報告-敗残者の震え
南の大陸、第1支部の最奥。湿り気を帯びた石造りの壁に囲まれた通信室で、ビルは己の無様な姿を呪っていた。
かつて「煉獄の剛腕」と恐れられ、重圧手甲の一撃で城壁すら粉砕したその両腕は、今や力なくダラリと垂れ下がっている。骨は砕け、皮膚は焼けただれ、何より彼を苛んでいたのは、指先一つ動かすことさえ拒絶するような、魂に刻まれた「拒絶反応」だった。
「クソ……、なんだ、あの女は……」
血を吐き捨てながら、震える手で通信石を起動する。かつて胸に抱いていた「ベスパを超える」という野心は、数時間前の地獄を境に、霧散して消えていた。今の彼を突き動かしているのは、忠誠心でも野心でもない。あの「日傘を差した女」が再び現れる前に、ここから一刻も早く逃げ出したいという、獣じみた生存本能だけだった。
赤黒い魔力が通信石に宿り、不気味な脈動を始める。
次の瞬間、鼓膜を直接蹂躙するような、低く重厚な声が響いた。
「ビルか。貴様、マンティの犬ごときにその無様な姿を晒したのか。それとも『月下狂牙』の鼠どもに、背中から刺されでもしたか」
ベスパ。南の大陸を恐怖で支配する「冥府の羽音」の主。その声が響くだけで、部屋の温度が数度上がったかのように錯覚する。
「……ボス、申し訳ありません。オーガとの戦闘中……未知の、介入者が現れ……」
「……ビル。444人リストの一角であり、私の『剛腕』を自称する男が、手ぶらで逃げ帰り、あろうことか『一般人』に怯えて言い訳を報告するとはな。一体何があった。俺が育てた右腕は、いつからそこらの三流の負け犬に成り下がったのだ?」
通信越しに放たれる殺気が、ビルの焼けた肌をさらに炙る。ベスパにとって、敗北そのものよりも、恐怖に染まり、戦士としての「芯」をへし折られた部下の声が、何よりも不愉快だった。
「ボス、信じてください! 相手はただの……一見すれば、どこにでもいる穏やかな女でした。ですが、彼女が歩いてきた瞬間、すべてが『狂った』んです!」
ビルの脳裏に、あの光景がフラッシュバックする。
血生臭い戦場に、場違いな花の香りが漂った。日傘を差し、穏やかな微笑みを浮かべたルピナが、散歩でもするかのように二人の間に割って入ってきたのだ。
「彼女がジョウロを傾けた瞬間、俺とオーガの魔力が……霧のように消えた。いえ、消えたんじゃない。『最初から存在しなかったこと』にされたんです。殴ろうとしても、腕の筋肉が動かし方を忘れている。叫ぼうとしても、肺が空気の取り込み方を拒否している。彼女がハサミを『カチリ』と鳴らすたびに、俺のこれまでの人生が、ただの『伸びすぎた無駄な枝』として切り落とされていくような……そんな絶望感だったんです!」
「馬鹿を言え。俺たちの『放棄』という理念をなんだと思っている。この世に、俺の炎で焼けない概念など存在せん。魔力がない? 筋肉が動かん? それは貴様の魂が、その女に屈したというだけの話だ」
「違います! オーガも……あの冷徹なオーガですら、廃人のように膝をついて……! あの女は...平然と......」
沈黙が流れる。
ベスパは、ビルの言葉が単なる狂言ではないことを察していた。ビルは脳筋ではない。状況を冷静に分析する冷酷さを持っている。その彼が、ここまで支離滅裂な恐怖を口にする。
「……もういい。不愉快だ、ビル」
ベスパの冷徹な断罪が下る。
「お前には『管理不足』のペナルティを与える。今すぐ北の監獄塔へ向かえ。そこで一週間、一滴の水も与えず、太陽の光も遮断された闇の中で、己の無能を噛み締めろ。……次はないぞ。私の庭に、恐怖というノイズを連れ込むな。次にお前の口から出る言葉が『勝利』でなければ、その時は貴様自身の存在を『放棄』してやる」
通信が断絶した。
ビルは暗闇の中で力なく膝をつき、頭を抱えた。
全身を焼かれるようなベスパの罰よりも、今、彼を震えさせているのは、去り際にルピナが残した言葉だった。
『あら、少し形が乱れていますね。またすぐに、綺麗に整えてあげますわ。』
その、聖母のような慈愛に満ちた、不気味なほど温かい声。
彼女にとって、大陸を揺るがす自分たちの戦いすら、庭木の手入れのついでに過ぎないというのか。
一方、南の大陸の支配者が座す執務室。
通信石の光が消えた後、ベスパは自らの掌を見つめていた。
そこには、報告を聞いた瞬間に無意識に漏れ出た、岩をも溶かす熱量が、陽炎のように揺らめいている。
(魔力を『無』にする存在。物理破壊の極致にあるビルが、手も足も出ずに『呼吸の仕方を忘れる』ほどの圧……)
ベスパの口角が、不気味に吊り上がった。
それは恐怖ではなかった。数え切れないほどの命を焼き、国家を地図から消し去ってきた彼にとって、この大陸はもはや「焼き尽くされた後の灰」のような、退屈な場所になり果てていた。そこに現れた、計算外の変数。
「……ふふ、面白い。これほどまでに私の庭を掻き回す『不純物』が潜んでいるといいたいのか?」
彼は椅子に深く腰掛け、窓の外に広がる、自身が支配する街を眺めた。
彼の「放棄」という理は絶対だ。不要なものは焼き、価値のないものは消す。それが世界の正しい姿であると信じて疑わない。だが、もしその「理」を上書きする「剪定」という概念が存在するとしたら。
「アソラは死に、ビルは牙を折られた。マンティの飼い犬であるオーガも、その女に捕獲されたというわけか。超常現象の見間違いもいい加減にしてほしいぞ」
ベスパは再び、暗闇に向かって独りごちた。
「だがビルよ。貴様にはまだ使い道がある。その恐怖を焼き切り、再起するまで俺の下したペナルティで反省するがいい。死なせなかった分だけありがたいと思え。真の恐怖とは、未知に出会うことではない。……俺という太陽に、存在を完全に否定されることだと思い出せ」
彼は確信していた。
これが単なるマンティとの勢力争いではないことを。
この大陸の背後で、既存のルールそのものを根底から書き換えようとする、巨大な「意思」が胎動している。
「……マンティ。貴様の姑息な『静寂』も、あの女の『無』も、まとめて俺の煉獄で蒸発させてやる。この大陸に不必要な枝など存在せん。すべてを灰にし、俺が望む形に再構築するだけだ」
暴君は、まだ気づいていない。
自分が見つめている掌の熱量すら、ルピナにとっては「少し温度が高すぎるので、冷ます必要がありますね」と、ジョウロの一振りで解決される程度の事象に過ぎないことを。
そして、彼が「ゴミ」と呼ぶビルやオーガたちが、間もなくルピナの手によって、可愛らしい毛玉へと「剪定」される運命にあることも。
通信室の静寂が、まるで嵐の前の静けさのように、重く、深く、執務室を包み込んでいった。




