拘束-剪定の儀
影に溶け込み、マンティの拠点へと兵士たちに運ばれて撤退した――オーガは、薄れゆく意識の中でそう確信していた。耳の奥に残る戦火の爆音と、自らが放った高周波の残響。それらが遠のき、やがて深い眠りに落ちたはずだった。
だが、次に彼が目を見開いたとき、そこに広がっていたのは「静寂の庭」ではなかった。
そこは、どこまでも白く、そしてどこまでも清らかな空気に満ちた「白い温室」だった。
視界を覆うガラス越しに差し込む陽光は、あまりに穏やかで、外の戦火などお伽話の中の出来事のように思えるほどだ。空気には瑞々しい土の匂いと、嗅いだこともない芳醇な花の香りが混じり合っている。
(なんだここは……? まるで、花の匂いに魂を吸われるようだ。私は……私は誰なのか、何をしていたのか、存在の輪郭さえも解けてしまいそうだ……)
あまりに完璧な静寂。その心地よさに、オーガの脳は「制裁」という血塗られた使命を忘れかけ、幸福な泥濘に沈み込もうとする。だが、戦士としての本能が、ぱちんとガラスを割ったような衝撃で彼を呼び戻した。
「……な、ぜだ。私にはオネブから借りた有能な護衛どもがいたはず。彼らが私を運んでいたはずだ。なぜ私が、このような場所に……!?」
オーガは起き上がろうとした。だが、背筋を走ったのは戦慄だった。身体が重い。まるで、自分自身の肉体が「ただの泥」に変わってしまったかのように、筋繊維の一本一本が命令を拒絶している。
「あら、目が覚めました?」
心臓を直接、冷たい指先で撫でられるような柔らかな声。
オーガが必死に首を巡らせると、そこには色とりどりの花々に、銀色のじょうろで水をやるルピナの背中があった。彼女は振り返りもせず、まるで近所の散歩のついでに道端の迷子を拾い上げたかのような気楽さで言葉を続ける。
「あなたの吹く笛、少し音が外れていたでしょう? だから、私の温室で『調律』し直してあげようと思って。せっかくの綺麗な笛が、あんなに怒りで濁っていては、道具たちが可哀想ですもの」
「この女……私を、子ども扱いするか……!」
オーガの額に青筋が浮かぶ。彼にとって、武人としてのプライドを軽んじられることは死よりも屈辱的だった。彼は即座に跳ね起き、隠し持った高周波の笛を構え、この不敬な女に「制裁」を下そうとした。
だが――指一本、動かない。
それどころか、自分の中に常に満ち溢れ、マンティから授かった強大な魔力が、霧散したわけでも奪われたわけでもなく、「最初から存在しなかった」かのように感じられた。
高周波の笛もない。腰元にあるはずの予備のナイフもない。彼は今、ただの無力な一人の男として、この「概念の守護者」の前に晒されていた。
「……貴様、私になんと言った! 狂ったか! 私はマンティ様の『庭』を、秩序を守るために不浄を排除しているのだ! 私の行為は完璧な正義であり、略奪者を許さぬ高潔な管理なのだ!」
動けない身体で、オーガは必死に自身の誇りを叫んだ。
略奪者を「害虫」と定義し、一族郎党根絶やしにすることで平和を維持する『静寂の捕食者』の崇高な理念。それこそが世界の正解であり、自分はそのために魂を捧げ、無数の命に「制裁」を与えてきたのだと。
しかし、ルピナは一度も振り返ることなく、じょうろの先から滴る水の音に耳を傾けていた。その水の音さえ、オーガには「命を量る砂時計の音」のように聞こえ始める。ルピナはおっとりと、その言葉を切り捨てた。
「正義、管理……ふふ、素敵な言葉。でもね、オーガさん。あなたのその『正義』とやらのせいで、アイリスさんの孤児院の壁にヒビが入ってしまったの。それだけじゃないわ、子供たちが怖がって、大好きなお昼寝の時間に泣き出しちゃったのよ?」
ルピナが、ゆっくりと振り返る。
その微笑みは変わらない。しかし、その水色の瞳は、オーガという存在を「生命」として認識していなかった。
それは、枯れ果てて修復不可能な枝、あるいは庭の景観を著しく損なう「雑草」を見る、圧倒的な虚無の眼差しだった。
