屋敷-光速 vs 漂白
南の大陸、その喧騒から切り離されたかのような一角に、武門貴族の気品と「影」の鋭さを併せ持つ女性、セダの屋敷がある。
そこでは、かつて『残光の騎士』として恐れられた444人リストの暗殺者、フォスが、かつての武勲など微塵も感じさせない姿で「奉仕活動」に従事していた。
「……くっ、腰が……。光速の刺突をすべて『根こそぎの草むしり』に転用させるなんて、あの女……正気か?」
フォスは泥にまみれ、愛剣である鏡面反射の細剣を「超高精度な除草鎌」として振るっていた。少しでも根を残せば、セダの冷徹な「やり直し」が飛んでくる。かつて敵の視神経を焼いた神速の突きは、今や一坪の雑草も逃さない完璧な庭園管理技術へと昇華させられていた。
「カバロさんは猫にされて、俺はこの地獄の労働……。あの『隠密筆頭侍女』、アイリスさんやルピナさんとは質の違う恐ろしさだ……」
フォスが溜息をつき、腰をさすりながら門の方へ目をやった時だった。
屋敷の境界線付近で、異様な空気の塊が衝突するのを感じた。
「……なんだあの男は? 誰かともめているのか?」
そこには、真っ白なコートを纏い、周囲の草花をその存在だけで脱色させていくような男――『庭の漂白』エルバが、数人の男たちを路地裏に追い詰めていた。
「お前たち、あのゴミ、俺たちの敵対組織どもの状況はどうだ? ……ルードのヒゲから連絡があったがな。そこのお前たちは、俺を裏切って情報を回そうと工作をしていたらしいじゃないか」
エルバの言葉は、まるで劇薬を滴らせたかのように周囲を腐食させていく。彼は極度の潔癖症であり、裏切りという「不潔」を何よりも嫌っていた。彼が指先で小さな薬瓶を弄ぶたび、周囲の空気が白く濁り、生命の呼吸を拒絶する死の空間へと変貌していく。
見かねたフォスが、草むしりの手を止めて声をかけた。
「おい、そこまでにしてもらおうか。ここで揉め事を起こされると、俺の今日のノルマが増える。掃除の手間を増やすな」
エルバは不快そうに視線を向け、鼻を鳴らした。
「……誰かと思えば、444人リストの面汚し。最近飼い主に捕まって、牙を抜かれた『社会のゴミ』か。騎士を気取った灯台守が、今やただの庭働きの奴隷とは……笑えない冗談だ」
その言葉が、フォスの数少ない騎士としての矜持に火をつけた。
「……最短距離で、その口を閉じさせてやる。仕事の邪魔だ、消えろ」
フォスに殺気が宿る。敵対組織に一切の容赦はしない彼への逆鱗でもあった。
「俺を社会のゴミとか言ったな?ゴミになるのは貴様のほうだ!」
フォスが細剣を構える。その身のこなしは、かつてのアサシン時代に鍛え上げられた、無駄のない「絶対的な最短経路」を体現していた。
「死ね、漂白魔!」
フォスが神速で踏み込む。20mある距離を1秒しかし、エルバは動じない。彼は手にした薬瓶を地面に叩きつけた。
パリンッ!
鋭い音と共に、周囲に濃密な白煙が立ち込める。
「眩しいか? それとも、視界を奪う白煙なら防げるか?」
エルバは薬瓶の破片を、魔力を込めて周囲に撒き散らした。
「レイピアを使っていて、近距離に近づいたからなんだというのだ? 私の周囲は、すでに生命を拒む死の領域だ」
エルバの周囲は、触れるだけで肉を溶かす猛毒のガスと、目に見えないほど細かなガラスの破片が浮遊する「地獄のトラップ」へと変貌していた。一歩踏み込めば、足の裏は裂け、肺は漂白剤に焼かれる。
「鏡面反射をなめるな」
フォスは白煙の中で、細剣の刀身を微妙に傾けた。
わずかな月光、あるいは街灯の光を刀身に集め、それを超高密度な光線として反射させる。
「光は……曲がるんだよ!」
光速の刺突が、複雑な反射軌道を描き、エルバの死角からその喉元を狙う!
