静寂-嵐の前のティータイム
いよいよ飼い主も参戦!?
南の大陸の陽光は、時に残酷なほど明るい。
スラム街の片隅に建つ孤児院のテラス。そこには、世界を滅ぼし兼ねない「二大巨悪」の激突が目鼻の先まで迫っているとは到底信じられないほど、穏やかで、甘やかな空気が流れていた。
テーブルの上には、アイリス姉さんが今朝焼いたばかりのスコーン。そして、向かいに座るルピナさんが持参したという、透き通った琥珀色のハーブティー。
僕は、ふわふわの白いマンチカン――「ルウ」として、アイリス姉さんの膝の上で丸くなっていた。
「まあ、ルピナさん。このハーブティー、とっても良い香りがしますね」
アイリス姉さんが、うっとりと目を細める。その微笑みは、聖母のように慈愛に満ちている。
だが、僕の鼻は誤魔化せない。注がれたお茶からは、ただの植物の香りとは思えない、魂の奥底まで強制的に洗い流すような、澄んだ芳香が漂っていた。
戦う意志、憎しみ、野心、復讐心……。人間を突き動かすはずのドロドロとした熱い感情が、この香りに触れた瞬間、凍りつくように「無」へと上書きされていく。
それは癒やしという名の、精神的な去勢に近い。
「ふふ、ありがとうございます、アイリスさん。心のトゲを抜くのにちょうど良い配合にしてみたんです。最近、お外が少し――騒がしいようですから」
移動花屋を営むルピナさんが、おっとりと微笑みながら、僕の頭を優しく撫でた。
その瞬間、僕の背筋に、かつて戦場で伝説の死神と対峙した時ですら味わったことのない、圧倒的な「生存本能の戦慄」が走った。
(……動けない。なんだ、この人は……!?)
ルピナさんの白く細い指先が僕の毛並みに触れるたび、僕の中に眠る「暗殺者としての牙」が、一本、また一本と丁寧に抜かれ、柔らかな綿菓子に変えられていくような感覚。
彼女の瞳を覗き込むと、そこにはどこにでもいる優しい女性の眼差しがあるだけだ。……いや、違う。それはあまりにも「普通」すぎて、逆に不自然なのだ。
まるで、大陸を飲み込む荒れ狂う嵐を、「ちょっと風が強いわね」と笑いながら、手にした剪定バサミ一つでパチンと切り落としてしまうような。そんな、絶対的な管理者が持つ「空虚」がそこにはあった。
この人、アイリス姉さんと同じだ。……いや、役割の違いこそあれ、ある意味ではそれ以上に底が知れない。
僕たち「444人のリスト」に載るような怪物を、ただの「手入れが必要な庭の風景」としてしか見ていないのだ。
「いい子ね、ルウちゃん。あなたのような可愛い子が、怖がらなくて済むお庭にしないといけませんね」
ルピナさんの声には、一点の曇りもなかった。
その言葉の裏にある「不都合な雑草は根こそぎ排除する」という冷徹な決意に気づいているのは、この場でおそらく僕だけだろう。
ルピナさんは優雅にティーカップを置くと、遠くの空を見上げた。
そこには、冥府の羽音と静寂の捕食者の軍勢が巻き上げる、不穏な黒煙が立ち上っている。
つい昨日、ベスパの拷問担当アソラが、月下狂牙のリーダー・カリスの手によって葬られた。その報復として、両陣営の怒りは沸点に達している。
このままでは、この街も、スラムも、この孤児院さえも、巨大な暴力の渦に飲み込まれるだろう。
「そういえばアイリスさん。最近、大陸のあちこちで『大規模な戦争』が始まったという知らせを耳にしましたけれど……」
ルピナさんの問いは、明日の天気を確認するかのように軽やかだった。
「これほどお庭が荒れてしまうことについて、あなたはどう思われますか?」
僕は思わず息を呑んだ。
普通なら、ここで「怖いですね」とか「どこかへ避難しましょうか」という会話になるはずだ。それが一般人の、まっとうな人間の反応だ。
だが、僕の飼い主は――アイリスという女性は、そんな常識の枠には収まらない。
アイリス姉さんは一瞬だけ、その水色の瞳を細めた。
それは、洗濯物に泥を撥ねられた主婦が、少しだけ困惑した時のような、ささやかな不機嫌さ。
「そうですね……。せっかくお花が綺麗に咲いて、子供たちも静かにお昼寝をしているのに。それを邪魔するような『大きな音』を立てる方々には……少しだけ、『しつけ』が必要かもしれませんね」
――えええええええええ!? アイリス姉さん、正気か!? 『しつけ』って言ったか今!?
