうぞ」
「毒草も、使い方次第では名薬になる。……もっとも、貴殿のような潔癖症の管理者には、理解できない美学でしょうがね!」
ここでアニルが驚くべき行動に出る。アニルから、先ほどまで立ち昇っていた鋭い闘気が、霧散するようにふっと消えた。
マンティの瞳が、わずかに細まる。
「なんだ?いきなり戦う気が失せたのか?」
――いや、この男。何かあるな。
激突の最中、アニルがふと剣の勢いを殺した。第三者から見れば、それは圧倒的なマンティの武威に屈し、矛を収めた敗者の所作に見えたかもしれない。だが、マンティの『マンティス・アイ』が捉えたのは、底知れぬ負の質量だった。
アニルの背後に揺らめくのは、異名『煉獄の深淵』そのもののオーラ。それはベスパの放つ「全てを焼き尽くす劫火」とは対照的な、光すら届かぬ暗黒の熱量だ。アニルはその深淵を瞳に宿し、マンティの視線を真っ向から受け止めた。
「マンティよ、我が計画に参加するというなら見逃してやろう。貴殿の『管理』への執着、我が組織の掲げる新秩序には不可欠なものだ」
アニルの瞳は、マンティという男の深淵そのものを覗き込むかのような、冷たくも執拗な光を宿している。アニルの声は、戦場に似つかわしくないほど穏やかで、しかし確かな支配力を含んでいた。
「逃げたければ、今すぐ『静寂の捕食者』が『冥府の羽音』の傘下に入るか、同盟を組むか……あるいは、この場で引退するかだ。我が主ベスパも、貴殿のような『掃除の行き届いた男』は嫌いではないはずだよ」
その台詞は彼と同格の幹部と同じような問い掛け。まるで賭博師そのものだった。
「……吐き気がするな。貴様らが作るのは秩序ではない。ただの広大な肥溜めだ。そんな安い言葉に騙されるわけがないだろう」
マンティが返したのは、一切の揺らぎがない冷徹な拒絶だった。彼にとってベスパの掲げる「放棄の焼却」も、アニルの誘う「新秩序」も、自身の守るべき「庭」を汚す害虫の羽音に過ぎない。
「やはり、言葉が通用しない相手……。外交は決裂ですか。潔癖な管理者というのは、実に融通が利かない」
アニルはあえて「隙」を装った。それは一流の外交官が交渉のテーブルで敢えて弱みを見せ、相手を誘い込む時のような、完璧な演技。
――それは、マンティの攻撃を誘うための冷徹な罠。
「ならば武力でねじ伏せる交渉の時間だ」
だが、マンティの『略奪者の選別』は、アニルのまとう『煉獄の深淵』そのものを直感的に捉えていた。
アニルの細剣が、深淵から突き出される針のように、マンティの死角から最速の一撃を放った。アニルが必殺を確信した一突き。だが、マンティはそれを「見る」までもなく、最小限の体捌きで回避してみせた。
「……ほう。音も色も、五感のすべてを剥奪されたこの銀世界で、私の刺突を避けますか」
マンティの双鎌が、アニルの首筋に冷たい刃を添える。
「五感が感じられないお前でも、直感で私を見抜いたつもりなのか? 武器一本だけで、よくやったものだな」
マンティが魔糸を操り、死角から追い詰める。だが、アニルは余裕を崩さない。
「ここから更なる交渉といくか。我々が進めている『とある実験の続き』そして『あるいは発展型』について、貴殿には知っておいてもらいたい面白い提案があるのだよ……」
アニルがそう言い残した瞬間、彼の身体がインクが水に溶けるように、周囲の影へと溶け込んだ。外交担当としての責務を放り出し、戦場そのものを放棄するかのような鮮やかな撤退。
「冥府の羽音の外交担当がいきなり逃げるとは、失礼じゃないのか?」
マンティもアニルにつられたかのように後を追う。だが両者ともに音が立たない。
(私にはまだ引き出しがあるのだよ......。)
知略の深淵を操り、国家間の内戦すら演出するアニル。
完璧なる管理を求め、世界の不確定要素を排除し続けるマンティ。
ベスパの右腕と、マンティ本人の直接対決は、回廊を無機質な「死」の閃光で埋め尽くしていく。
火花すら散らない。音が響かない。
ただ、空気が切り裂かれる微かな風切り音だけが、どちらかの命が「剪定」される瞬間を静かに待ち望んでいた。




