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最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第4部-駿馬の聖域滅亡
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停滞-届かない報告

 

 依頼者の青年、エレンは、街外れの安宿の硬いベッドで横になっていた。湿気を含んだ藁の匂いと、寝返りを打つたびに軋む安っぽいベッドの音が、エレンの神経を逆撫でし続ける。彼は天井の染みを凝視しながら、あの夜の「重圧」を思い出していた。


「てめぇ、よくも親分を裏切って証拠を横流ししてくれたな! 命で購ってもらうぞ!」


 武器商人の裏帳簿を盗み出し、私設軍隊に追い詰められたあの日。背中に深い切り傷を負い、血と泥に塗れて這いずり回った絶望の淵。息を切らしながらも彼が最後に辿り着いたのは、裏社会で「弱者の最後の砦」と噂される古びた教会の裏手だった。


 そこに、紺色のマントを夜風に翻し、重力槍を携えたカバロが立っていた。彼は追っ手たちを一瞥もせず、瀕死の青年を片手で静かに抱え上げた。


「……あなたの重い思い、確かに受け取りました。あとは私に預け、あなたは明日を見なさい」


 その声には、物理的な質量さえ感じさせるほどの「確信」があった。カバロが軽く指を弾いた瞬間、追走してきた追手たちは、見えない巨人の足に踏みつけられたように地面へと圧搾された。それが、エレンが人生で初めて触れた、圧倒的なまでの「救い」の形だった。


 -----


「明日を見なさい、か......」


 カバロのもとへ来た回想を終えたエレンが依頼を申し出た日から数週間。エレンの願いに反して、カバロからの連絡はぷっつりと途絶えていた。

 今朝ベッドから起きた青年がいるのは、かつての喧騒とした物騒な商人や強盗が入り乱れるような町ではない。

 ここは緑あふれる自然だらけの田舎。かつてボロボロになった青年はそよ風を感じながらもやるせない表情で、その音を聞きながら洗濯物を干している。その冷たい風はどこか虚しさも運んでいるように肌に突き刺す。


「カバロさん、どうしたんだろう……。あの屋敷からはあの日、凄まじい衝撃波と光が見えた。片付けてくれたんだろうか。まさか死んだとか? ……いや、あの人に限ってそれはありえないはずだ。どうしても、本気で生きていたいという思いだけはあの人に伝えなければならないんだ……」


 エレンはカバロの助言通り、復讐の続きを彼に委ね、見知らぬ小さな村で働き始めていた。絶望のそこから抜け出したいと願うエレンだが、彼には気がかりだけがあった。

 ――自分が求めていた救世主が消えてしまえば、どうなるのやら。求めていたものが消えてしまえば、また絶望の淵からやり直しなのだろうか。

 支えだった「救世主」の気配が消えたことで、不安は募るばかりだ。しかし、同時に救世主への疑いもある。「詐欺だったのか」という怒りもわずかにあったが、彼はその感情に反して淡々とした表情で独白する。


「かつて有名だった便利屋のルウさんとかいう人が生きていれば、相談に乗ってくれたかもしれない。……でも、あの人も結局は裏社会の人間で、今じゃ信用マイナスだって噂だしな。やっぱり、自分たちの正義なんて、この程度で霧散してしまうのか……」


 彼は、昼間の青い空を流れる雲を、ただ無力感の中で見つめることしかできなかった。


 そんな彼の前に、涼しげな風と共に一人の女性が姿を現した。

 アイリスのような圧倒的な覇気や、ルンのような氷の威圧感とも違う。ただそこにいるだけで、周囲の空気が澄み渡り、土の匂いと森の静寂が満ちていくような、不思議な存在感を纏った女性。


「……随分と険しい顔をしていますね。カバロを待っても無駄ですよ。彼は今、……そう、少し『毛深い修行』に出ていますから」


「誰だあんたは!なぜその名前を知っている?」


 エレンは目の前にいる女性の衝撃的な発言に反射的に身構えた。だが、彼女が歩く足元から、枯草が青々と色づく。風の音が歌のように聞こえ始める。彼女が一歩ずつ近づくにつれ、自分の中にあった攻撃性や警戒心が、まるで春の雪のように溶けて消えていくのを感じた。


「自己紹介をするまでもありません。私はただの薬草農家……そして、この地域の『乱れ』を整える者です」


 そこに立っていたのは、世界の魔力バランスを司る調律師、ピセアだった。彼女はおっとりと微笑みながら、エレンの隣に腰を下ろした。


 ピセアの圧倒的な「中立」の気配に、エレンは言葉を失った。ピセアは彼の手をそっと取り、その掌に残る「カバロの重力魔力の残滓」を優しく撫でた。すると、復讐心と共にエレンを蝕んでいた魔力の毒素が、緑色の光となって浄化されていく。


「カバロがあなたの復讐を代行したことで、あなたの運命の天秤は少し狂ってしまいました。彼に頼り続けるのは、あなたの魂のためになりません。暴力で解決した正義は、また別の暴力を呼び寄せる種になるのですから」


「なぜだ……! 奴らは……奴らは子供たちを売り飛ばし、村を焼いたんだぞ! 報いを受けるのは当然じゃないか!」


 エレンの叫びに、ピセアは否定も肯定もせず、ただ慈愛に満ちた瞳で見つめた。


「確かにそうかもしれませんわ。でもね……。その怒りをまきにして生きるには、あなたの人生はあまりに美しすぎます」


 ピセアは立ち上がり、エレンの前に小さな薬草の苗を置いた。


「今日から、私があなたの『管理』を引き受けます。まずはこの森の薬草を100種類覚え、正しく育てることを学びなさい。それができたら、村での商売の許可証をルンに発行させ、あなたの新しい人生を保証しましょう。……ああ、逃げようとは思わないで。この森の木々が、あなたの足音をすべて私に教えてくれますから」


「100種類......だと……?おいおい、これはカバロさんからのご報告なのか、それとも何かの罰当たりなのか?」


 エレンは一瞬呆然としかけたが、彼女に問うも何も答えることはなく微笑んでいた。なぜか逆らう気が起きない。それどころか、彼女の側にいると、あれほど自分を突き動かしていた「殺意」が、ふかふかの土の中に吸い込まれていくような、奇妙な幸福感さえ感じていた。


(なんだこれは……? 悪意が、浄化されていく……。暖かい、森の中にいるみたいだ……)


 青年は気づいていなかった。カバロという「暴力の騎士」から解放された先で待っていたのは、ピセアという「逃げ場のない安らぎ」による、より完璧で、より健康的な、逃走不可能な「強制的な更生」であったことに。


 カバロが残した最後の依頼の結末。

 それは、依頼者を自由な荒野へ解き放つことではない。

 復讐に燃える魂を「飼い主」たちの穏やかな支配下へと繋ぎ止め、暴力の介在しない、徹底的に管理された「幸福な平穏」へと強制的に調律すること。


 エレンは、ピセアが差し出したスコップを、抗うこともできずに受け取った。

 その表情からは、かつての鋭利な光が消え、ただ静かな、あまりに静かな従順さが芽生え始めていた。


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