幕間B:元『白爪』たちの密かな集会
南の大陸、とある賑やかな港町の外れ。
アイリス姉さんの孤児院での「奉仕活動」や「お馬さんごっこ」、そして「おむつ替え」という名の過酷な戦場から一時的に解放された12人の男女(と一匹の猫)は、街で一番大きな酒場『潮風の蹄亭』の隅にある大型の円卓を囲んでいた。
全員が農夫や町娘、平凡な職人の格好をした「一般人」に変装している。かつて大陸中の国家が恐れ、伝説の暗殺ギルドとして君臨した『白爪』の面影は、そこには微塵もなかった。
「……今日はアイリス様も、あの恐ろしい飼い主たちも誰もいねぇ。……みんな、本当にお疲れさん。乾杯だ!」
切り込み隊長だったガロが、声を潜めつつも力強くジョッキを掲げた。
「「「乾杯!!!」」」
11人と一匹の「乾杯」が唱和される。僕は、特製の小さな皿に注がれたミルクをペロペロと舐めながら、思念波で仲間に語りかけた。
僕はリリオのバッグの中に隠れながら息をひそめている。
(みんな、羽目を外しすぎるなよ。……特にガロ、叫び声で店を壊すな。ここはアイリスの管轄外とはいえ、ルンさんの『耳』がどこにあるかわからないんだから)
「わかってるって、リーダー。……いや、今はルウくんだっけか」
(今でもルウくん、だろ、ガロ)
僕は内心どうでもいいことに横やりを入れたい。しかし、ガロはそのテレパシーを気にせずに苦笑しながら、エールを一気に煽る。
酒が回るにつれ、話題は必然的に「あの頃」へと流れていった。かつて彼らが、弱者を救うために「死神」を自称し、世界を裏から作り変えていた時代のことだ。
「……思い出しますね。かつての私たちの美学を」
脱水魔術の使い手、サレが静かにグラスを回した。
「私が砂漠の国で、悪徳商人のキャラバンをまるごとミイラにした時のこと……。あの時は、一瞬の接触で敵の軍勢が枯れ木のように倒れていった。あの方は私の力を見て、恐怖のあまり失禁して命乞いをしましたが、私は無慈悲にその最後の涙さえも奪い去った……。あの頃の私は、間違いなく『最悪の乾枯』として、世界の水分を支配していたわ」
「ああ、懐かしいな。俺もかき氷機じゃなくて、巨大な魔法糸を操っていた頃が一番輝いてた」
ニヴェが遠い目で頷く。
「国一つの気温をマイナス100度まで下げて、腐敗した貴族たちをその贅沢な晩餐ごと氷の彫刻に変えたっけ。あの静寂……あの美しい絶滅の風景は、今の『子供たちに配るシロップの甘い匂い』とは正反対だったぜ」
「ボーンさんなんて、当時は伝説の『解体師』だったじゃないですか。メス一本で、一軍隊の神経だけを抜き取って、生きたままの解体ショーを見せていた」
パペが折り紙を弄りながら言うと、最年長のボーンが深くため息をついた。
「……ああ。あの頃は、私の前に立てば誰もが『標本』に過ぎなかった。今は……赤ん坊のデリケートな肌を傷つけないよう、おむつを替える時に爪を立てない練習の毎日だ。解体技術が『おむつを如何に素早く、かつ正確に交換するか』に転用されるとは、医学の神も予想していなかっただろうな」
かつての凄惨な戦果。累計4万人を超える命を刈り取ってきた『白爪』の歴史。その断片が語られるたび、卓の空気は一瞬だけ、かつての鋭利な殺気を取り戻す。
しかし、リリオが自嘲気味に笑い、現在の話を切り出した瞬間に、その空気は一気に「哀愁」へと変わった。
「……で、今はどうよ。私なんて、ルウ様とティル様の護衛を務めたっていうだけで『無期限・便所掃除』の刑よ? 孤児院だけじゃなく、役所の全トイレを素手で磨くの。私の放つ『誘引の香気』は、今や芳香剤代わり。花の毒針を振るう代わりに、ブラシを振るう毎日。……アサシン時代の評判が聞いて呆れるわ」
「まだマシだぜ、リリオ。俺なんか、194cmのこの巨体で、一日中エプロン着て孤児院の天井の埃取りだ」
ライが大きな手を広げて嘆く。
「かつては白鉄槌で大地を砕き、重力で敵を肉塊に変えていたこの腕が、今は壊れたおもちゃの修理と、布団干し専用だ。リーダー、俺たちのプライドはどこへ行っちまったんです?」
(……ライ、それを僕に聞かないでくれ。僕だって、ハヤブサを凌駕するほどの神速を奪われ、今はアイリスにイチゴのフリフリドレスを着せられるかどうかの瀬戸際で生きているんだ。……むしろ、猫の姿でチラシ配りのお供をしている僕の社会的死に比べれば、君たちの便所掃除や布団干しなんて、まだ『人間』扱いされているだけマシだよ)
僕の思念波に、メンバー全員が黙り込み、そっと自分のジョッキを見つめた。最強の暗殺集団が、一人の保育士と数人の「飼い主」によって、完全に無力化され、社会の歯車……もとい、社会の「雑用係」に作り替えられてしまった。この事実は、何度酒を飲んでも飲み込めるものではなかった。
