原罪-沈黙する箱庭
今回はマンティの過去回です。なぜ彼が闇落ちしたのか?
私の部屋には、空気の振動さえも拒絶するような静寂が支配していた。
南の大陸の闇を統べる組織『静寂の捕食者』。その拠点の最奥に位置する執務室は、光の屈折率から塵一つの堆積に至るまで、主である私の計算によって管理されている。
私は、完璧に磨き上げられた黒檀の円卓の端に指を滑らせた。鏡面のように仕上げられたその表面には、私の冷徹な貌が映り込んでいる。
だが、その円卓には耐え難い不規則性が存在していた。
二つの、空白の椅子だ。
右腕として私の「解体」作業を支えていたオネブ。そして、庭の異変を告げる「警笛」たるオーガ。
一人は報告によれば、標的の整理を完遂できぬまま、月下狂牙の死神に刈り取られたという。そしてもう一人は、戦場の霧の向こうへ消え、音沙汰がない。
「……オーガめ。貴様まで役割を放棄したか」
私は独り言ちた。その声は反響することなく、壁の遮音材に吸い込まれて消える。
オーガが裏切ったのか、あるいは義賊の連中に無様に討たれたのか。どちらにせよ、私の管理から外れた時点で、彼は「不要な枝」に過ぎない。組織という名の巨大な樹木を維持するためには、枯死した枝は速やかに切り落とされるべきだ。代わりの刺客として、既にルードを投入している。枝は常に新陳代謝を繰り返すものであり、個々の生死に意味などない。
だが、前線からの報告は私の眉をひそめさせるに十分なほど支離滅裂だった。
『執行官に睨まれて動けない。その女は説教でいきなり有罪判決を下す』
『庭師が花に水をあげたいと言って邪魔をする』
――笑止千万にもほどがある。
私の築き上げた、一分の隙もないはずの「管理された庭」に、これほどまでの不確定要素が紛れ込んでいるという事実は、私の美学に対する冒涜に他ならなかった。
私は椅子から立ち上がり、壁に掛けられた古びた一枚の絵画に歩み寄った。
額縁の金箔が剥げかけたその絵には、現実の過酷さとは無縁の、美しく調和の取れた「小さな庭」が描かれている。指先でそのキャンバスをなぞると、指先に微かなざらつきを感じた。
「不確定要素、か。もしそれが実在する超常現象だというのなら、興味深い。だが、私の庭を荒らす雑草であることに変わりはない。……抜かなければな。根こそぎだ」
網膜の奥で、数十年前に凍りついたはずの、どす黒い記憶が蠢き始めた。
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―数十年近く前。まだ私が「マンティ」という名さえ持たず、泥を啜って生きていた頃の話だ。
辺境の名もなき貧しい村。そこが私の世界のすべてだった。
外の世界は常に無秩序な暴力と飢えに満ちていたが、私はその混沌を憎んでいた。
私には幼い頃から、一つの才能があった。
土の声を聴き、種の鼓動を感じ、無秩序な荒野を秩序ある美へと変える才能。
私は家の裏にある、石ころだらけの荒地を一人で耕し続けた。
朝露に濡れる土の湿り気を指先で確かめ、色とりどりの花を植え、蝶の羽休めとなる小石をミリ単位の精度で配置する。そこには、弱肉強食の外界から切り離された、完璧な「秩序ある庭」が存在した。
その場所だけは、私にとって自分自身をコントロールできる唯一の聖域だった。
「見て、お母さん。この花は太陽を追いかけるんだよ。教えたわけじゃないのに、みんな一斉に同じ方向を向くんだ。綺麗だね」
幼い私の声に応え、母の温かな手が頭を撫でた。
「ええ、本当に綺麗。……あなたは、この庭を誰にも奪われないように守る、小さな騎士ね」
その言葉が、私の核となった。
暴力、飢え、略奪。それらが蔓延する外の世界など、この垣根の内側には一歩も入れさせない。私はこの平穏を管理し、守り抜くのだと、幼い心に誓っていたのだ。
だが、その誓いは、暴力という名の巨大な足によって無惨に粉砕されることになる。
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静寂は、あまりにも唐突に、そして一方的に踏み荒らされた。
領土拡大を目論む、強欲な権力者の軍勢。彼らにとって、私たちの村は戦略上の価値すらない、単なる「通り道」に過ぎなかった。
その日の夕暮れ、薪を拾って戻った私の目に飛び込んできたのは、空を焦がす黒煙だった。
「……なんだ、これは」
駆け寄った私の視界の中で、丹精込めて育てた庭は軍馬の蹄で泥にまみれ、花々は兵士たちが放り投げた松明で黒く焼かれていた。
そして――。
私を「騎士」と呼んだ両親も、略奪者の気まぐれな刃によって「清掃」されていた。
地面に転がる母の指は、私が朝に手渡した花をまだ握りしめたまま、軍靴で無残に踏みつぶされていた。
権力者たちは、燃える家々を背に高笑いしていた。
「ハハハ! こんなゴミ溜め、更地にしたほうがマシだ。価値のないものは、踏み潰して道にするに限る!」
価値がない?
