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最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第5部-冥静戦争開幕、三大組織の滅亡
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邂逅-あるいは静かなる火花

いよいよ真の二大巨悪が姿を現す。ほのぼのライフはもうおしまいか?

 

「にゃあ……(……平和だ。平和すぎて、逆に背筋が凍るよ。)」


 僕――かつて世界を震撼させた暗殺ギルド『白爪(ホワイトクロー)』のリーダー、伝説の暗殺者ルウは、今、南の大陸の柔らかな陽だまりの中で、短い足をパタパタと動かしていた。


 視界に入るのは、血に染まった戦場でも、冷徹な暗殺計画書でもない。色とりどりの積み木が散らかり、子供たちの笑い声が絶え間なく響く、アイリス姉さんの孤児院の庭だ。僕の今の姿は、ふわふわの毛並みを持つマンチカン。時速400kmで戦場を駆けた脚は、今や数センチの段差を飛び越えるのにも精一杯な、愛くるしい「短足」へと再定義されている。


 前回の「無許可飲み会」……。あの時は本当に死ぬかと思った。

 仲間たちと羽目を外し、あろうことかアイリス姉さんに内緒で夜の街へ繰り出した報いは、想像を絶するものだった。アイリス姉さんの瞳が鮮血のような赤に染まり、背後に般若の幻影を見た瞬間、僕の心臓は物理的にではなく、精神的に停止した。


「……にゃん(……まあ、一週間『アイリス特製・猫用オーガニック離乳食』を完食する刑で済んだのは、不幸中の幸いかな。)」


 あの離乳食は、地獄の味がした。

「ルウくん、体の中から綺麗になりましょうね?」と微笑むアイリス姉さんの背後には、一切の反論を許さない絶対的な圧。ケールと謎の薬草、そして「慈愛」という名の苦味が凝縮されたその液体を、僕は震えながら一滴残らず舐めとった。

 おかげで、かつて僕に屈辱の「苺のフリフリドレス」を着せたあの忌まわしきペナルティは、今回は免れることができた。……いや、正確には「お利口にしていれば」という条件付きの執行猶予だ。


 僕は、庭の隅にあるお気に入りの切り株の上で丸くなる。

 耳を澄ませば、遠くで子供たちが追いかけっこをしている音が聞こえる。僕の『狼王のフェンリル・ヴィジョン』は、今や「どの子が転びそうか」や「誰がおやつを隠し持っているか」を察知するためにフル稼働していた。


(……ふむ。あっちの茂みに隠れているのはレオくんか。あんなところにいたら、後でアイリス姉さんに泥汚れで怒られるぞ……。)


 そんな平和な思考に浸っていた僕だったが、ふと、鼻腔をくすぐる「異質な香り」に、全身の毛が逆立った。


 それは、花の香りではない。

 かと言って、血の匂いでもない。

 極限まで洗練され、計算し尽くされた――「死の調合」を隠し持った、高貴な芳香。


(この匂い……知っている。いや、知らないはずがない。南の大陸でこの『香り』を纏えるのは、たった一人しかいないはずだ。)


 僕は短い脚を踏ん張り、切り株から飛び降りた。着地に失敗して少し転がったが、そんな格好悪さを気にしている余裕はない。

 孤児院の門へと視線を向けると、そこには、この素朴な街にはおよそ似つかわしくない、マゼンタ色の優雅なドレスを纏った美女が立っていた。


「アイリス様、ご機嫌麗しゅう。お約束していた新作をお持ちいたしましたわ。」


 鈴を転がすような、しかし芯の通った声。

 その女性――カリスは、優雅な仕草で小さな香水の瓶を差し出した。

 表向きは、街で評判の調香師。だがその正体は、暗殺ギルド『月下狂牙』のリーダーであり、僕と同じ「444人リスト」に名を連ねる伝説の暗殺者『紅蓮華の剣』。


 僕の心臓が早鐘を打つ。

 彼女の腰に下げられた、一見するとただの装飾品に見える細い帯。あれが、あの「魂を斬る」名刀『狂牙マゼンタ』であることを、僕は知っている。


「まあ、カリスさん! いつもありがとうございます。なんて素敵な香り……。まるで、森の中で朝露に包まれているみたい。」


 アイリス姉さんは、何の疑いも持たずにその香りを胸いっぱいに吸い込み、聖母のような微笑みを浮かべた。

 対するカリスは、丁寧な礼を崩さないまま、その鋭い『ジャッカル・センス』を周囲に走らせている。

 そして、彼女の視線が――足元で毛を逆立てているマンチカンに止まった。


(しまっ……!)


 僕は慌てて、ただの猫のフリを装った。

「にゃ〜ん」と、喉を鳴らしながらカリスの足元に擦り寄る。内心では、彼女の放つ圧倒的な「剣気」に冷や汗が止まらない。


 カリスの瞳が、一瞬だけ細められた。

(……この猫。ただの愛玩動物ではないわね。この筋肉の付き方、重心の移動……。それに、この微かな硝煙と血の記憶。どこかで……?)


