対峙-3.重力と狂気の限界
「プレザ、下がっていろ。……少し『重く』するぞ」
カバロが静かに、しかし断固とした口調で命じた。背負った紺色の外套が、物理法則を無視した奔流に煽られて激しくなびく。
カバロの瞳が、高潔な紺色から、すべてを呑み込む奈落のような漆黒へと染まっていく。彼が練り上げる魔力があまりに高密度であるため、周囲の空気は液体のように歪み、光さえも屈折して、月明かりが奇妙な虹色となって廃墟に散った。
「重力魔法:『天秤の奈落』」
カバロが槍を突き立てると同時に、ヒノキが振るう巨大斧に、それ自体の質量の数万倍に及ぶ超高重力が強制的に付与された。
「……!? 重い……なんだ、この重さは……っ!」
ヒノキの顔から狂気の笑みが消え、驚愕に歪む。自慢の超巨大斧が、自身の筋力を凌駕する重みに耐えきれず、メキメキと床に食い込んでいく。それを支えようとするヒノキの腕の骨が、過負荷によってミシミシと悲鳴を上げた。カバロは無表情のまま、槍の先を絶望に顔を歪める狂人へと向けた。
「貴様の罪と斧の重さ……どちらが勝るか、その身で測るがいい。天秤が傾いたとき、貴様に残るのは破滅のみだ」
一方、屋敷の裏門側。
「ここから出せ! 死にたくねえ!」
武器商人が雇っていた数十人の私兵と、禁忌の術を操る魔術師たちが、裏口の細い通路に殺到していた。だが、その出口には、岩山のような大男が立ちはだかっていた。
「逃げても無駄だ。この空間は俺が『固定』した」
インルが仁王立ちになり、通路そのものを自分の支配下に置く。魔術師たちが必死に放つ炎の渦や雷の槍は、インルの周囲数メートルで、まるで時間が止まったかのように静止し、そのまま虚しく霧散していく。
「どけ、この化け物めッ!」
一人の兵士が正気を失い、全力で剣を振り下ろした。だが、インルの鋼鉄の如き肉体に刃が触れた瞬間、悲鳴を上げたのは剣の方だった。音を立てて粉々に砕け散った鉄屑が、兵士の顔を切り裂く。
「雑魚の相手は飽きた。……眠れ」
インルが軽く右足を踏み鳴らす。その微かな振動に「慣性」の力を乗せ、指向性を持たせて放つ。
「——っ!?」
立っていた敵全員の脳に直接、巨大な質量がぶつかったような衝撃が走る。彼らは断末魔を上げる暇もなく、糸が切れた人形のように、泥まみれの地面へと沈んでいった。
中央広間では、カバロとヒノキの死闘がいよいよ最終局面を迎えていた。
「ハハハ! 重い! 重いぞ! だが私の斧は、その重圧を糧にして、まだまだ鋭くなるよ!」
ヒノキは『死界の工芸』を限界まで発動させた。巨大化した斧の刃がドロドロと溶けるように収縮し、代わりにダイヤモンドをも凌ぐ硬度と、原子レベルで物を断ち切る鋭利さを手に入れていく。重力の影響で一歩を踏み出すことさえ困難なはずのヒノキだったが、彼は自らの肉体を「材料」として斧に捧げることで、無理やり空間を削り取るような断撃を繰り出してきた。
しかし、カバロの『蒼き駿馬の眼』は、その狂気の裏にある致命的な欠陥をすでに見逃していなかった。
(……斧の巨大化と鋭利化に魔力を割きすぎている。そのせいで、自身の足元の質量維持が疎かになっているな。――隙が見えたぞ)
「これで終わりだ、剥製の彫刻師。貴様の作品に、私の骨を貸してやる暇はない」
カバロが腰を低く沈め、槍を後方に構える。瞬時に彼の周囲の引力が一点に収束し、空気抵抗をゼロにする「真空の道」が作り出された。カバロが手に構えた槍は、斧をひねっているヒノキの左わき腹一直線に焦点を当てていた。
「重力加速・星穿」
ドォォォォォォンッ!!
大気を引き裂く爆音が夜の街に轟いた。カバロの肉体は、自重を数百倍の加速度へと変換し、音速を超えた。
ヒノキが狂気の斧を左方向へカバロの首を薙ぎ払うよりも速く、カバロという名の弾丸が空間を跳んだ。紺色の閃光がヒノキの胴体を正確に貫き、その勢いのまま、背後にそびえ立つ巨大な石壁を、紙細工のように粉砕しながら遥か彼方まで突き抜けた。
直後に発生した衝撃波が、残っていた屋敷の屋根をことごとく吹き飛ばし、瓦礫の山となった戦場の上に、澄み渡る夜空が剥き出しになる。
「……あ……が……っ、痛ぃ……助け......て....」
瓦礫の中に埋もれたヒノキは、自慢の斧を粉々に砕かれ、かつての狂人とは思えないほど弱々しい、子供のような声を漏らした。重力衝撃で内臓は潰れ、もはや指一本動かすことも叶わない。
カバロは瓦礫の中からゆっくりと槍を引き抜き、足元に転がり、生物からただの物体に変わり果てた「素材」を冷たく見下ろした。
「そもそも、木材というのは人のために役立つものだ。木材になるのは……やはり貴様の方だったな。燃えるものとしてせいぜい仕事をするがいい」
静まり返った廃墟に、勝利を告げるカバロの規則正しい足音だけが響く。
「……ふぅ。これで掃除は終わりだ。プレザ、インル、証拠隠滅を始めるぞ。跡形もなく圧縮して——」
カバロがそう言いかけた、その時だった。
崩落した天井の、一本だけ辛うじて残っていた梁の上に、いつの間にか一人の女性が立っていた。
彼女は、戦場にはあまりに不釣り合いな「特売のネギがはみ出した買い物袋」を提げ、月光を浴びて微笑んでいた。
普通なら、この粛清現場で大多数の人の屍を見れば戦慄する。それにも関わらず、彼女はその凄惨な光景に一ミリも動揺していない。
「あら。随分と遅くまで、派手に『お掃除』をしているのね。……カバロ?」
その声に、カバロはまだ気づいていない。
自分たちが倒したヒノキという「死体」が、セダにとっての「片付けるのが面倒なゴミ」を増やしたという事実。そして、その怒りがどのような形で「調律」されるのかを。