その言葉が出た瞬間、アイリス姉さんの背後に、般若とも聖母ともつかぬ巨大な「何か」が揺らめいたのを、僕は見逃さなかった。
冷や汗が止まらない。
アイリス姉さん、何を言ってるんだ?
相手は大陸全土を震え上がらせる二大犯罪組織だぞ?数百の軍勢と、国をも滅ぼす異能者たちの集団だぞ?
それを「行儀の悪い子供」を叱るような口ぶりで、あまつさえ「しつけ」と言い切るのか。
(彼女たちの感覚は、もう……人間としての基準を超越している……!)
戦場に一般人が歩いていれば死ぬ。それが世界の理だ。
だが、彼女たちにとっては違う。
「私の庭で騒ぐなら、しかるべき処置をする」
ただそれだけの、家事の延長線上の出来事として、大陸規模の戦争を捉えているのだ。
「あら、良いお考えですね。私も、伸びすぎた枝をそのままにしておくのは、庭師として寝覚めが悪いですわ。少し……刈り込みが必要だと思っていましたの」
ルピナさんが、鈴を転がすような声で同意する。
その手には、いつの間にか一本の小さな剪定バサミが握られていた。
彼女がそれを「カチリ」と鳴らした瞬間、周囲の空間が一瞬だけ歪み、空を舞っていた枯れ葉が、目に見えない圧力に押し潰されて塵となった。
(これは、まずい。……あいつらがこの街に一歩でも踏み込んだ瞬間、アイリスさんとルピナさんが『お掃除』を始める。そうなれば、殺し合いなんていう生温かい決着じゃ済まないぞ……)
かつて、伝説の暗殺チーム『白爪』のリーダーだった僕が、なぜ今こうしてイチゴ柄のドレスを着せられ(今は免除されているが)、猫として大人しく飼われているのか。
それは、彼女の「しつけ」に抗う術など、この世界のどこにも存在しないからだ。
暴力で解決するなら、まだマシだ。彼女たちは、存在そのものを「変質」させてしまう。
僕は喉を鳴らして、甘えるふりをしながら、心の中で警報を鳴らし続けていた。
ベスパ。マンティ。頼むから、これ以上こちらへ来るな。
君たちが相手にしているのは、正義の味方でも、敵対組織でもない。
「平穏を愛する、絶対的な支配者」なのだから。
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その夜。
孤児院の廊下には、子供たちの寝息だけが静かに響いていた。
アイリス姉さんが深く眠りについたのを確認し、僕はふかふかのクッションから音もなく飛び降りた。
猫の姿は不便だが、気配を消すことに関しては、人間の頃よりも優れている。
僕はテラスの窓を器用に開け、夜の帳へと滑り出した。
向かった先は、孤児院の裏手にある牛舎。
そこには、月明かりを浴びて佇む、巨大な影があった。
「……にゃあ(……ライ、状況はどうだ)」
影がゆっくりと振り返る。
かつて『最悪の濁流』と呼ばれ、巨大な白鉄槌で一軍を粉砕した男、ライだ。
現在は人間の姿で、この孤児院の酪農スタッフとして働いている。
「リーダーか。……来ているぞ。ベスパとマンティ、両陣営の先遣隊が、この街の境界線まで到達した。アソラの死だけじゃない。カリスの動きを察知したベスパの連中は、もう完全に頭に血が上っている」
ライは大きな拳をぎゅっと握りしめた。その瞳には、かつての荒々しい殺気が宿っている。
だが、彼はすぐにその拳を緩め、力なく笑った。