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その時だった。酒場の外から乱暴な扉の音がする。木でできた扉がバンと蹴破られたとき、その不快な音は僕たちや周囲の客の感傷を切り裂いた。
「出たあ! なんだこのチンピラどもは!?」
一般客の悲鳴が上がる。
入り口には、いかにも小悪党といった風貌の男たちが10人ほど、抜身の武器を手に立っていた。
「おいこら! ここは今日から俺たちの縄張りだ! みかじめ料を払え!」
リーダー格のチンピラが、カウンターを蹴り飛ばす。
「店長を呼べ! 払わねぇなら、この店をガラクタにしてやるぞ!」
酒場が恐怖に包まれる。客たちが隅に固まり、震える中で、チンピラの一人が『白爪』たちの座る円卓に目を留めた。
「おい、そこのシケたツラの連中! 何見てやがる! さっさと荷物まとめて失せろ! ……あ? その猫、美味そうじゃねぇか。鍋にでもしてやるよ」
チンピラの手下らしき男が、僕を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間。
円卓を囲んでいた11人の瞳に、同時に「極北の冷気」が宿った。
(……みんな。出番だ。……身の程を知らせてやれ。だが、殺しは厳禁だ。……もし死体が出たら、アイリス姉さんの『般若』が降臨する。……わかるな? 命を奪わず、精神だけを再起不能にするんだ)
僕の冷徹な「俺」の思念波が飛ぶ。
「「「了解、リーダー」」」
「誰か、誰か通報してくれ!」
客が叫ぶ中、最初に動いたのはパペだった。
「騒がしいですね。……言葉でわからないなら、文字で覚えましょうか」
パペが胸ポケットから取り出したのは、何の変哲もない一枚のハンカチ。それをひらりと投げた瞬間、ハンカチは真空を切り裂く「鋼の刃」へと変貌した。鋼の刃のハンカチは勇者や魔王すら恐れるような手品だ。
「……あ?」
チンピラの一人が声を出すより早く、彼の着ていた服のボタンだけがすべて弾け飛び、持っていたナイフが数ミリ単位の薄切りにされて床に落ちた。パペの『最悪の断罪』の片鱗。
「ヒィッ!? 魔法紙か!? いや、ただの布……?」
チンピラたちが後ずさりするが、逃げ場はない。
「お前たち、店から出ていけ。……そして、二度とこの街で『食べる』なんて言葉を口にするな」
ライが、ゆっくりと立ち上がった。194cmの巨体が放つ、本物の「怪物のプレッシャー」。かつて大陸を震え上がらせた『最悪の濁流』の気迫が、酒場全体の重力を数倍に引き上げたかのような錯覚をチンピラたちに与える。
「……ひっ、あ、ああ……」
チンピラたちは、ライの目を見ただけで失禁した。蛇に睨まれた蛙ではない。巨大な山に押し潰される蟻の心地だ。
続いて、ガロがそっと口を開く。
「……おい。……あんまり騒ぐと、俺の『目覚まし』が鳴っちまうぜ?」
ガロの喉が微かに振動する。特攻隊長のガロの口からは音が出ないようにも思われた。しかし、実際に放たれたのは、人間の耳には聞こえない超高周波。これは鶏の鳴き声というよりもコウモリの超音波だ。この音を聞いたチンピラたちの三半規管が、一瞬で狂わされた。
「う、うわあああ! 世界が回る! 吐き気が……!」
チンピラたちは武器を捨て、床を這いずり回る。そこにボーンが医者らしい穏やかな足取りで近づき、一人の手首を「トン」と突いた。
「……安心してください。死にはしません。ただ、今後三ヶ月ほど、腕に力が入らず、箸を持つことさえ苦労するよう『調整』しただけですから。……更生にはちょうどいいでしょう?」
わずか数分。
武器を抜くことも、魔法を唱えることもなく、街を脅かしていたチンピラたちは、ボロ雑巾のようになって店の外へ逃げ出していった。
酒場の客たちは、呆然としていた。今の「平凡な職人たち」が何者なのか、理解できる者はいなかった。ただ一つ確かなのは、彼らが「絶対に怒らせてはいけない何か」であることだけだ。
「……ふぅ。いい運動になったな」
ガロが再びジョッキを手に取る。
(……やれやれ。お利口さんにしているのも楽じゃないね)
僕が鼻を鳴らす。
「……でもリーダー。今のを見て思いました。俺たちの技術、やっぱり『掃除』や『おむつ替え』に使うのは、宝の持ち腐れですよ」
アルムが苦笑しながら言う。
(……アルム。それを言うなら、僕だって同じだ。……でも、思い出せ。もし僕たちがここで本気で暴れて、街の平穏を壊したら……明日、誰がアイリス姉さんの『般若の説教』を受けると思う?)
