境界線-猫の眼差し
夜風が、僕の短い白毛を優しく撫でていく。
僕は今、街で一番高い時計塔の頂上、その鋭く尖った屋根の縁に座り込んでいた。マンチカンという、重心が低く短足な体躯は、かつてハヤブサの急降下のごとく戦場を縦横無尽に駆け抜けた僕の肉体とは似ても似つかない。しかし、研ぎ澄まされた五感――『狼王の眼』だけは、今も僕の脳裏に世界の残酷な真実を、あまりに鮮明に映し出していた。
南の空が、不吉に赤く燻っている。
立ち上る煙の焦げ臭い粒子、大気を震わせる微かな魔力の残滓。それは、破壊の化身たちが引き起こした爆炎の跡だ。戦場から数キロメートル離れたこの場所まで、絶望の熱波が届こうとしている。
「にゃあ(……オネブの気配が完全に消えたな。カリスたちの手際か、あるいはベスパ側が口封じにトドメを刺したか。どちらにせよ、これでマンティ側の戦局に大きな影響が出たか...)」
僕は喉の奥で、自分でも情けなくなるほど高い声で鳴いた。
かつての僕は、この程度の戦況の変化など、チェス盤の駒が一つ消えた程度にしか感じなかっただろう。一振りで空間を断絶し、三万人以上の命を刈り取ってきた「最悪の終焉」――それが僕、ルウの裏の顔だった。
けれど、今でもだ。僕にとって守るべきは、国家の存亡でも組織の利権でもないのは義賊時代の頃から変わらない。
この街に流れる穏やかな静寂。そして、僕を「可愛いルウくん」として、その温かい胸の中に抱きしめてくれるアイリス姉さんの笑顔。それだけが、今の僕にとっての「聖域」であり、全存在を賭して守るべき唯一の光なのだ。
「にゃあ(……それにしても、ティルの野郎。あのルンさんのハンドバッグの中で震えてる場合じゃねえぞ。未曾有の嵐がすぐそこまで来てるってのに)」
かつての宿敵にして、時には背中を預け合ったこともある豪胆な虎。時速四〇〇キロの僕の刺突を野生の勘だけで弾き飛ばしたあの男が、今はチワワの姿で「静寂の修行」に耐えている。その姿を想像すると、微かな同情が胸をよぎる。……いや、イチゴのフリフリドレスを着せられていた僕に、人のことを言える権利など万に一つもないのだけれど。
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数日後の昼。
時計塔を滑るように下り、僕は見慣れた孤児院へと足を向けた。
そこには、外の世界で繰り広げられている血みどろの抗争が嘘であるかのような、信じられないほど「平穏」で、かつ「異常」な光景が広がっていた。
「ルンさん、お仕事お疲れ様です。最近、南の空がよく赤く染まっていますけれど……お忙しいのではないですか?」
アイリス姉さんが、いつものおっとりとした微笑みを浮かべながら、特製のアロマティーを注いでいる。湯気とともに漂う柔らかな香りは、外で数万人が命を奪い合う戦争が起きていることなど、まるで別世界の出来事のように感じさせる。
対面に座っているのは、大陸法秩序維持機構の特別執行官、ルンさんだ。
知的な眼鏡の奥で、凍てつくような鋭い瞳を持つ彼女は、アイリス姉さんの前でだけは、わずかにその険しさを和らげている。だが、その背後に漂う威圧感は、並の戦士なら対峙した瞬間に心臓が跳ね上がり、気絶しかねないほどに鋭利なものだ。
「ええ、少し『マナーの悪い野犬』が近所で暴れているようで。……ですが心配いりません、アイリスさん。法に背く者、秩序を乱す者には、それ相応の『更生プログラム』を……法的、かつ物理的に用意してありますから」
ルンさんの口から出た「物理的」という不穏な単語に、僕は背筋が凍るのを感じた。
――更生? 本気で言っているのか、あの鉄の女は。姉さんに続いてあの女まで?