「今の俺なら、あのバカ共の頭をまとめて叩き潰して止めに行きたいところだが……。武器はすべて、あの『しつけ』の日に没収されたからな。今の俺にあるのは、ミルクを絞るための指だけだ」
「……にゃあ(そうだな。僕も、時速400kmで走る脚はもうない)」
「リーダー。……俺たちの『平穏』も、長くは持たないぞ。あいつらがこの街の土を踏めば、次は確実にここへ来る。そうなれば……」
ライの言葉が途切れる。その先にある結末を、僕たちは身をもって知っている。
アイリス姉さんの「怒り」に触れたものが、どうなるかを。
「……にゃあ(ああ、わかっている。あいつらがこの庭に踏み込んだ瞬間、アイリスさんとルピナさんが動く。そうなれば、あいつらは死ぬより悲惨な目に遭うぞ。……文字通り、世界から『剪定』されて、別の何かに変えられてしまう)」
記憶を書き換えられ、アイデンティティを奪われ、善良な市民として、あるいは愛玩動物として「矯正」される。
それは戦士にとって、物理的な死よりも残酷な敗北だ。
ベスパの傲慢も、マンティの冷酷さも、彼女たちの前では「教育の行き届いていない幼稚な振る舞い」として処理されてしまう。
「……にゃあ(止めるか、それとも見届けるか。……ライ、僕たちはもう、猫であり、酪農家だ。あいつらが自ら破滅へ突き進むのを止める義理はない。だが……)」
僕は月を見上げた。
この孤児院での、退屈で、温かくて、時々理不尽なイチゴドレスを着せられる日々。
血の臭いしか知らなかった僕が初めて手に入れた、この「居場所」。
「……にゃあ(僕たちのこの『温かな寝床』を壊されるのは、我慢ならないな)」
「違いない。……やるなら、飼い主たちが起き出す前に済ませるしかないな。アイリスさんに気づかれたら、今度こそ俺たちは人間に戻れなくなるかもしれんからな」
ライが自嘲気味に笑い、壁に立てかけてあった、武器ではない「ただの大きな木槌」を手に取った。
月明かりに照らされた僕の瞳が、一瞬だけ、かつての『最悪の終焉』としての鋭さを取り戻す。
「……にゃあ(ライ。君はここで待機だ。変な輩が近づいたら、全力で追い払え。孤児院の子供たちを守るためなら、アイリス姉さんも多少の暴力は多めに見るはずだ。……あくまで、正当防衛の範囲内でな)」
「了解だ、リーダー。……あんたも、あんまり無茶すんなよ。猫の体なんだからな」
僕は返事の代わりに、夜の闇へと溶け込むように跳ねた。
背後でアイリス姉さんの部屋の窓が、風に揺れてガタッと音を立てたような気がして、僕は一瞬だけ心臓が止まりそうになった。
もし彼女が起きて、僕がいないことに気づいたら――。
想像するだけで、どんな魔王と対峙するよりも恐ろしい。
戦火が迫る南の大陸。
暴君と捕食者の軍勢は、まだ知らない。
自分たちが踏み込もうとしている場所が、大陸で最も慈悲深く、そして最も「怒らせてはいけない女性たち」の箱庭であることを。
僕は、時速4km(弱体化した今の僕の全力だ)で、しかし確実な殺意を秘めて、戦場の中心点へと走り出した。
飼い主の平穏な眠りを守るため。
そして何より、あいつらが「剪定」されて、僕のようにイチゴドレスを着せられるという悲惨な末路を辿らないようにするための、せめてもの慈悲として。
「……やれやれ。これじゃあ明日のお昼寝は、たっぷり時間を取らないといけないな」
月下の猫は、小さく喉を鳴らした。