 彼女の嗅覚は、僕が「猫」に転生させられる前に浴びてきた、数万人の血の匂いを嗅ぎ取ろうとしていた。だが、今の僕の体からは、アイリス姉さんの石鹸の香りと、地獄のオーガニック離乳食の匂いしかしないはずだ。


「……あら、可愛らしい猫ちゃんですね。アイリス様、この子は?」

「ルウくんですよ。私の大切な……そう、家族なんです。少しお転婆ですけど、とっても賢いんですよ。」


 アイリス姉さんは、僕をひょいと抱き上げると、その柔らかな胸に抱き寄せた。

 ……ああ、これだ。この抱擁。

 かつて僕が伝説のアサシンとして世界を敵に回していた頃には、決して得られなかった「絶対的な聖域」。


 カリスは、アイリス姉さんの瞳をじっと見つめた。

 暗殺者としての本能が、彼女に警鐘を鳴らしているはずだ。

 ――この女、一見おっとりとしたいるが、悪意も何も感じない。だけど、私には真の「捕食者」みたいな気配を感じる。


「アイリス様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」

 カリスの声のトーンが、わずかに下がった。

「最近、裏の世界……いえ、巷の噂で、伝説級のアサシンたちが次々と行方不明になっているというお話を聞きまして。中には、あの『駿馬の聖域』のカバロまでもが、夜の街から姿を消したとか……。不思議なこともあるものですね。」


 カリスの探るような言葉に、僕は息を呑んだ。

 彼女は、気づき始めている。

 この平和な街の、この穏やかな孤児院こそが、アサシンたちの「終着駅」であることを。


 だが、アイリス姉さんは、小首を傾げて小鳥がさえずるように笑った。


「あら、そうなのですか? それはきっと、皆さんお疲れだったのでしょうね。きっとどこか静かな場所で、美味しいお野菜でも食べて、ゆっくりお休みになっているんだと思いますわ。ねえ、ルウくん?」


 アイリス姉さんの手が、僕の頭を優しく撫でる。

 その瞬間、僕は見た。

 アイリス姉さんの瞳の奥で、一瞬だけ、底なしの「闇」……いや、一切の悪意を無効化する「純粋な秩序」が、静かに波打つのを。


 カリスの背筋に、目に見えるほどの戦慄が走った。

(……今のは、何? 殺気ではない。威圧でもない。まるで、世界そのものが彼女に跪いているような……。)


 カリスほどの達人であれば、わかるはずだ。

 今、この場所で、彼女がもし『狂牙マゼンタ』に手をかけようものなら――その瞬間に、彼女は「人間」であることを辞めさせられるだろう。

 ある者は猫に、ある者は人間銅像に、そしてある者は……。


「……そうですわね。きっと、彼らは幸せな『日常』を見つけたのでしょう。羨ましいことですわ。」


 カリスは、精一杯のポーカーフェイスを保ちながら、深く頭を下げた。

 彼女の額には、一筋の汗が伝っている。

(やはりこの女、ただものではない。……この『聖母』に逆らうことは、死よりも恐ろしい『更生』を意味する。)


「では、私はこれで失礼いたします。また新作ができたら、お持ちしますわ。」


 カリスは逃げるように、しかし優雅な足取りを崩さずに去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、僕はアイリス姉さんの腕の中で、安堵の溜息をつく。


(助かった……。カリス、君は賢いよ。もし君があそこで剣を抜いていたら、今頃はマゼンタ色の毛並みをしたジャッカルとして、この庭でフリスビーを追いかける羽目になっていただろうからね。)


「ふふ、ルウくん。カリスさん、とっても素敵な方だったわね。でも、なんだか少し、肩の力が入っていたみたい。今度いらした時は、もっとリラックスできるハーブティーを淹れてあげましょうね?」


 アイリス姉さんの微笑みは、どこまでも澄み渡っていた。

 だが、僕にはわかる。

 彼女の「お説教」のリストに、新しく『調香師カリス』の名前が脳内に書き加えられたことを。


 平和な、しかしあまりにも危うい孤児院の午後。

 僕は、遠く南の空を眺めた。

 僕はこのとき、二大巨悪の戦争がもたらす、暗雲が立ち込め始めているとはまだ思わなかった。


(……にゃあ(……やれやれ。あいつらがこの街に来る前に、なんとか食い止めないと。アイリス姉さんが本気で怒ったら、この大陸から『悪役』という概念そのものが消滅して、みんな仲良くお花畑で草むしりをすることになるからな。))


 僕は、アイリス姉さんの胸の中で、自身の短い爪を密かに研いだ。

 かつての伝説の暗殺者、今はただのマンチカン。

 僕の新たな戦いは、この「恐ろしくも愛おしい日常」を守り抜くことなのだ。


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