「「「………………」」」
全員が、一斉に震え上がった。
チンピラの軍勢よりも、死神の軍団よりも、何よりも恐ろしいのは、自分たちを「ペット」や「スタッフ」として飼い慣らしている、あのおっとりとした保育士の怒りなのだ。
「……ガロ、今のチンピラが壊したカウンター、パペの折り紙で補修しておけ」
「了解だ、ボーンさん。……あーあ、結局俺たち、更生されてんのかな」
「更生」ではない。「調教」だ。チンピラたちが這う這うの体で逃げ出した後、静まり返っていた酒場に、堰を切ったような歓声と拍手が沸き起こった。
「す、すごい! あんたたち、一体何者なんだ!?」
「あのガラの悪い連中を一瞬で追い払うなんて……ありがとう、助かったよ!」
店員が震える手で新しいエールを運び、一般客たちが尊敬の眼差しで円卓を囲む。かつては数万の軍勢に恐れられ、その姿を見た者は死を免れなかった『白爪』のメンバーにとって、これほど真正面から「感謝」を向けられるのは、あまりにも奇妙で、むず痒い経験だった。
「……あ、いや。ありがとうございます。ですが、お礼を言われるほどのことでは……」
最年長のボーンが、使い古した医者の鞄を抱え直し、人当たりの良い笑みを浮かべて立ち上がった。
「私たちはただの、しがない行商人の集まりですよ。たまたま護身術を少々嗜んでいただけでして。……さあ、夜も更けました。皆さんも無事で何よりだ」
「行商人だって? 嘘だろ、あの身のこなし……」
客たちは半信半疑ながらも、ボーンの醸し出す「枯れた老紳士」の空気に毒気を抜かれ、それ以上の追及を止めた。
(よし……。ボーンさん、ナイスフォローだ。これで僕たちの正体も、昨日の『粛清』もバレずに済んだはずだ!)
ルウ(猫)は心の中でガッツポーズを決めた。伝説の暗殺者が、一般客に紛れて酒を飲み、ちょっとした善行を積む。これこそが「便利屋」としての理想的な姿ではないか。
(みんな、今日はここまでだ。深酒する前に、アイリスの門限までに帰るぞ!)
11人と一匹は、英雄として見送られながら、意気揚々と夜の街へ消えていった。彼らの背中には、自分たちが「いいことをした」という満足感が、微かな誇りと共に漂っていた。
かつての伝説の暗殺者たちは、酒を飲み干すと、再び「善良な市民」の仮面を被り、門限を守るために孤児院へと帰路につく。
南の大陸の夜は、今日も静かだ。
それは、世界で最も危険な12人が、一人の聖母によって「お利口さん」にされているという、奇跡のような恐怖の上に成り立っている静寂であった。
(……さあ、帰ろう。明日はルウくんとして、孤児院のチラシ配りだ。……フリル付きのドレスを着せられないよう、全力で甘えなきゃな)
マンチカンになった「最悪の終焉」もとい僕は、月の下で小さく鳴いた。
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翌朝、孤児院の講堂。
朝日が差し込む穏やかなはずのその場所に、この世の終わりを凝縮したような重苦しい空気が停滞していた。
床の上には、12人の男女(と一匹の猫の僕)が、一列に並んで「正座」をしていた。「正座」をさせられる道理がどこにあるというのだろうか。
誰一人として口を開かない。聞こえるのは、カチ、カチと規則正しく時を刻む時計の音と、目の前に立つ女性がめくる紙の音だけだ。
アイリスは、いつもの穏やかな保育士の服を纏い、手には一枚の「報告書」を持っていた。その瞳はまだ水色だが、纏っている空気はすでに、数千度の熱量を持つ「静かな怒り」に満ちている。
「……皆さん、おはようございます。昨夜は随分と『楽しく』過ごされたようですね?」
アイリス姉さんの声は、驚くほど澄んでいた。しかし、その一言でガロの背筋に氷が走る。
「あ、アイリス……。それ、何のことかな……?」
「とぼけないでください。今朝、街の警備局から『感謝状を兼ねた通報』が届きました。……昨夜、酒場で『行商人の集団』が乱闘騒ぎを起こした、と」
アイリス姉さんが報告書をピシッと叩く。
