凶兆-空に刻まれる「二大巨悪」の影
街外れの小高い丘。そこには、真鍮製の巨大な望遠鏡と、無数の精緻な歯車が噛み合う天球儀を備えた移動天文台が静かに佇んでいた。
占星術師ロキは、接眼レンズからゆっくりと目を離すと、深く背負い椅子に身を預け、肺の底にあるすべての空気を吐き出すような溜息をついた。
「……やれやれ。カバロの重力反応が完全に消失し、代わりに『愛玩動物』特有の微弱なバイタルサインに書き換わったか。駿馬の聖域も、これでもうチェックメイトだな」
ロキの手元の計算用紙には、カバロたちがセダに捕捉された瞬間の、絶望的なまでの因果律の変動が数値化されていた。彼にとってカバロは、放浪時代からの腐れ縁だ。カバロが重力魔法を使うたびに乱れる星の運行を、ロキが緻密な物理計算で修正し、因果の歪みを隠蔽してやる。それが二人の間の「裏の信頼関係」だった。
だが、その複雑な計算も、もう必要ない。数式は、最強の騎士が「一匹の猫」へと定義を書き換えられたことを無慈悲に示していた。
「カバロ、お前とは長い付き合いだったが……さすがに『あの女』相手に加勢するほど、俺は命知らずじゃない。お前を助けに行って、俺までハムスターか金魚にされるのは御免だ。……いや、俺の場合は星でも眺めさせられ続ける亀にされるのが関の山か」
ロキは冷めたハーブティーを一口啜り、再び「何事もなかったかのように」星空の観測へと戻ろうとした。
しかし、再び望遠鏡を覗き込んだ彼の指先が、微かに震えた。
接眼レンズの向こう側――南の大陸を司る星図。
本来であれば規則正しく並び、淡々と運命を刻むはずの星々が、まるで黒いインクを零したように歪み、不気味な脈動を繰り返している。
「……むう。これは、ただの気象の乱れじゃないな。星々が……怯えている?」
ロキの瞳が急速に動き、空に描かれる見えない魔力の奔流を追う。
彼の占星術は、単なるオカルト的な未来予知ではない。世界を構成する「熱」と「冷」、そして「破壊」と「秩序」のバランスを読み解く、高次の物理学だ。
「南東からは、万物を焼き尽くし放棄する『煉獄の火』。北西からは、すべてを削ぎ落とし秩序で縛る『静寂の刃』。……この二つの巨大な『絶望』が、磁石に引き寄せられるように一点へと集束している。これは……」
ロキは計算用紙を乱暴に剥ぎ取り、ペンを走らせた。数式を叩きつけるように書き込むその音が、静かな天文台に鋭く、そして不吉に響く。
算出された結果は、一国の崩壊どころではない。南の大陸そのものが沈みかねない規模の「衝突」を示していた。
「……始まったか。裏で有名な極悪人たち。大陸の二大巨悪による大戦争の予兆だ。カバロが猫になった程度で平和になったと思ったが、とんだ勘違いだったようだな。奴らが動けば、この街の平和なんて一瞬で消し飛ぶぞ」
ロキはアラートのスイッチに手をかけ、ゼトやメイ、そして潜伏中の協力者たちへ「最高警戒レベル」の信号を送り始めた。
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その信号を受け取ったのは、街の路地裏に店を構える腕の良い仕立て屋、メイだった。
彼女は今、アイリスから発注された「ルウくん用の新作フリルドレス」の仕上げを行っていた。
「あら、ロキの坊やから緊急信号? 随分と血圧の上がりそうな数値ね」
メイは手元を止めず、老眼鏡越しに通信魔石の数値を読み取った。
彼女の表の顔は、孤児院にも出入りする善良な仕立て屋。だが裏の顔は、伝説のアサシンたちの「抑制装置」を作り、身分を偽造する『偽造屋』だ。
彼女は、ルウのドレスのタグの裏に、手慣れた手つきで「連絡用魔石」を縫い付けながら、ふふっと不敵な笑みを漏らした。
「いよいよ、あのマンチカンにされたルウさんも出番かしら。あんなに可愛らしくされて、牙の研ぎ方も忘れていなきゃいいけれど」
メイの頭の中では、すでに「戦争」という名の巨大な商機と、それ以上に巨大な「リスク」が天秤にかけられていた。大陸の巨悪が動く。それは、彼女たちが守ってきた「偽りの平穏」が、物理的な暴力によって蹂躙されることを意味する。
「ふふふ、もし本当に大戦争になったら、あの子たちの『正装』……戦闘服の復元、どれだけ値段がかかるかしら。生地は防魔法繊維の特注、裏地には転移触媒。おまけに、今の猫の姿では戦うことは無理ね。人間の姿に戻って戦うなら、足を保護する特製のブーツも必要ね」
メイは冷静に、しかし着々と「戦争の準備」を始めていた。
彼女にとって、世界が燃えることは悲劇ではない。だが、自分が丹精込めて仕立てた「偽りの日常」が、無粋な軍隊に土足で踏み荒らされることは、職人としてのプライドが許さなかった。
