依頼2-3.均衡の破壊
崩れ落ちるガーネを背後に庇い、カリスの立ち姿が陽炎のように揺らめいた。彼女の足元から、同心円状にマゼンタ色の霧が爆発的に広がっていく。
『紅蓮の香界』
それは、吸い込んだ者の脳に直接「死の幻覚」を植え付ける、調香師カリスの絶対領域。廃工場内の湿った空気は、一瞬にして濃厚で甘ったるい、それでいて肺の奥を焼くような刺すような香気に支配された。
「……私の前で呼吸をすること。それがすでに死へのカウントダウンだと言いましたよね。あなたの『精密』も、私の香りの前ではただのノイズに過ぎません」
オネブの表情が、初めて苦悶に歪んだ。検死官として完璧に把握していたはずの距離感、心拍、血流の音。それらすべての「解剖図」が、網膜に張り付くマゼンタの霧によって乱反射し、視界を塗り潰していく。
「……くっ、自律神経が……狂う……!? 距離が……焦点が結べない……!」
「見苦しいですね。その指先、二度と動かぬよう切り離してあげましょう」
オネブは狂乱の中で、十数本の超薄刃メスを扇状に投擲した。物理法則を無視し、放物線を描いてカリスの急所へ殺到する銀刃。しかし、カリスは『無拍子』の歩法――予備動作も加速も存在しない幽霊のような移動で、そのすべてを紙一重で回避。
「消えなさい」
カリスが『狂牙マゼンタ』を一閃させる。魔力を帯びた刀身は、空間を伸長させるかのように数十メートルにまで伸び、廃工場の巨大なコンクリートの支柱ごとオネブを薙ぎ払った。
オネブは空中で姿勢を立て直し、反射的にメスを束ねて刀身を受け流そうとした。だが、カリスの剣はもはや物理的な鋼ではない。それは「不浄を断つ概念」そのもの。
ガキィィィィィン!!
「再生の加護」も「回避の理論」も、マゼンタの刃の前では無意味だった。オネブの自慢の白いコートが、右肩から脇腹にかけてマゼンタ色の鮮血に深く染まる。執刀台は飴細工のように真っ二つに両断され、床には火花が飛び散った。
カリスの追撃は容赦なかった。疾風怒濤の連撃がオネブの四肢に深い傷を刻み、ついに彼を冷たい壁際まで追い詰める。
その時、自ら神経を繋ぎ直し、激痛に耐えながらようやく立ち上がったガーネが、憎しみを込めてオネブに吼えた。
「お前ら『静寂の捕食者』の目的は何だ……! なぜ、あんな小さな子供の家族を標本にする必要がある!? 戦争のきっかけを作ってまで、この大陸をどうするつもりなんだ!」
壁に背を預け、大量の血を吐きながらも、オネブは不気味なほど冷徹な微笑を崩さなかった。
「……目的? 愚問ですね。決まっているでしょう。この世界はあまりにも『不衛生』で『無秩序』だ。マンティ様が望まれるのは、すべての命が適切な番号で管理され、適切な場所に標本として収まる『完璧な静寂の庭』の完成ですよ」
オネブは指先で自身の傷口をなぞり、その血を愉悦とともに眺める。
「あの家族は、その庭の肥料にすらなれぬ『雑草』だった。だから私が整理し、有効活用して差し上げた。……私が人間を改造するのは、ただの侵略などではない。マンティ様の庭を広げ、世界をあるべき形へ『整頓』するための神聖な儀式なのです」
その独善的で狂った理屈を聞いた瞬間、カリスの瞳から一切の慈悲が消え失せた。それは、もはや対話の対象ではない。ただ、駆除すべき害悪だと断定した眼差し。
「……姉さん、こいつはもう、何を言っても通じない。こいつの脳みそこそ、今すぐ物理的に手術すべきだ」
ガーネの言葉に、カリスは静かに頷いた。だが、追い詰められたはずのオネブが、狂気に満ちた笑い声を漏らす。
「ふふ……あははは! 素晴らしい、実に素晴らしい『負のエネルギー』だ。……ですが、私の執刀はまだ終わっていませんよ。最後のご褒美を、ご覧に入れましょう」
オネブが残された左手の指を、ピアノの鍵盤を叩くように激しく動かした。
『最終執刀:万魔の解体網』