「その結果……お店の備品が一部破損し、他のお客様に多大な恐怖を与え、さらに『暴力』によって解決を試みた不逞な輩がいた……。特徴が、あなたたちと完全に一致しています」
「アイリス! 誤解だ! あいつら、店でみかじめ料を要求して、店員を脅して……店に迷惑行為をやったんだぞ!」
ガロが必死に弁解する。
「そうだわ! 私たちはただ、自衛のために動いただけよ!」
ペルラも加勢するが、アイリスの肩がピクリと揺れた。
「……黙りなさい」
その瞬間、講堂の温度が物理的に数度下がった。
アイリスが顔を上げた。水色の瞳は鮮血のような赤に変色していた。
―レッド・アイ・ドミナンス、眉間には逃げ場のない憤怒の紋章が刻まれている。
「……許可なく夜の街へ飲み会に行った挙句、それですか」
「ひぃっ……!」
サレが、あまりの恐怖にルウの毛に顔を埋めた。
「ルウ様……ルウ様助けてください……アイリス様が、般若になっておられます……!」
(サレ、無茶を言うな! 僕だって今、心臓が口から出そうなんだ!)
「……いいですか? あなたたちの正体は、この街では『更生中の身』です。暴力が暴力を呼ぶことさえ理解せず、酒の勢いで自警団気取り……。それは、あなたたちが最も嫌っていた『力に溺れる外道』と同じ行いではありませんか?」
アイリス姉さんが一歩、近づく。その足音は、死神の鎌が地面を擦る音よりも恐ろしい。
「……『殺しまではするな』と言えば許されると思いましたか? ルウくん。君が一番の責任者でしょう。君が止めるどころか、合図を出したという証言も入っていますよ」
(アイリス、それは……! 僕はただ、みんなの……)
「ヒーローごっこもいい加減にしなさい。 正義という言葉を、自分たちの暴力を正当化するための盾に使うのは、私が最も嫌う『命の安売り』です。……そんなに力が余っているなら、今日から一ヶ月、街の全下水道の清掃を『素手』で手伝ってきなさい。それが、あなたたちの汚れた『正義』を洗い流す唯一の方法です」
アイリス姉さんの背後に、巨大な般若の幻影が見えた気がした。
「……はい、承知いたしました……」
12人の伝説の暗殺者たちが、一斉に畳に額を擦りつけた。
かつて世界の終焉と呼ばれた『白爪』は、こうして「善行」を積んだつもりが、聖母の逆鱗に触れ、下水道という名の真の地獄へと叩き落とされることになったのである。
(……カバロ。君が昨日、僕たちを『最強』だと言ったけど、訂正するよ。……この街で一番怒らせてはいけないのは、神でも魔王でもなく、お説教中の保育士さんだ……)
僕は、深く、深く絶望に沈んだ。
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翌朝。嵐のような説教の余韻で脳を直接揺さぶられた僕たちは、かつての「暴力の英雄」とは思えぬ虚無の表情で中庭の掃除に励んでいた。そこへ、軽快な蹄の音と共に郵便馬車が現れる。
「おはようございます、聖母様! 本日も神々しい。お手紙をお届けに参りました」
郵便局長ゼトが、120%の善意を張り付けた完璧な笑顔でアイリス姉さんに封筒を差し出す。その内側に潜む「主」への忠誠と、心臓を叩く警鐘の音を、彼はプロの技術で完璧に殺しきっていた。
「あら、ゼトさん。いつもお疲れ様です」
「いえいえ! あ、そちらの一枚は近隣の特売チラシです。主婦の皆様に大人気だとか」
姉さんがチラシに目を落としたコンマ数秒、ゼトの視線が足元で丸まる僕を射抜いた。
(主、覚悟を。事態は一刻を争います)
姉さんが去った後、僕は誰にも見られぬようチラシを前足で引き寄せた。極小の魔力を込めれば、安売りの卵や野菜の裏から『不可視のインク』による絶望的な暗号が浮かび上がる。
南東に「煉獄の火」、北西に「静寂の台風」。そして中央には、すべてを焼き尽くさんとする業火のイラスト。
「……にゃあ(……ベスパか。ゼト、これは予言だな?)」
伝説の暗殺者としての本能が、鋭く研ぎ澄まされる。この街に迫る「最悪」を止められるのは、アイリス姉さんの拳か、あるいは——僕の牙だけだ。