無理だ。絶対にあり得ない。僕が知る限り、今この大陸を震撼させている連中の辞書に「更生」の二文字など存在しない。奴らは「邪悪」という概念を極限まで煮詰め、人の形に成したような化け物揃いだぞ。
「あら、それは心強いです。……でも、もしその方たちが、子供たちのお昼寝や健やかな眠りを妨げるようなことがあれば……私、少しだけ『お話』をしに行かなくてはいけないかもしれませんね」
アイリス姉さん、お願いだから微笑んでる場合じゃない。姉さんが「少しお行儀が悪い」程度に思っている相手は、一振りで軍隊を消滅させ、国家を地図から消し去るようなSSS級の指名手配犯なんだ。
この陽だまりのような平和すぎる空間と、壁一枚隔てた外側で起きている凄惨な現実。その絶望的なまでの乖離に、僕の脳の演算処理はとっくに限界を迎えていた。
アイリス姉さんがニコリと笑った、その瞬間。
僕の全身の白い毛が、まるで電気を流されたかのように逆立った。
『狼王の眼』が、過去のどんな死闘でも鳴らしたことのない最大級のアラートを脳内に叩きつける。空間の密度が異常なほどに急上昇し、物理的な温度が数度下がったかのような錯覚。
驚くべきことに、あの「剛の狂気」を体現するルンさんですら、姉さんの放つ底知れない「柔の狂気」を前に、無意識に背筋を正し、ティーカップを持つ指先を微塵の乱れもない位置へと修正しているのが分かった。
僕は心の中で絶叫した。
(嘘だろ……。姉さん、今外で暴れてるのは、マジで国を二つ三つ纏めて消し飛ばすレベルの大悪党なんだよ! 姉さんの身が危なすぎる……いや、違う、逆だ。次元が違いすぎて、あいつらの方が姉さんの『お話』という名の概念破壊で、この世から消滅させられる未来しか見えない……!というかルンさんもルンさんだぞ!)
この二人が平然とお茶を飲んでいること自体が、この大陸において最大級の異常事態なのだ。僕は冷や汗を拭う(猫なので実際には舐めるだけだが)思いで、せめて僕だけでも、この「聖域」に泥を塗ろうとする不届き者を事前に排除しなければと、改めて決意を固めた。
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ある晴れた日の午後。僕は「散歩」という名目のパトロールに出かけていた。
アイリス姉さんの孤児院から数ブロック離れた、陽だまりの落ちる静かな路地裏。そこに、一匹のアフガン・ハウンドが佇んでいた。
気品のある長い毛並み、モデルのように優雅な立ち姿。一見すれば高級住宅街の愛犬にしか見えないが、僕の『狼王の眼』は騙せない。その犬からは、不自然なほど濃密な、それでいて「絶望」に塗りつぶされた魔力の残滓が漂っていた。
「にゃあ(……なんだ、あの犬は? 纏っている魔力量が尋常じゃない。ただの魔獣ですら、あんな密度は持っていないはずだ)」
僕は足音を消し、路地裏の影に身を潜めて観察を続けた。
そのアフガン・ハウンドは、一点を見つめたまま彫像のように動かない。その瞳に宿っているのは、犬らしい無邪気さなど微塵もなく、すべてを失い、圧倒的な絶対者に屈した人間特有の「哀愁」だった。
さらに、その犬が放つ微かな空気の振動。……これは、高周波の共鳴か?