「……けれど、一番の問題は予算でも物資でもないわ。アイリスさんにこの裏工作がバレたら、私たち全員、それこそ『消滅』だもの。あのアバズレ……失礼、聖母様の笑顔の裏にある深淵だけは、どんな偽造品でも欺けないわね」
メイは、縫い針を一本、ピンクのドレスに深く刺した。
それは、これから来る地獄への、彼女なりの宣戦布告だった。
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時を同じくして、街の老舗郵便局。
局長のゼトは、深夜の事務室で山積みになった郵便物の仕分けを行っていた。
彼はルウが率いていた『白爪』に命を救われた過去があり、ルウが猫になった今でも、彼を唯一無二の「主」と仰ぐ忠義の徒である。
「ロキからの警告、確かに。南東と北西の巨悪が同時に動く……か」
ゼトは、アイリス宛の「特売チラシ」を一枚手に取り、特殊な魔力を指先に込めた。
チラシの裏には、特定の波長の魔力でしか見ることができない不可視のインクで、緊急事態の内容がびっしりと書き込まれていく。
「主(ルウ様)へ届けるべきだが……今の主は、アイリス様の膝の上でイチゴドレスの洗濯について抗議している真っ最中だ。不用意に連絡すれば、アイリス様のセンサーに引っかかる」
ゼトは苦渋の表情を浮かべた。彼はアイリスに対面する際、常に120%の善意と敬意を装い、一切の「裏の気配」を消し去ることに心血を注いでいる。彼女に怪しまれることは、そのまま組織の壊滅を意味するからだ。
しかし、ゼトの懸念はそれだけではなかった。
「……最近、あのベスパという男。街のスラム街についての『大規模改造計画』を建てているらしいが、どうもおかしい。表向きは環境改善を謳っているが、あの男の周囲を流れる情報の『臭い』が、あまりにも不浄だ」
ベスパ。南の大陸で急速に台頭してきた新興の権力者。
ゼトの情報網に掛かる彼の動きは、単なる都市計画の範疇を大きく逸脱していた。スラムの地下、下水道の拡張、そして浮浪者たちの不可解な失踪。
「まるで、街そのものを一つの『回路』に書き換えようとしているかのような……。いや、まさか」
ゼトはチラシを封筒に入れ、封蝋を施した。
表書きには「孤児院・アイリス様へ。日頃の感謝を込めて」と、流麗な文字で書かれている。この封筒が明日、アイリスの手に渡る際、彼は最高の笑顔で「いつもお疲れ様です、聖母様」と言わなければならない。
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移動天文台では、ロキが再び計算を終えていた。
算出された衝突のXデーは、すぐそこに迫っている。
「ゼト、メイ。聞こえるか。……潜伏中の協力者たちへ、最高警戒レベル『5』を継続しろ。南の大陸を揺るがす戦火は、もうこの街の目と鼻の先だ」
ロキの通信に、メイの軽やかな声と、ゼトの重々しい声が重なる。
「メイよ。ドレスの予備ならいくらでもあるわ。……マンチカンの騎士様たちの牙、研いでおいてあげる」
「ゼトだ。郵便網はすでに第二回線へ移行した。……主への連絡は、機を見て行う」
ロキは、夜空の深淵で不気味に脈動する二つの巨大なエネルギー――『煉獄の火』と『静寂の刃』を見つめた。それらは、大陸を二分する極悪人たちの軍勢そのものだ。
「……カバロ、ルウ、ティル。あいつら、猫や犬になって丸まっている場合じゃないぞ。もし、この戦火がこの街にまで届いたら……もし、この事態をあの『飼い主』たちが知ったら……!」
ロキは、自分の想像した「最悪の未来」に身震いした。
敵の巨悪たちが恐ろしいのではない。その巨悪たちが街を荒らしたことに激怒した、アイリスやルン、セダといった「飼い主」たちが、真の力(般若の憤怒)を解放することこそが、この世の真の終わりを意味するのだから。
「……そうなれば、この街は戦場にすらならない。ただの『更地』、あるいは『巨大なペットショップ』に変わるだけだ」
ロキは望遠鏡を最大倍率まで上げ、夜空の深淵を見つめた。
南の大陸を揺るがす、もふもふとした平穏と、血生臭い地獄が混じり合った新たな幕が、今まさに上がろうとしていた。
孤児院の縁側で、まだ自分の肉球の感触に絶望しているルウ。
ピセアの薬草園で、小さくうずくまりニンジンを齧るフォルトとアスト。
セダの屋敷で、ロシアンブルーとしての生活を強いられたカバロ。
そして、ルンのバッグの中で瞬きを禁じられているティル。
彼ら「伝説の怪物」たちが、再びその牙を剥く日は近い。
たとえ、それがイチゴドレスを着たままであったとしても。




