謀略-外交官と牧師
南の大陸、その政治の中枢を担う豪華な私邸の一室。
重厚なカーテンが閉め切られた部屋で、『冥府の羽音』の外交担当にして参謀、アニルは、肥え太った政治家たちとシャンパングラスを傾けていた。
「いやはや、アニル殿。君の提案通りに法案を操作すれば、我々の私財も地位も安泰というわけだ。マンティの連中のような堅苦しい『管理』はもうこりごりだよ」
とある政治家が、下卑た笑い声を上げながら書類に判を押す。
「ええ、当然です。あの無能な『庭師』に縛られる必要はありません。これからは、ベスパ様が提供する圧倒的な破壊と、その後の再生……つまり我々の『自由』がこの大陸を支配するのですから」
(オイマの言っていた通りだ。この豚どもは、自分が屠殺場へ向かっているとも知らずに、餌の質に文句を言っている。詐欺の天才が仕掛けた罠に、これほど綺麗に嵌まるとはな)
アニルは完璧な貴公子の微笑を浮かべながら、内心では彼らを「救済対象」にして「焼き払うべきゴミ」とも蔑んでいた。だが、ゴミとも見下したのは、自分たちへの期待を裏切る可能性もすべて計算しつくしていたためだ。交渉が終わり、政治家たちが部屋を去ると、アニルの瞳から温度が消える。彼は懐から不気味な紫色の光を放つ通信石を取り出した。
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通信石の向こうから聞こえてきたのは、厳かな聖歌の調べと、何かが軋む不快な金属音――有刺鉄線の鎖を指に巻き付ける音だった。
「……資金源の確保はどうなっていますか、オイマ」
アニルが淡々と問いかける。相手は組織の事実上のNo.2であり、狂信的な牧師として知られる詐欺の天才だ。
『ふふ、順調ですよ、アニル。愛を知らぬ強欲な富豪どもから、活動資金という名の「お布施」を回収しています。……「静寂の捕食者」だけではなく、「月下狂牙」に「蒼天の凪」……あの目障りな義賊のネズミどもに嗅ぎつかれない程度にね。これもすべて、ベスパ様の掲げる「放棄」という名の救済に必要な儀式なのです』
オイマの声には、陶酔しきったような不気味な響きがある。
「結構。……ところで、戦線離脱したビルの様子は?」
『意識は戻りましたが、まだ臥せっていますよ。あの方は「自分はチワワだ」だの、脳が焼けたような出鱈目ばかり口にしています。よほどオーガとの戦いで精神を摩耗したのでしょう。愛が足りないのですよ、愛が』
オイマはくくくと喉を鳴らし、さらに続けた。
『ああ、そうそう。ソルが「雷鳴の戦士」と戦ったと言い張っています。実験に成功し、ドラアを逃がしたのは評価しますが、結局は第8支部を潰された無能だ』
アニルは深く溜息をついた。
「……ビルもソルも、期待外れですね。そんな超常現象などあるはずがない。アソラが死んだのも、ベスパ様に隠れて、いきなりの大量虐殺という己の快楽に走った報いです。……ビルもしばらくは動けない。ならば、これ以上彼らを待つ必要はないでしょう。……もっとも、死ぬまで使い倒す道は残っていますがね」
アニルの漆黒の細剣が、月光を浴びて冷たく光る。その瞳もまた、剣のように鋭く細められた。
『おや。通話越しでも空気が震えているのが分かりますよ。何か「焼却」したいものでも見つけましたか?』
オイマが蛇のような執拗さで見抜く。アニルは短く応えた。
「……この私、『煉獄の深淵』が、マンティを殺します。あの男の気取った『完璧な庭』を、完膚なきまでに崩壊させて差し上げましょう」
『ほう、いきなり王手を打つと? 詐欺師の私でも、その直情的な殺意には驚かされますね。……理由を聞いても?』
「驚かされたとは無礼な。聞くまでもない。奴の存在は、ベスパ様のターゲット。それだけです。……偶然にも、私の監視網にその尻尾が引っかかりました」
『ふふ、あなたの冷徹な愛、期待していますよ。……放火作業、ご武運を』
