蹂躙-3.聖域の残響と、血塗られた調香
カリスの周囲から、一切の温度が消失した。
彼女が纏う魔力は、沸き立つ怒りの沸点を超え、絶対零度の静寂へと変貌を遂げる。マゼンタ色のオーラは、もはや光ではなく高密度の質量となり、彼女の周囲の空気は、触れるものすべてを分子レベルで断ち切る「不可視の刃の檻」と化した。
対峙するアソラは、その肌に突き刺さるような剣気に、本能的な死の予感を見た。だが、彼はその恐怖を、自らの内に飼いならした狂気で強引に塗りつぶす。
「燃えるがいい! 理想主義者の剣聖! 我が美学の糧となれ! 煉獄奥義――『紅蓮大蛇』!!」
放たれた百節を超える多節鞭の刃。それはもはや、単なる武器の軌道ではない。
意志を持った無数の銀色の蛇が、閉ざされた処刑室の全方位からカリスを包囲し、螺旋を描きながら収束していく。逃げ場など、この空間のどこにも存在しない。退路を選べば、その先にある刃の顎に自ら飛び込むことになる。
――ガガガガガガッ!
凄まじい衝撃音が鼓膜を震わせる。
処刑室の堅牢な石床が、壁が、天井が、数千の斬撃の余波によって瞬時に削り取られ、微細な砂塵となって舞い上がった。アソラの狂気的な魔力によって赤熱した刃が、カリスを肉片に変えるべく、その中心へと牙を剥き、収縮する。
だが、その嵐の真ん中で、カリスはただ静かに、一滴の香水を落とすかのように呟いた。
「散りなさい、無価値な徒花」
爆音と砂塵、そして赤熱する刃の奔流の中。
ただ一線、世界を真横に両断するような、鮮烈なマゼンタ色の閃光が奔った。
カリスの究極奥義――『調香剣・終焉の余韻』。
それは、敵が放った技の「すべての急所」を、コンマ数ミリ、0.001秒の間に正確に調合し、切断し、無へと帰す神速の連撃。
アソラが放った「紅蓮大蛇」の、意志を持って蠢いていた百以上の連結点すべてが、一瞬にして断たれた。
ジャラジャラジャラッ! と、ただの無機質な鉄の破片に成り果てた鞭の残骸が、カリスの足元に力なく降り注ぐ。
そして、カリスの『狂牙マゼンタ』は、すでにアソラの首筋を音もなく通り抜けていた。
カリスが着地し、優雅な所作で刀を鞘に納める。カチリ、という小さな金属音が響いた瞬間、彼女の背後にあった巨大な石壁には、一筋の深い裂傷が走り、そこからマゼンタの魔力が火花のように爆ぜた。
アソラは、何が起きたのか理解できないという表情のまま、ゆっくりと膝を折った。
数秒の静寂。その後、彼の首筋に細い赤い線が浮かび上がり、堰を切ったように鮮血が噴き出す。
(……やる価値が、あったはずだ。私は、ベスパ様の下で……)
「……ははっ……。おい、マゼンタ……。お前は……綺麗事を並べて、自分は正しいと、思っているようだが……」
アソラは虚ろな目でカリスを見上げ、口から溢れる血を吐き捨てながら、呪詛のような言葉を振り絞った。
「……お前だって、本当は気づいているはずだ……。その圧倒的な力で誰かを守っているつもりで……実はお前こそが、一番最初に、自分自身の『人間としての平穏』を、とっくに放棄しているということを……な……。お前も……俺と同じ……空っぽの、人斬りなんだよ……」
その言葉を最後に、アソラという名の狂気は、ただの冷たい骸へと成り果てた。
カリスは右肩を抑えた。鞭の先端がわずかに掠め、マゼンタのドレスが裂けて朱が滲んでいる。だが、彼女はその肉体的な痛みよりも、アソラが遺した最期の言葉を、心の奥底で反芻していた。
「……私が、放棄した平穏……」
脳裏をよぎるのは、つい数時間前に見た、アイリスの穏やかな笑顔。そして、ルウが転寝をしていた孤児院の暖かな日だまり。
「復讐」という名の香水を完成させたはずの彼女の心に、アソラの言葉が不純物として、澱のように沈んでいく。数万の命を刈り取ってきた自分という「死神」が、あの聖域に身を置く資格などあるのだろうか。
しかし、彼女は一瞬でその感傷を切り捨てた。
「……今は、後始末を」
カリスは指先を鳴らし、マゼンタ色の魔力の火を処刑室に放った。
「証拠は残しません。……この地獄ごと、すべて消えなさい
マゼンタの炎が、アソラの死体と、数多の悲劇を生んだ処刑器具、そして少女の家族を奪った忌まわしき第2支部を、徹底的に、美しく飲み込んでいった。
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数日後。南の大陸を支配する巨大組織『冥府の羽音』の本部。
ベスパのいる部屋は、蝋燭の炎が揺らめいているだけだ。
辛うじて生き延びた第2支部の生き残りが、玉座に鎮座する男に報告を行っていた。
「ベスパ様……現状をお伝えします。……我々の、失態を……」
南の大陸を焼き尽くさんとする太陽のように、ベスパの放つプレッシャーは静かで、かつ絶対的な熱量を帯びていた。
「……報告は、以上か」
「はっ。第2支部は跡形もなく。アソラ様は、カリスによって……」
ベスパは執務机の椅子に深く腰掛けたまま、差し出された報告書を一瞥した。彼が指先で軽く触れると、紙面は燃え上がる暇もなく、瞬時に白灰へと変わって霧散した。その黄金の瞳に、部下への哀悼など一片も宿ってはいない。
「アソラ……。お前は、戦争を始める前から好き放題に暴れすぎだ」
ベスパは立ち上がり、窓の外、遠くの街並みに立ち上る火の粉の予兆を、冷徹な双眸で見つめる。
「不必要な拷問、無計画な虐殺。弱い者をなぶり、いたずらに恨みを買い、挙句の果てに444人リストの『カリス』を呼び寄せ、戦力を無為に削るとはな」
ベスパの背後から、噴火寸前の火山のような魔力が溢れ出す。それは周囲の空気を歪ませ、空間そのものを熱で歪曲させていた。
「これでは、そこらの三流の悪党と何ら変わらん。お前が口にしていた『価値』という言葉、そのまま返してやろう。組織の戦力を浪費し、私の計画にノイズを混ぜたお前は、もはや『存在し続ける価値』などない。カリスに殺されたことこそが、お前にとって唯一の正解だったと思え」
ベスパにとって、世界は「管理されるべき資産」か「排除すべきゴミ」かの二種類しかない。
「戦争というのは、感情で殺し合うことだけではない。無能を排除し、管理不能な『放棄』という名の不条理を、システムとして焼き払うことだ。……アソラの死すら、この大陸を更地にするための、効率的な燃料に過ぎん」
彼は窓枠を掴む。超密度の筋細胞を持つその手が、魔法銀を施された手すりを飴細工のように容易くひしゃげさせた。
「次のフェーズに移るぞ。マンティ率いる『静寂の捕食者』の喉笛を焼く前に、まずはこの街の『不純物』の除去の計画を進める。……次の不必要な因子も掃除せよ」
暴君の宣言と共に、拠点全体が地鳴りのような鳴動を始めた。
全方位を灰に帰す破壊神ベスパ。この戦争が平和な運命に突入することなど、まだ夢にも思っていない。




