介入-1.駿馬の反抗
「……さて。ドブネズミの死骸と共に、この穢れた証拠もろとも消し去るとしよう。これほどの悪を孕んだ建築物だ、地上の土に還すことすら生温い」
カバロの声は、夜の帳のように冷たく、そして絶対的な重みを伴っていた。
足元には、先ほどまで狂気を振りまいていたヒノキが無惨な姿で転がっているが、カバロはその亡骸に視線一つ向けない。彼にとって、敗者はすでに「質量」としての価値すら失った、ただのゴミに過ぎなかった。彼の意識はすでに、この広大な屋敷という「存在」そのものを事象の地平へと葬り去る、最終プロセスへと移行していた。
「了解です、リーダー。周辺の空間固定は継続中。塵一つ、外へは漏らしません」
「ああ。一気に潰せ。跡形もなくな。歴史のシミを抜くのは、我々の得意分野だ」
インルとプレザが即座に呼応する。
カバロが右手をゆっくりと天に掲げると、その掌の上で空間が歪み、ピンポン玉ほどの大きさの「絶対的な暗黒」が生まれた。極小の特異点。それが解放され、膨張した瞬間、この豪奢な屋敷は内側へと向かって爆縮し、無限の虚無へと吸い込まれるはずだった。
彼の仕事は常に完璧だ。悪を断ち、悪のいた場所を無に帰す。
その徹底した「掃除」の美学こそが、カバロが裏社会で『蒼穹の騎士』として絶対的な信頼を得てきた理由でもあった。
だが。
その完璧なはずの調和を、場違いなほど穏やかな声が切り裂いた。
「ちょっと待ちなさい。せっかくの歴史的建造物を、そんな乱暴に壊してはいけませんよ。壊すのは簡単ですけれど、直すのには膨大な知恵と時間が必要なのですから」
瓦礫が崩れる乾いた音さえもしない静寂の中、驚くほど芯の通った女性の声が、廃墟の四方に響き渡った。
「なっ……!?」
プレザが息を呑み、即座に巨大な戦槌を肩に担ぎ直す。
「直す? 消すに決まってんだろ。誰だ、あんた。命が惜しくねえのか!」
インルもまた、反射的に巨大な大盾を構えた。彼の『絶対拒絶』の領域に、何の予兆もなく声が「入り込んできた」ことに、戦慄を覚えたのだ。
鋭い視線の先。崩れ落ちた天井の梁の上に、一人の女性が立っていた。
彼女は、返り血一つつかない清潔な侍女服を纏っている。その佇まいは、血生臭い戦場にあって、まるで高原に咲く一本のスゲ草のように静かで、揺るぎない。
さらに奇異だったのは、彼女が片手に提げている買い物袋だ。特売のネギが袋からはみ出し、夕餉の準備を連想させるその日常的な光景は、地獄のような戦場において異彩を放っていた。
「なぜこんな場所に一般人がいる。……貴様、死にたくなければ今すぐ去れ。証拠もろとも重力の底に沈みたいのか?」
インルが低く威嚇する。だが、女性は眉一つ動かさず、むしろ「困ったものね」と言いたげに小首を傾げた。その仕草一つが、草原を渡る風のような軽やかさと、大地に根ざす巨木のような揺るぎなさを同時に感じさせる。
カバロは、掲げた右手を止めたまま、石像のように硬直していた。
特異点の暗黒が、彼の掌の中で力なく明滅している。
その声。凛とした立ち姿。そして何より、心臓の奥を直接冷たい指で撫でられるような、生理的なプレッシャー。
「……貴殿は、誰だ。この屋敷の残党か? それとも……」
絞り出すようなカバロの問い。彼の声は微かに震えていた。
その様子は、誇り高き騎士というよりは、隠していた悪戯が見つかった子供のそれだ。
セダは梁の上で買い物袋を小脇に抱え直し、呆れたように、しかし慈しむような深い溜息をついた。
「二十年間も会っていないとはいえ、第一声がそれですか? 礼儀作法はすっかりどこかへ落としてきてしまったようですね。……カバロ、あなたの姿勢、また少し猫背になっていますよ。そんなことでは、凛とした『立ち姿』が台無しです」
カバロの額から、一筋の冷や汗が流れた。
(この女……まさか、セダ……!? いや、そんなはずはない。彼女は実家に残してきたはずだ。なぜ、こんな辺境の街に……なぜ私を追ってきた!?)
二十年前、彼は「風になりたい」と願って家を飛び出した。重力を自在に操る自分を繋ぎ止められるものなど、この世界には存在しないと信じて。
だが、今目の前にいる女性だけは別だ。
彼女は、彼が幼少期に剣術で一度も掠めることすらできず、英才教育の勉強でも一度も言い返せなかった「絶対的な上位存在」。
彼にとって彼女は、草原に吹き荒れる嵐のような存在であり、同時に、いつかその胸に顔を埋めて全てを委ねてしまいたいという、抗いがたい「依存」の対象でもあったのだ。
しかし、状況を理解していない仲間たちは違った。
カバロの戦慄を、単なる「不審な女への困惑」だと勘違いしたのである。
「リーダー、失礼します。こんな無礼な女、私が片付けておきますから」
プレザが凶悪な笑みを浮かべ、戦槌を構えた。
「同じ女のくせに、私たちの前で随分と生意気な口を叩くじゃない。あんた、自分が誰に向かって喋ってるか分かってんの?」
「ええ、よく分かっていますよ」
セダは静かに微笑んだ。その瞳には、荒れ狂うプレザの殺気さえも、春の小川のせせらぎ程度にしか映っていない。
「礼儀を忘れた教え子の……そのまたお行儀の悪いお友達、ですね?」
「はっ! 減らず口を!」
インルもまた、絶対防御のオーラを全身に纏いながら、重厚な一歩を踏み出す。
「何を言うかと思えば。どうやら身の程を知らんようだな。袋の中身ごと、地面に這いつくばらせてやろう」
二人の「444人リスト」の怪物が、セダに向けて明確な殺意を放った。
「……待て! 二人とも、手を出すな! やめろ!!」
カバロが絶叫に近い制止の声を上げたが、それは遅すぎた。
プレザが爆音と共に床を蹴り、セダの頭上へと肉薄する。巨大な戦槌が、空気を圧縮しながら振り下ろされた。
その瞬間。
セダの瞳から「日常」の光が消え、代わって、草原を焼き尽くす冷たい静寂が宿った。
「……お行儀の悪い子には、少々厳しい『補習』が必要なようですね」
セダの呟きは、プレザの槌が空を裂く音にかき消された。
カバロは悟った。
今、この瞬間から、自分たちの誇り高き「伝説」は終わり、徹底的な「再教育」が始まることを。
彼は感じていた。自分の喉の奥が、恐怖と、そして奇妙な安堵感によって、かすかに鳴ろうとしているのを。
それは、荒野を駆ける駿馬の嘶きではなく、温かな部屋で誰かに喉元を撫でられるのを待つ、高貴な猫の「鳴き声」にどこか似ていた。
「(ああ……私は、またあの手に屈するのか……?)」
カバロの意識の底で、重力に縛られない自由への渇望が、静かに、しかし確実に「誰かに飼われる平穏」へと、その形を変えようとしていた。
夕闇が迫る廃墟に、セダの冷徹な、しかし完璧な「家庭教師」の影が、距離を詰めてきた二人の猛者から一メートル直前で巨大に伸びる。