「自分の庭を語る前に、他人の庭を荒らさないという最低限のマナーを学びましょうか。……さあ、『反省文』は心の中で書くものじゃありません。あなたの魂に、直接刻んで差し上げますわ」
ルピナが、腰の革ポーチから一丁のハサミを取り出す。
「チャキン」
その乾いた銀の音が、温室の静寂を切り裂いた。オーガには、それが自分の首を撥ねる断頭台の音に、あるいは世界そのものを切り分ける終焉の鐘の音に聞こえた。
「ま、待て! 私を誰だと思っている! 444人リストの『庭の警笛』、オーガだ……制裁、そうだ、私には制裁を下す権利が……ひっ、来るな!」
オーガは死に物狂いで、動かぬ身体を無理やり引き摺り、温室の出口へと逃亡を試みた。かつての武人としての誇りはどこへやら、今の彼はただ、巨大な捕食者の影に怯える小動物に過ぎなかった。
這いずる彼の後ろで、ルピナの足音が静かに、規則正しく近づいてくる。
「ふふ、そんなに急がなくても。あなたにぴったりの『役割』を、今剪定して差し上げますから。……そう、あなたはもう、そんなに難しい言葉を喋らなくていいのですよ」
常人は、魔王や勇者より恐ろしい444人リストの猛者たちを見たら震え上がるはず。しかし、彼女はオーガに向けての歩みを止めない。
ルピナの影が、オーガを完全に覆った。
「やめろ! 私は……私は制裁を……せい……さ……」
「制裁」という言葉が、口の中で溶けていく。
彼がこれまでに奪ってきた命の重みが、急に数千倍の質量となって背中にのしかかった。喉の筋肉が変質し、声帯が縮み、視界の高さが急速に下がっていく。骨が軋み、再構築される激痛。だが、その痛みさえも、ルピナが放つ「慈愛」という名の魔力によって、蕩けるような快感にすり替えられていく。
「さあ、おやすみなさい。……不必要な枝を切り落として、新しい芽を出しなさい」
オーガの絶叫が温室に響き渡った。
しかし、その凄まじい叫び声さえも、ルピナが展開する「絶対的な静寂」に飲み込まれ、温室の白い壁を越えて外へ漏れることは、ただの一度もなかった。
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翌日、温室の片隅には、一匹の美しいアフガン・ハウンドが佇んでいた。
その犬は、主のマンティを待ち続けるかのように一点を見つめて動かない。しかし、その瞳に宿っていた「静寂の捕食者」としての鋭い光は、もはやどこにもなかった。
「ふふ、いい子ね。とても素敵な毛並み。その自慢の『警笛』は、もうこれからは、私への甘え声として使いなさいな」
ルピナは微笑みながら、犬の頭を優しく撫でる。
アフガン・ハウンドに姿を変えられたオーガの瞳には、先刻までの狂気や忠誠心は微塵も残っていない。ただ、眼前に立つ女性の、底知れぬ圧倒的な精神的支配に対し、逆らえない本能的な悦びを感じ、情けなく「クーン」と喉を鳴らして尻尾を振ることしかできなくなっていた。
ルピナは、彼のこれまでの罪状――秩序の名の下に、多くの命を有機的な意思を持たぬ「数」として処理してきた事実――を、土壌の栄養を調べるようにすべて把握していた。
ルピナはオーガが持っていた花を拾う。オーガが持っていた花はホワイトローズ。何も変哲もない白いバラだが、ルピナはそれを大切そうにしまう。
「あなた、これだけは大切に持っていたのね......。アイリスさんなら何て反応するかしら......。もしもあなたが、救いようのない外道に落ちたなら、その記憶すらも完全に剪定して差し上げたのだけれど……。今はその『反省』を、私の足元で学びなさい」
「制裁」という言葉は、彼の辞書から永遠に切り落とされた。
かつて畏怖された「庭の警笛」は、今や「世界の剪定者」の足元で微睡み、たまに庭を荒らす本物の害虫を見つけては、吠えることも忘れて主人の顔を伺う、ただの従順な愛玩動物へと造り替えられたのである。
南の大陸を揺るがす軍勢。だが、その傲慢な歩みは、日常という名の底なし沼に、一歩ずつ、確実に引きずり込まれていた。