私が血の滲む思いで育て、管理してきた世界のすべてを、彼らは一言で「ゴミ」と断じたのか。
彼らが笑いながら燃やしているのは、単なる草木ではない。命だ。私の魂そのものだ。なぜ、奴らは平然と、悪びれもせずにいられるのか。
瓦礫の中に立ち尽くした私は、涙を流さなかった。
涙は視界を曇らせ、効率的な排除を妨げる「雑草」に過ぎないからだ。
私の心の中で、何かが音を立てて死に、代わりに冷徹な真理が芽吹いた。
『無能な管理こそが、略奪というノイズを招くのだ』
守るべき力がないから奪われる。奪う奴らが存在するから秩序が乱れる。ならば、奪う者そのものを、その種子ごと根絶やしにする「完璧な管理」を行えばいい。
奪う者は害虫だ。害虫に慈悲をかける農夫はいない。
私は落ちていた農具を握りしめ、笑い転げる兵士たちの背後へ、音もなく忍び寄った。
その時、私の喉から漏れたのは、自分でも驚くような、獣じみた咆哮だった。
「死ねぇええええ!! 死ね! 貴様ら、人間じゃない! 庭を汚す害虫だ!! 一匹残らず……削ぎ落としてやる!!」
それは、後にも先にも一度きり、私が感情という名の激情に身を任せた瞬間だった。
返り血で視界が真っ赤に染まり、略奪者たちの悲鳴が静寂に変わるまで、私は手を止めなかった。
害虫を処理する冷徹さよりも、奪われたことへの復讐心。その泥臭い感情が、私を突き動かしていた。今思い出しても、心底から胸糞が悪い。感情などという不確定要素に身を委ねるなど、管理者の風上にも置けない失態だ。
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その後、私は裏社会へと身を投じ、先代のボスにその「剪定の才能」を見出された。
『静寂の捕食者』。その名の組織に入団した私は、まず組織内に巣食う「略奪者」どもを丁寧に剪定していった。
先代は私を褒めたが、彼は私をただの便利な駒としか見ていなかった。
彼の目を見ればわかる。彼自身もまた、自分の手柄を横取りし、私欲を満たそうとする「略奪者」の本質を秘めていた。
私の予想通り、先代の管理は甘かった。
とある外道貴族の私欲による略奪を、目先の利益のために黙認し、組織に致命的な「ノイズ」を紛れ込ませたのだ。彼が戦死したとき、私はその汚れた椅子を、冷ややかに引き継いだ。
「ボス、あなたの管理も甘すぎたようだ。……だが、私の理念は揺るがない。私がこの大陸を、二度と誰にも奪われない、完璧な『静寂の庭』に変えてみせる」
恐怖と効率。それこそが、略奪という病を未然に防ぐ唯一の肥料だ。
現在、組織内における私の支持率は9割を超えている。残りの1割は、いずれ剪定されるべき予備軍に過ぎない。
私は、自分がこの南の大陸を管理する唯一の正当なる主人になれると確信している。……いや、これは確信ではない。私が執行すべき「予定事項」だ。
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回想が終わり、執務室に再び「静」が戻った。
私の瞳には、あの日以来凍りついたままの虚無が宿っている。
壁に立てかけた仕込み杖を手に取り、その感触を確かめる。
ベスパという名の、すべてを焼き払うだけの野蛮な炎。あのような無秩序な破壊は、管理の対極にある。
カリスという名の、偽善に満ちた死神の香気。
そして、前線を混乱させている得体の知れぬ「お姉さん」たち。彼女たちが何者であろうと、私の庭に勝手に入り込み、秩序を乱すのであれば、それは「不法侵入者」だ。
「略奪者は、例外なく排除する。私の庭に、これ以上の汚濁は必要ない」
指先で銀時計の蓋を閉じる。
カチリ、という微かな金属音が、遮音された部屋の中に響いた。それは南の大陸全土へ向けられた、不可視の処刑の合図だ。
「ベスパ、お前の『放棄』など、私にとっては処理すべきノイズに過ぎん。首を長くして待っているがいい」
私は、処刑鎌『エデン・シザー』の重みをその手に感じながら、闇に沈む南の大陸へと視線を向けた。
一歩踏み出し、一度腕を振るう。
それだけで、すべてのノイズを永遠の沈黙へと誘ってやる。
私の庭に、もう二度と「略奪」という不条理は許さない。
たとえ、そのために大陸すべての命を剪定することになったとしても。




