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最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第5部-冥静戦争開幕、三大組織の滅亡
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帰還-月下狂牙の絆


スラムの夜空は、沸騰した血液のような赤に染まっていた。

廃工場の爆縮音が、湿った夜風に乗って重く響き渡る。立ち上る黒煙の向こう側では、静寂の(サイレント)捕食者(・プレデター)の幹部、オネブが引き起こした凄惨な人体実験の証拠が、エナガの狂気に満ちた哄笑とともに灰へと変わりつつあった。


カリスとガーネは、影を縫うようにして複雑な路地を駆け抜けていた。


「……カリス姉さん、大丈夫……?」


ガーネの声が、荒い呼吸に混じって震える。

カリスは答えなかった。いや、答える余裕がなかった。マゼンタ色の装束は、返り血と彼女自身の鮮血でどす黒く変色している。右肩には深い裂傷があり、一歩踏み出すごとに焼けるような激痛が神経を走った。しかし、彼女はその苦痛を、自身の魔力であるマゼンタの香気で無理やり麻痺させていた。


二人が『月下狂牙』の秘匿アジトである古い石造りの地下聖堂へと滑り込んだのは、月が雲に隠れた刹那のことだった。


-----


アジトの奥、冷たい湿気を帯びた広間には、一人の男が静座していた。

宝石細工師としての繊細な指先を持ちながら、一撃で城門を両断する大太刀『紅蓮石』を操る剛剣使い――ルビである。彼は傍らに置いた刀の柄からゆっくりと手を離し、重い沈黙を破った。


「……無事か、リーダー。ガーネも。あの爆弾魔の賭博好きに、深追いはしなかったようだな」


41歳。メンバーの中で唯一家族を持つ彼は、その慎重さゆえに、常に戦況を冷静に俯瞰している。安堵の溜息を漏らしながらも、彼の鋭い眼光は二人の負傷箇所を瞬時に見抜いていた。


「なんとかね。……でも、オネブは仕留めたわ」

カリスが壁に背を預け、ずるずると座り込む。彼女の愛刀『狂牙マゼンタ』が鞘に収まる際、チリリと高い金属音を立てた。


ガーネは、自身の右腕を慎重にさすった。オネブの放った不可視の刃によって、一度は神経をズタズタに引き裂かれた腕だ。無理やり魔力で繋ぎ直してはいるが、指先の震えが止まらない。


「……終わったんだ。アイツの『解体』は……あの非道な人体実験は、もう二度と行われない。あんな地獄、二度と誰にも見せちゃいけないんだ」


ガーネの言葉には、憤怒と悲哀が混じっていた。幼少期にカリスに拾われた彼にとって、弱者を弄ぶ「解体」という行為は、自身の根源を否定されるに等しい冒涜だった。


「ご苦労だった。だが、状況はさらに不気味な方向へ動き出している」


ルビが重々しく口を開く。


「ベスパの右腕であるビルが、オーガとの死闘の末に戦線を離脱した。ここまではいい。問題は、そのビルと互角に渡り合ったはずのオーガの行方だ。死体も見つからず、生存の痕跡もない。まるで、この世の理から煙のように消え失せちまったみたいにな」


「消えた……? あの巨体が?」


ガーネが眉をひそめる。


「不自然すぎるわね」カリスが呟いた。「……まさか、噂に聞く『飼い主』の介入かしら」


「飼い主?」


ルビの問いに、カリスは数日前の記憶を辿った。


「以前、街の市場でアイリスという保育士の女性に遭遇したの。ただの一般人、おっとりとしたお姉さんにしか見えなかったけれど……。私の殺気が、彼女の周囲数メートルに入った瞬間、霧のように霧散したのよ。隙がないというより、そもそも『戦う』という概念そのものが彼女の前に存在しないような……。あんな気配、魔王を相手にした時ですら感じなかったわ」


ルビは腕を組み、深く考え込んだ。


「飼い主、か……。実は、俺の知人ティルからも妙な噂を聞いている」


「ティルって、あの『焔牙騎士(フレイムファング)(フレイムファング)』のリーダー? あの歩く災害が、何か情報を?」

ガーネが食いつく。ティルとルビはかつての戦友であり、実力においても伯仲する破壊の化身だ。


「ああ。あの豪胆極まりない男が、最近は南の大陸の執行官、ルンという女の前で、チワワのように震えて正座させられていたらしい」


「は……? 正座?」


ガーネが、あまりの馬鹿馬鹿しさに吹き出した。


「冗談でしょう。あのティルですよ? 城壁を素手で粉砕して、三日三晩ルウとやり合ったあの怪物が、たかが法執行官の女一人に……?」


「それが冗談ではないんだ」


ルビの表情は真剣そのものだった。


「法と論理、そして圧倒的な『魂の格』。彼女たちは、暴力という言語を解さない怪物を、別の次元の力で支配する。もし彼女たちがこの『冥静戦争』を不快な騒音だと判断すれば……ベスパもマンティも、そして義賊を自称する俺たちも、まとめて『再教育』の対象にされる可能性がある...」


ルビの言葉に、カリスは不快感を露わにして振り返った。

「何を言っているの? 今は戦争中よ。あの二大巨悪に対して『再教育』なんて甘い言葉、論外じゃない。奴らは一般人にも容赦しない、救いようのないクズなのよ」


その時、闇の中からもう一人の影が歩み寄った。

元貴族の華道家、フロスである。彼は仕込み鞭剣『散花』の刃を磨きながら、鼻で笑った。


「カリスさん、何を深刻なことを。例えその『飼い主』とやらがどれほど異質だろうと、人間である以上は呼吸をしている。我々『月下狂牙』の剣が届かずとも、あなたの調香があれば十分でしょう?」


フロスは優雅な所作で一輪の枯れた花を弄んだ。


「魔王や勇者の加護すら切り離すあなたの剣聖の力。それに加え、吸わせるだけで記憶を消去し、廃人にも、忠実な人形にも変えられる薬香がある。証拠など残さず、記憶ごと闇に葬ればいいだけのこと。直接殺める必要すらない。義賊としてのポリシーにも反しませんよ」


カリスは窓の外を見つめた。そこには、赤く染まった雲を裂いて、白く冷徹な月が顔を出していた。


「……そうね。私たちは止まれない。法が裁けない悪がのさばる限り、このマゼンタの刃を収めるわけにはいかない」


彼女たちは確信していた。自分たちの技は極致にあり、どのような相手であっても「対処」は可能だと。自分たちが築いてきた「影の英雄」としてのプライドが、根底からの恐怖を否定させていた。


しかし、彼女たちはまだ、決定的な事実を知らない。

かつての同業者、ティルが現在、ルンのハンドバッグの中で「静寂の修行」という名の絶望に直面していることを。

そして、自分たちが「対処」しようとしている香りが、飼い主たちにとっては「少し鼻につく芳香剤」程度にしか感じられないであろうことを。


「行こう。次の標的は決まっている」

カリスが立ち上がる。重傷の身体が悲鳴を上げるが、それを精神力で圧し潰す。

月下狂牙の絆は、決戦を前に一段と固く結ばれた。しかし、その絆すらも、やがて訪れる「最強のしつけ」の前には、細い糸に過ぎないということを、この時の彼女たちは知る由もなかった。


冥静戦争の戦火は、まもなく「法」と「情」という名の絶対的な暴力によって、強制的に鎮火されようとしていた。

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