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最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第4部-駿馬の聖域滅亡
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絶望-教育者の絶対領域

 

 月明かりが、瓦礫の山となった武器商人の屋敷跡を青白く照らし出していた。

 かつて「駿馬の聖域」として世界を震撼させ、各国の諜報機関から「歩く天災」と恐れられた三人の怪物たちは、今、己の目を疑っていた。


 団長であるカバロが、その全霊を賭して放った極小特異点――「天秤の奈落」。

 空間を圧砕し、光さえも事象の地平へと引きずり込むはずの絶対重力が、目の前の女性――セダが手にした一本の「竹の定規」によって、まるで見えない埃を払われるかのように、いとも容易く霧散させられたからである。


「坊ちゃん、逃げようなんて考えないことですね。あなたの重心、筋肉の弛緩、魔力の練り方に至るまで……すべて、私が教えた『癖』の延長線上に過ぎないのですから」


 セダの声は、夜の静寂に溶け込むほど穏やかでありながら、逆らうことを細胞レベルで拒絶させる冷徹な響きを帯びていた。カバロは、額に滝のような冷たい汗を浮かべながら、必死に声を絞り出す。


「待て……待て、セダ! 私の話を聞け! 我々は、この街の不浄を……正義の名の下に、弱き者を救うために……!」


 だが、その言葉は最後まで続かなかった。セダの瞳から放たれた「冷徹な慈愛」――それは、相手が積み上げてきた誇りも、磨き上げた武技も、すべてを「聞き分けのない子供の我儘」へと格下げしてしまう圧倒的な精神圧であった。


 国家転覆級の戦闘力を持つカバロ、インル、プレザの三人が、特売のネギを提げた一人の侍女の前に、ただの震える子供のように立ち尽くす。

 彼らの足は竦み、最強を誇った指先は、伝説の槍を握る力さえ失っていた。


「さて。その無駄に尖ったプライドを、少し丸めて差し上げましょう。今のままでは、社会という名の美しい庭を傷つけるだけの、ただの『害獣』ですから」


 セダが優雅な所作で一歩踏み出し、カバロの額にそっと指先を触れた。

 その瞬間、カバロの全身を覆っていた禍々しい紺色の重力魔力が、内側から弾けるように柔らかな銀灰色の光へと変換されていく。


「ひぃぃぃっ! リーダーああああ!!」

「嘘でしょ、リーダー!? 何が起きてるの!?」


 インルとプレザの悲鳴が夜空に響く中、カバロの180cm近くの筋骨逞しい長身が、物理法則を無視して急速に収束していく。精悍な鎧は光の粒子となって霧散し、鋼の筋肉は極上のベルベットのような毛皮へと、鋭い眼光は大きなエメラルドの宝石のような瞳へと、その因果そのものが書き換えられていく。


 眩い光が収まった後、そこに残されていたのは――。

 気高くも愛らしい、銀灰色の毛並みを持つロシアンブルーの猫であった。


「……ニャ、ニャア……!?(な、何という屈辱だ……この私が、こんな小さな獣に……!?)」


 かつての「蒼穹の騎士」カバロは、自らの前足――ふにふにとした桃色の肉球を見つめ、絶望のあまりその場で力なく横倒しになった。重力を操り、戦場を支配した男は、今や自分の尻尾の重さにさえ戸惑う、一匹の愛玩動物に成り果てたのである。


 セダは、足元で転がっているロシアンブルー(カバロ)を冷たく、しかし優雅に見下ろすと、まだ呆然と立ち尽くしているインルとプレザに視線を向けた。その瞳は、もはや獲物を見るものではなく、磨けば使い道のある「道具」を吟味するものだった。


「あなたたち二人は、人間のままでいさせてあげます。ですが、正義を盾に無用な騒音を撒き散らし、街の安眠を妨げた罪は重いですよ。……相応のペナルティを受けていただきます」


 セダは買い物袋から、一枚の書面を取り出し、風に舞わせた。

 それはカバロたちがこの街で築き上げてきた「表の顔」を、無慈悲に粉砕する死刑宣告書だった。


「さて、お行儀の悪い子たちには、まず現実を教えてあげましょう。あなたたちがこの街で営んでいた表の職業――高潔な調教師、迅速な運送屋、そして精巧なプレス工。これらはすべて、本日付をもって解雇、および全国家規模での資格剥奪といたしました」


「な、なんだと……!? てめぇ、一介の侍女が何を……!」

 プレザが声を荒らげるが、セダの氷のような視線に射抜かれ、言葉が喉に張り付く。


「私の根回しは、国家の事務手続きよりも早いことをお忘れなく。あなたたちはもう、この大陸のどこにも居場所はありません。文字通り、社会的に『消滅』したのです。……さあ、職を失った哀れな迷子たちに、新しい『役割』を与えてあげましょう」


 セダの視線が、大盾を構えたまま硬直しているインルへと向けられた。


「インル。その一歩も動かぬ不動の肉体、素晴らしいですね。ならば、その特性を最大限に活かせる場所を用意しました。明日からあなたは、街の中央広場で一日中『人間銅像』として立ち続けなさい。あなたの『不動の義』は、今後、観光客の目を楽しませるためだけに存在します。子供たちがあなたの背中によじ登り、鳩がその立派な兜に止まってフンを撒き散らしたとしても、決して動いてはいけませんよ?」


「ど、銅像だと……!? この俺が、鳥の止まり木になれというのか……っ!」


 インルの誇りが、足元の瓦礫とともに崩れ去る音がした。無数の軍勢に囲まれても不動だった彼が彼女の発言に動いてしまった瞬間である。


 次にセダは、巨大な戦槌を杖代わりに立ち尽くすプレザへ、冷徹な微笑みを向けた。


「プレザ。あなたの大気を凝縮させるその指先。……私の経営するランドリーで『手作業による極限のシーツ絞り』を毎日千枚こなしなさい。最新の脱水機よりも速く、一滴の水分も残さず、かつ繊維一本も傷つけずに絞り上げる……。あなたの『大気圧縮』は、今日から洗濯物の乾燥のためにあるのです。もし生乾きだったら……その槌で自分を圧縮してもらうことになりますけれど。よろしいかしら?」


「ふ、ふざけるな……! 私のレクイエムが、洗濯物のために……!」


 プレザは叫ぼうとしたが、セダの背後に揺らめく「本物の深淵」を幻視し、その場に力なく膝を突いた。かつて外道相手に豪快に鋼鉄の戦槌を振る怪力の彼女には、もうその武器を手に取る気力すら残っていない。


「……さて。カバロ、あなたの仲間たちの行き先は決まりました。安心しましたか?」


「俺たちの……俺たちの掲げた高潔な正義が、鳩の足場や洗濯板に負けるというのか……」


 インルは絶望に打ちひしがれ、プレザは「あたしの金槌が、ただの絞り器に……」と虚空を仰いで涙を流した。


「さあ、カバロ……いえ、今日からあなたは『カバロちゃん』です。私の家で、最高級の猫缶――ただし、健康のために野菜をたっぷり混ぜたものを食べながら、大人しく過ごしましょうね。まずは、その汚れたお顔を洗わなくては」


 セダは、抵抗する気力も失ったロシアンブルー(カバロ)をひょいと抱き上げると、赤子のようになだめながら、満足げに夜の街へと歩き出した。


「にゃあぁぁぁ(放してくれ、死なせてくれー!)」


 月下を騒がせた「駿馬の聖域」は、こうして一人の侍女の「教育」によって、社会の歯車という名の穏やかな地獄へと、その身を埋めていくことになったのである。


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