突如として、廃工場の床や壁から、目に見えないほど細い、しかし鋼鉄をも切断する超高振動のワイヤーメスが数万本単位で噴出した。それは、この部屋に足を踏み入れた瞬間からオネブが仕掛けていた、逃げ場のない「死の檻」。
さらに、先ほど肉体強化手術を施された手下たちの死体が、操り人形のように不自然な動きで起き上がり、体内に仕込まれた爆発薬を起動させながらカリスたちへ殺到する。
「さあ……誰から解体されたいですか? 麻酔なしの絶叫、存分に聞かせてください……!」
工場の天井が崩落を始め、マゼンタの香気と死のワイヤー、そして爆発の炎が入り混じる。
絶体絶命の標本室で、最凶の解体魔による「最後の手術」が牙を剥いた。
廃工場の内部で、マゼンタの香気と解体魔の銀刃が火花を散らしているその時、建物の外壁に背を預けた一人の男がいた。
『冥府の羽音』の幹部、エナガである。彼は退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、指先で一枚のトランプを弄んでいた。彼の周囲には、目に見えない魔力の糸で繋がれた数百枚のカードが、まるで意思を持つ蝶のように宙を舞い、工場の基礎部分や支柱の継ぎ目へと吸い込まれていく。
「あーあ、中の方は盛り上がってるみたいだねぇ。金属がぶつかり合う音、肉が裂ける音、そしてあのマゼンタの姉ちゃんの甘い匂い……。けど、これ以上長引くと、おっかない『大家さん』たちが来ちまいそうだ」
エナガの脳裏には、この街の平穏を絶対的な力で守る、あの浮世離れした庭師や侍女たちの姿が浮かんでいた。彼女たちが「掃除」に現れれば、ベスパの計画もマンティの庭園も、まとめて塵にされる。ギャンブラーとして、勝ち逃げのタイミングを逃すわけにはいかない。
「どっちに賭ける? ──『共倒れ』か、『全員灰』か。……ま、俺は『全員まとめて吹っ飛ぶ』に全財産だ。チップ代わりには、ちょっとばかり熱すぎるかもしれないがね」
エナガが指をパチンと鳴らす。その合図と共に、工場の地下に埋め込まれた爆発トランプが、一斉に赤黒い燐光を放ち始めた。煉獄の炎が、地底から獲物を飲み込もうと顎を開く。
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「トラップが、使えんだと……!? 私の『庭』で、私の『執刀』に逆らう不純物がいるのか!?」
工場の床がエナガの仕掛けた爆弾によって激しく揺れ、天井からコンクリートの破片が降り注ぐ中、オネブは半狂乱となってメスを振り回していた。
だが、その刃はもはや誰にも届かない。カリスが展開する『紅蓮の香界』の密度は極限に達し、オネブの三半規管は完全に破壊されていた。彼に見えているカリスは、香りの粒子が作り出した虚像に過ぎない。
「……私の剣は、あなたの薄汚れた理屈ごと、その魂を断ち切ります。あなたが標本にしてきた人々の、声なき叫びを聴きなさい」
カリスの周囲に、幻影のマゼンタ色の蓮の花弁が舞い散る。それは彼女が練り上げた、致死の剣気そのもの。
「ガーネ!」
「……逃がさない。お前の『解体』は、ここで終わりだ!」
神経を繋ぎ直したガーネが、硝子の残像を伴って死角から肉薄する。双小太刀『砕火』が、オネブの両足の腱を、今度は「物理的」に断ち切った。
「ぐ、あぁぁぁ……ッ! 私の足が、機能不全に……!?」
膝をついたオネブの視界に、一筋のマゼンタの閃光が走る。
最短距離。予備動作ゼロ。
カリスの『狂牙マゼンタ』が、オネブの胸部を正確に、深く貫いた。
「カハッ……ごふっ……」
鋼の刃が心臓に達した瞬間、カリスの魔力がオネブの体内へ直接注ぎ込まれた。それは「魂の切断」。いかなる医学的処置も、魔術的な再生も許さない、存在そのものの抹消。
心臓を貫かれたまま、オネブはゆっくりと天を仰いだ。
かつて一点の曇りもなかった白いコートは、今や彼自身の鮮血でドロドロに汚れ、無残な赤黒い塊へと変わり果てている。