二人はセダの屋敷の庭であることもお構いなしに、魔力を衝突させ、美しい芝生を踏みにじり、土を跳ね上げた。
「……随分と、私の庭を賑やかにしてくれていますね」
その声が響いた瞬間。
フォスの突きも、エルバが撒き散らした毒ガスも、物理法則を無視してピタリと停止した。
二人が顔を向けると、そこには日傘も持たず、腕組みをして立つセダがいた。
彼女の周囲には、怒りの魔力が黒いオーラとなって渦巻き、大気そのものが重圧で軋んでいた。
「誰だ、一般人か? ……お前も、私の漂白対象になりたいのかい? 我が主マンティ様の計画を見たからには、生かしてはおけんな……」
エルバは強気に薬瓶を構え直したが、その指先がガタガタと震えていることに気づいた。
目の前の女性から発せられる絶望的なまでの「格」の違い。マンティの冷徹さとも、ベスパの熱量とも違う。それは、数千年の歴史を持つ影の一族が積み上げてきた、絶対的な「主従の理」を強制する重圧だった。
(な、なんだこの女は……!? マンティ様を上回る、この底知れぬ深淵は……!)
セダの瞳が、エルバとフォスを射抜く。
「フォス、あなたには『仕事で手を抜いてはいけない』ことと『物を散らかしてはいけない』だと、あれほど教えましたよね? それから……そこの白いゴミ。私の庭を毒で汚した罪、どう贖うつもりかしら?」
セダが一歩踏み出した瞬間、エルバの直感が叫んだ。
(勝てない。ここにいれば、存在そのものを『無』にされる!)
「……ちっ、ここまでか。命拾いしたな社会のゴミが。……『ヒゲ』に連絡だ、この街には怪物が多すぎる!」
エルバは残りの煙幕をすべて叩きつけ、文字通り死に物狂いで逃走を図った。
「……あ、あの、セダさん……これは、俺が始めたんじゃなくて……」
フォスは、逃げ去ったエルバを追う気力もなく、その場に平伏した。
セダは逃げたエルバには興味を示さず、目の前の「不真面目な教え子」を冷たく見下ろした。
「言い訳は、雑草をむしり終わってから聞きなさい。……フォス、あなたは今日、私が大切に育てていた薬草の苗を三本、戦闘の余波で踏み潰しました」
「ひぃ、そこまで細かいことを言うのはやめてくれ……! 悪かった、悪かったから!」
「仕事中に遊ばない。庭は汚さない。……これが守れないなら、追加のカリキュラムが必要ですね。あとルンちゃんなら『器物損壊罪』と言うから。この庭の復旧、一人で全部直しなさい。魔力は厳禁です」
セダは静かに微笑んだ。その微笑みは、アイリスの慈愛とも、ルピナの空想とも違う、「徹底的な教育」という名の拷問の予告だった。
「明日からは、草むしりの後に『カバロ様の世話』と、『ルウ先輩への1000回の礼法練習』を追加します。もちろん、ドレス姿の猫を笑ったりしたら……その日の食事は抜きですよ?」
「……う、嘘だろ……」
フォスに、かつての暗殺者としての面影はない。
南の大陸の闇を支配しようとした444人リストの騎士は、セダの完璧な「しつけ」の前に、ただの震える庭師へと成り下がっていた。
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一方、逃げ延びたエルバは、震える声でルードに通信を入れる。
「ヒゲ! 逃げろ! この街の『飼い主』どもは、マンティ様やベスパすら凌駕する怪物だ! ……俺は、もう二度とあの屋敷には近づかんぞ!」
「でたらめを言うな!マンティ様ならなんとおっしゃると思っている!」
二大巨悪にとっては、飼い主など常に想定外のそこらの石ころのようなものでしかない。
南の大陸の戦争は、ついに「飼い主」という名の真の支配者たちの怒りに触れ、予測不能な混沌へと加速していく。