僕の脳内データベースが、かつて目を通した『444人リスト』の機密情報を瞬時に検索し、一つの答えを導き出す。
国家転覆組織『静寂の捕食者』の幹部。一瞬で数万人の脳を焼き切り、精神を廃人にする音波の怪人。
「にゃあ(……まさか。この気配、マンティの右腕……『庭の警笛』オーガか!?)」
僕は思わず声を漏らしそうになった。
まさか、僕たち義賊側だけでなく、あの救いようのない巨悪の幹部までもが、誰かに「しつけ」られているというのか。
かつての僕なら、正体を察知した瞬間に影を渡り、その喉笛を鋼線で掻き切っていただろう。けれど、今目の前にいる彼は、僕やティルと同じ、あるいはそれ以上に深い「敗北者」の顔をしていた。
「にゃあ(……お前も、誰かに心を折られたのか。一体、誰が、あの怪人をここまで無害な犬に作り替えたんだ……?)」
僕がその正体に驚愕し、戦慄していた時。背後から、綿菓子のように軽やかで、それでいて逃げ場のない足音が聞こえてきた。
僕は冷や汗を流しながら、情けなく尻尾を振るアフガン・ハウンド(元・国家転覆の主導者)と、聖母のような微笑みを浮かべるルピナさんを交互に見つめることしかできなかった。
ルピナさんがジョウロの水を汲み直すために、わずかに席を外した隙。
路地裏に落ちる陽だまりの中で、僕と、その優雅すぎるアフガン・ハウンドは対峙した。
僕は周囲に人の気配がないことを『狼王の眼』で再確認する。
――死角なし、熱源なし、殺意の反応なし。
僕は、可愛い飼い猫の仮面を脱ぎ捨てた。
かつて三万人以上の命を刈り取った「最悪の終焉」としての鋭い殺気を、その小さな青い瞳に宿らせる。
「にゃあ(……マンティの犬。お前はオーガだな?とぼけても無駄だ。その魂の形、歪んだ魔力の波長……隠せていないぞ。なぜそんな姿で、こんな場所で日向ぼっこなんてしている。答えろ。さもなくば、その長い耳を根元から削ぎ落としてやる)」
僕の鳴き声には、もはや猫の愛嬌など欠片もなかった。それは、戦場に響く死神の宣告そのものだった。
半分は威嚇、半分は純粋な警戒だ。
僕はティルのような「お馬鹿なライバル」とは仲良くできても、無実の民を「管理」の名の下に蹂躙するマンティの巨悪どもと傷を舐め合うつもりはない。
ペットにされたからといって、僕たちの間に友情が芽生えるなど万に一つもないのだ。
だが、僕の刺すような威圧感に対し、アフガン・ハウンド――かつての『庭の警笛』オーガは、怯えるどころか力なく首を垂れた。その瞳には、戦う意志さえ枯れ果てた、底なしの虚無が広がっていた。
「……クーン(……やはり、貴公だったか。『最悪の終焉』ルウ殿。……無残なものだろう。笑いたければ笑うがいい。今の私は、あの『庭師の女』に精神を剪定され、この獣の身へと堕とされた、ただの愛玩動物だ)」
オーガの声は、喉を震わせる微細な魔力振動となって僕の脳内に直接響いた。そこには、かつて南の大陸を震撼させた武人としての矜持は、微塵も残っていなかった。
「(……どうする? 引っ掻きたければ引っ掻けばいい。噛みたければ噛むがいい。私はもう、貴公にやり返すつもりも、牙を剥く気力もないのだ。あの女に触れられた瞬間、私の積み上げてきたすべては『不要な枝』として切り落とされたのだから……)」
僕は言葉を失った。あのオーガが、これほどまでに打ち砕かれている。ルピナさんの「しつけ」が、どれほど深淵に近いものかを物語っていた。
「にゃあ(……ふん、情けない。それよりも、お前たちはなぜ『管理』とやらを始めたんだ。ベスパとの戦争を仕掛けて、この街を、この大陸をどうするつもりだったんだ?)」
僕の問いに、オーガは遠くを見つめるような目で答えた。
「(……戦争か。我々にとって、あれは戦争ではない。ただの『清掃』だったのだ。マンティ様は、この世からあらゆる『略奪』を根絶しようとされていた。ベスパのような、力で奪うだけの暴力装置を排除し、世界を完璧な『管理された庭』に変えるために……。あの方は、不純物を許せなかったのだよ)」
「にゃあ(管理された庭に変える作業だと? お前たちのせいで悲鳴を上げる人々がどれほどいると思っている。それを清掃だと言うのか。それは、言葉を着飾っただけのただの侵略、ただの戦争じゃないか)」