「……見事な……手際だ……。カリス、……調香師……。だが、忘れるな……。完璧な、静寂を……拒む者は……いつか自分自身が……『廃棄』される……ノイズに……なるのだ……」
オネブの瞳から光が消えていく。
彼は最期まで、自らが犯した罪を悔いることはなかった。ただ、己の管理思想が潰えたことへの無念だけを残し、自らを標本にするかのように硬直したまま、解体魔オネブは息絶えた。
家族を奪われ、肉体を弄ばれた200人以上の犠牲者たち。そして、返り血を浴びて泣き叫んでいたあの幼い少年の無念。そのすべてを背負ったマゼンタの刃が、ついに外道を沈黙させたのだ。
「おいおいおい! 感動のフィナーレに浸ってる暇はないぜ、義賊さんたち!」
崩落が加速し、巨大な鉄骨が豪音を立てて降り注ぐ標本室。その瓦礫を、軽薄な足取りで蹴り飛ばしながら、エナガが姿を現した。彼の背後では、既に連鎖爆発が始まっており、赤い火の粉が吹雪のように舞っている。
「ここら一帯、あと数秒で俺の特製カードが全部なくなる予定だ。あんたら、その標本の死体と一緒に灰になりたくなきゃ、さっさと消えな! 賭けの精算は、生きてなきゃできねえんだからよ!」
エナガの指先には、最後の一枚である「ジョーカー」のトランプが、不吉な燐光を放ちながら挟まれていた。これが全爆破の起爆スイッチだ。
「ガーネ、行くわよ!」
「……わかってる!」
カリスはガーネの肩を担ぎ、エナガが爆破で開けた「脱出口」へと全力で跳躍した。
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ズガァァァァァァァン!!
背後で、廃工場が巨大な火柱を上げ、夜空を真っ赤に染め上げた。オネブの狂気も、忌まわしい標本の数々も、すべてを等しく煉獄の炎が焼き尽くしていく。
爆風が収まったスラムの路地裏。煤に汚れ、荒い息を吐きながら、カリス、ガーネ、そしてエナガの三人は、互いに一定の距離を保ち、武器の柄に手をかけたまま立ち止まった。
「……助かりました、エナガ。今回は目的が一致しただけ、と言っておきますが」
カリスが剣を鞘に収め、一礼する。その所作には、敵対組織の幹部に対する最低限の敬意と、決して相容れない決意が同居していた。
エナガは肩をすくめ、手元のカードを消すと、ひらひらと手を振りながら背を向けて歩き出した。
「礼はいらねぇよ、マゼンタ。アソラの仇を討つつもりだったが、まぁ、あの変態野郎が消えたのは俺としても清々したからな。……ボスのベスパも、不純物が消えて喜ぶだろうぜ」
エナガは一度だけ足を止め、首だけを振り返って不敵に笑う。
「だが、次に会うときは敵かもしれねえぞ。その時は、どっちが死ぬか、もっとデカいもんを賭けて遊ぼうじゃねえか。あんたらの命、俺が全部買い取ってやるよ」
「……受けて立つよ。その賭け、僕たちが勝つに決まってるけどね。次は、そのトランプごと硝子に閉じ込めてやる」
カリスとガーネは殺気を向ける。
444人リストに入る超重要犯罪者である義賊と巨悪は、絶対に混合してはならないという暗黙の了解でもある。
ガーネの挑発的な言葉を背に、エナガは豪快に笑い飛ばしながら、夜の闇へと消えていった。
カリスとガーネもまた、互いの無事を確認すると、依頼者の幼い少年が待つ隠れ家へと駆け出した。
『冥静戦争』での互いのターゲットにあった実行犯は殺された。
少年の復讐は成し遂げられた。しかし、南の大陸を揺るがす『冥静戦争』は、オネブという一人の幹部の死を皮切りに、さらなる憎悪の連鎖を生み出していく。
「……行きましょう、ガーネ。次の香りが、もう街に漂い始めているわ」
夜風に乗って流れてきたのは、漂白剤の鋭い匂いと、そして……どこか懐かしい、アイリスの淹れるお茶の香り。
戦争の嵐は、ついに「聖域」の住人たちを、容赦なく戦火の渦中へと引きずり込もうとしていた。