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数日後。アニルは自らの直轄地である第3支部に身を置いていた。
ここは組織の裏工作と情報収集の拠点。アニルは信頼の置ける精鋭の部下たちを前に、静かに、しかし断固とした口調で命を下す。
「お前たち。マンティの裏を徹底的に調査しておけ。警備の薄れる瞬間、情報の空白地帯……すべてだ。私と側近2名の計3名で、マンティを直接殺害する。多人数での襲撃はノイズを生むだけだ」
「参謀殿、それに関連して一つ有力な情報が」
手下が、一通の報告書を差し出す。
「最近、マンティの組織『静寂の捕食者』から裏切り者が逃げ込んできたそうです。奴はマンティの過去、あるいは拠点『エデンの檻』の深部構造を知っている可能性が高い。……相当な恐怖に怯えていました。マンティの幹部、エルバに執拗に追い詰められていたとか」
アニルの口元が、歪な三日月を描く。
「裏切り者、ですか。マンティの『完璧な管理』から漏れ出た滴というわけだ。実に滑稽ですね」
アニルは報告書を手に取り、そこに記された「裏切り者」が隠伏している座標を見つめる。
「その男をこちらへ連れてきなさい。……慈悲深く迎えてあげましょう。彼の持つ情報がマンティを断ち切る楔となるなら、彼にも『放棄』の最前列に並ぶ権利を与えてあげます」
「はっ! 直ちに!」
部下たちが闇へ消えていく。
一人残されたアニルは、自身の漆黒の細剣を眺めながら、独白した。
「マンティ、あなたの築き上げた箱庭を、私という外交官が最前列で看取ってあげましょう。……その首をベスパ様への手土産にするために」
しかし、アニルはまだ知らない。
彼が追っている「裏切り者」が、あの庭師の冷徹な正義だけでなく、大陸を裏から支配し始めた「お姉さんたちの聖域」に触れてしまったがゆえに逃げ出したのだという真実を。そして、その裏切り者を追うエルバの影に、あの庭師が混じっていることも。
南の大陸の利権と命運が、外交担当の細剣によって切り裂かれようとしていた。
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数日後。
第3支部の石造りの回廊は、冷徹な月光に照らされていた。密談を終えたアニルは、二人の精鋭護衛を従え、コツ、コツと規則正しい足音を響かせながら歩いていた。彼の脳内では、確保した裏切り者から引き出した情報をもとに、マンティをいかに「外交的失脚」と「物理的死」の双方に追い込むかという、完璧な盤面が組み上がっていた。
だが、その瞬間。
世界の「音」が、不自然なほど唐突に消失した。
自分の足音さえも聞こえなくなり、空気の振動が完全に止まる。アニルの肌に、氷の刃を直接押し当てられたような、鋭利で無機質な殺気が走った。
「……出てこい。そこにいるのだろう? 隠れんぼを楽しむには、少々殺気が尖りすぎている」
アニルは立ち止まり、漆黒の細剣の柄に指をかけた。回廊の突き当たり、影の濃い一角。そこには、一本の仕込み杖を手に、彫像のように佇む男がいた。
「……おや、外交官殿。随分と不衛生な話し合いをされていたようだ。私の庭を汚す雑草の手引きなど、管理責任を問わざるを得ないな」
影の中からゆっくりと歩み出たのは、組織の首領――マンティ。その瞳には感情の欠片も宿っておらず、ただ「不要な枝」を見定める園芸師のような冷徹さだけが湛えられていた。
「ようこそ、待っていたぞ。マンティ。わざわざ首領自らお出ましとは、私の首にそれほどの価値があると認めてくれたわけだ。我々の邪魔をするなら今日ここで消えてもらう」
アニルが不敵に微笑む。対するマンティは、杖を静かに構え直した。
「お前を殺せば、冥府の羽音の信頼関係は地に落ちるだろう。……ベスパの羽を一枚ずつ、丁寧に毟らせてもらうよ」
『庭の捕食』マンティ。略奪を憎む捕食者を体現させる理念を持ったのような化け物と漆黒の刀の使い手の戦い。
この戦いは、最悪の悲劇を超えた何かが始まろうとしていたことになると誰も予想はできなかった。