僕の『狼王の眼』が鋭く細まる。弱者を救うために剣を振るってきた僕にとって、その独善的な理屈は反吐が出る。
しかし、オーガの振動が、悲しみと畏敬の混じった複雑なリズムで刻まれる。彼は、主であるマンティが抱える、あまりにも深い心の闇について語り始めた。
「(……知っているか、ルウ殿。マンティ様がなぜ、これほどまでに『略奪』を憎むのか。……あの方はかつて、名もなき貧しい農家の子だった。飢えに耐えながらも、家族と協力して丹精込めて育てた小さな花園。それが、あの方の唯一の心の拠り所だったのだ)」
オーガの大きな体が、細かく震える。
「(だがある日、すべてが壊された。強欲な権力者の気まぐれな略奪によって、花園は踏みにじられ、愛する家族も……すべてを奪われた。あの方は、奪われる恐怖と、奪う者への憎悪を、幼い魂に焼き付けすぎてしまったのだ)」
僕は、黙ってその言葉を咀嚼した。
『奪われる前に、奪う害虫を絶滅させる』。
それがマンティの掲げる、あまりにも純粋で、それゆえに逃げ場のない冷徹な正義。彼は、世界そのものを自分だけがコントロールできる「完璧な庭」に閉じ込めることでしか、自らの平穏を守れなくなった狂気の人。ベスパとの戦争も、彼にとっては領土争いではなく、庭に沸いた害虫を駆除する「必然」でしかなかったのだ。
「(あの方は、ただ静寂を求めておられる。誰も傷つかず、誰も奪われない、完璧な秩序を。……だが、そのために払われる犠牲を、あの方はもう数えることをやめてしまわれた)」
オーガの告白が終わり、路地裏に重苦しい沈黙が降りた。
かつて僕も、弱者を救うために「最悪の終焉」という死神の名を背負った。マンティの狂気が、あまりにも純粋な絶望から生まれていることを知り、僕は複雑な思いで茜色に染まり始めた空を見上げた。
「にゃあ(……完璧な管理、か。……だがな、オーガ。そんな窮屈な庭に、あの子の笑顔は咲かないぞ)」
だからなんだ。そんな身勝手な理由で戦争を起こしていい理由にはならない。
僕の脳裏に、泥だらけになって子供たちと笑い転げるアイリス姉さんの姿が浮かぶ。
予測不能で、無秩序で、けれど温かい。そんな日々の輝きを、番号で管理された標本箱のような世界で再現することなんて、絶対に不可能なんだ。
「にゃあ(……お前の主が、姉さんの庭を荒らしに来るというのなら。僕は猫の姿であろうとなかろうと、あいつの喉笛を噛みちぎる。それが、僕の選んだ『しつけ』だ)」
僕が低い声でそう言い放った時、角の向こうからのんびりした声が聞こえてくる。
「オーガさーん、お待たせしました!」
ルピナさんののんびりとした声が聞こえてきた。
オーガは、先ほどまでの沈痛な表情を瞬時に消し、従順なアフガン・ハウンドの顔に戻って尾を振った。
「……クーン(……忠告に感謝する、ルウ殿。だが、今の私には……あの方のリードを引くことは、もう叶わないのだ)」
「あら、そこにいたのね。オーガさん、もうお散歩の時間は終わりですよ?」
振り返ると、そこにはアンティークなジョウロを手にした、一人の女性が立っていた。移動花屋を営むルピナさんだ。彼女は僕を見つけると、ふわりと、あまりにも優しく微笑んだ。
「あら、ルウくんも遊びに来てくれたの? アイリスさんのところのいい子ね。オーガさんと仲良くしてあげて?」
僕は戦慄した。このアフガン・ハウンドを……あのオーガを「お散歩」という名の支配下に置いているのは、このおっとりとした園芸好きのお姉さんなのか。
奴はとんでもない巨悪、世界の敵だぞ。それなのに、なぜ彼女の指先一つで、ただの忠犬に成り果てているんだ。
彼女の手にあるジョウロから滴る水が、僕には「世界を剪定するための劇薬」に見えて仕方がなかった。
(だめだ。この街の『お姉さん』たちは、僕たちが今まで信じてきた世界の理を、根底から壊しすぎている……!)
僕は影に紛れ、再び時計塔の方へと走り出した。
マンティの過去、その歪んだ正義。そして、それを「剪定」しようとする飼い主たち。
南の大陸を揺るがす嵐の予感に、僕の爪が、無意識のうちに鋭く突き出ていた。




