終焉-イチゴのフリルに沈む
一週間という月日は、かつての僕――世界を震撼させた暗殺組織『白爪』の長だった僕にとっては、数個の国家を内部から崩壊させるのに十分すぎる時間だった。
超が付くほどの神速で戦場を駆け抜け、0.5秒先の未来を確定事項として視認する『狼王の眼』。累計四万人の命を刈り取ってきた僕の双極・白狼剣にかかれば、物理防御も魔法障壁も、ただの薄紙に等しかった。
だが、今の僕が直面している絶望は、どんな魔王軍の幹部よりも、どんな腐敗した近衛騎士団よりも恐ろしい。
つまり、猫時代の今は、国家一つ滅ぼすよりも難しい。
場所は、アイリス姉さんの孤児院の裏庭。
穏やかな午後の陽光が降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き乱れるその聖域で、僕は「それ」を待っていた。
「……にゃあ(ああ、因果律が収束していく。もう、逃げ場なんてどこにもないんだ……)」
僕の口から漏れたのは、銀狼の咆哮ではなく、力ない子猫の鳴き声だった。
現在、僕の全身を包んでいるのは、アイリス姉さんお手製の新作『イチゴドレス(フリル倍増・特盛仕様)』である。前回のデザインよりもさらにレースの積層数が増しており、その物理的な重みと精神的な屈辱が、僕の細い肩にのしかかる。
その姿はもはや「女の子」から「お姫様」への昇格そのもの。
かつての僕なら、このドレスを構成するすべての分子を瞬時に切断できただろう。だが、今の僕に許されているのは、虚空を見つめて悟りを開くことだけだった。
「ルウくん。お姉ちゃんを心配させたら駄目じゃない」
アイリス姉さんから脱走してはいけないという子ども扱いのような叱責。しかし、僕はもはや生存本能で般若の気配をわずかに感じた。
目の前では、この世で最も恐ろしい二人の女性、アイリス姉さんとルンさんが、優雅にティーカップを傾けている。彼女たちが微笑むたびに、僕の『狼王の眼』は「最大級の生存危機」を知らせる赤色の警告を脳内に投射し続けていた。
その時だ。庭の入り口から、新たな気配が接近してきた。
魔力、熱源、心拍数――。僕のセンサーが捉えたのは、森の調和の守護者、ピセアさんだ。彼女は大きなバスケットを抱え、聖母のような微笑みを浮かべて歩いてくる。
「アイリスさん、ルンさん。見て、うちの森に迷い込んでいた子たちを保護したの。すごく仲良しなのよ?」
ピセアさんがバスケットの蓋を開けた瞬間、僕は見た。
かつて僕と共に戦場を駆けた、伝説の怪物たちの成れ果てを。
「……っ!?」
バスケットの中から這い出してきたのは、二匹のロップイヤー。
一匹は茶色の毛並みのロップイヤー。虚無の表情を浮かべ、かつて数万人の命を奪った剛腕を隠すように、力なく人参をボリボリと齧っている。……フォルト。組織の主力であり、重火器同然の破壊力を誇った男が、今やただの食欲の奴隷と化していた。
もう一匹は、白銀の毛並みのロップイヤー。精密射手として、数キロ先から敵の脳漿をぶち抜いてきたアストだ。彼はプライドの欠片も残っていないのか、バスケットの隅っこで「僕は置物です」と言わんばかりに丸まり、完全に気配を消していた。
かつての僕の特殊能力『影移動』を、まさか「現実逃避」のために使う日が来るとは。そのように思いたいところだが、それすらもできまい。
さらに、足元ではチワワの姿になったティルが、ルンさんの冷徹な眼鏡の光を察知した瞬間、脳内の「しつけの記憶」がフラッシュバックしたのか、条件反射でお腹を見せてゴロンと転がった。
「あらあら! ピセアさんも『お迎え』したのね。ふふ、運命だわ」
アイリス姉さんが嬉しそうに手を叩く。その瞳には、獲物……もとい、新しい「家族」を慈しむ聖母の光が宿っていた。だが、僕には見える。その背後に、銀河をも飲み込むような漆黒の慈愛(という名の支配)が渦巻いているのを。
「すごくいい毛並みだわ。これなら四匹お揃いの『森の音楽隊セットアップ』が着せられるわね」
その言葉を聞いた瞬間、僕たちの意識は一瞬で同調した。
((((終わった……))))
世界を終焉させるはずだった『白爪』のリーダーとして、僕はただ、天を仰ぐしかなかった。
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場所はピセアさんの自宅リビングへと移る。
ハーブの香りが漂う清潔な室内。だが、僕たちにとっては、そこはどんな拷問室よりも息の詰まる空間だった。
僕はマンチカンの姿で、イチゴドレスを揺らしながらフローリングに座らされている。
右には、かつての猛将・茶色のロップイヤーのフォルト。『深緑の亡霊』という異名で村から英雄視された彼には一ミリもその面影はない。
左には、沈黙の狙撃手だった白銀ロップイヤーのアスト。彼もフォルト同様に、『天空の亡霊』という異名で村から英雄視された彼には一ミリもその面影はない。
翠影双翼の2人はアサシンの威厳がゼロになり、かわいらしさ百万点のもふもふの塊だ。
そして僕の足元で情けなく震えているのは、『轟く赤雷』のティル。チワワとして震え上がっていた。
「いい、みんな。よく聞いて」
ピセアさんが床に直接座り、僕たち四匹と視線を合わせた。
IQが計測不能と言われる僕の脳が、瞬時に数万通りの脱出ルートをシミュレーションする。しかし、導き出される結論はすべて「生存確率0%」。彼女の背後から漂う「森の意志」とも言うべき圧倒的なプレッシャーの前では、僕たちの戦闘スキルなど、風に舞う塵に過ぎない。
「命を奪うことも、建物を壊すことも、私にとっては『森の調和を乱すノイズ』でしかないの」
ピセアさんの声は穏やかで子どもを叱るようだ。だが、その言葉の一つ一つが、僕の心臓(正確には猫の心臓)を的確に点穴突きで破裂させるかのように重い。
「特にあんなに血を流して……。土が酸化しちゃうじゃない? 次にそこから芽吹くお花さんの気持ち、考えたことある?」
……お花さんの気持ち。
累計殺害人数四万人を超える、国家の存亡を指先一つで決めてきたこの僕が、生涯で一度も、塵ほども考慮しなかった概念だ。
フォルトとアストは、本来は僕と同様に「弱者を守る」と同時に「自然を汚す不浄を、土に還す」ということをモットーとしていた。森を守ることをモットーとしていた彼らにとって、「お花さん」という発言でその理念すらも上書きされてしまう。彼女の発言の真意、「森が汚れる」の一言で翠影双翼の存在意義そのものを否定したのだ。
隣でフォルトが「もきゅ……」と小さく鳴いた。あの剛腕の戦士が、今や「お花さんの土壌汚染」について深く反省している。
アストも震えている。かつて数万本の鋼線を操り、一軍を細切れにした彼も、今は自分の耳の毛並みが乱れることすら許されない「調和」の支配下に置かれているのだ。
ピセアさんの言葉が続くたびに、リビングの空間が歪み、まるで数万本の巨木に包囲されているような錯覚に陥る。これは僕の『虚無と因果』の魔術に近いが、より根源的で、より逃れられない「生」の圧力だ。
「次に夜遊びをしたら……ずっとその耳を、結んでおかないといけなくなるわよ?」
ピセアさんが、ニコリと笑いながらフォルトの長い耳を持ち上げた。
「もきゅっ(ごめんなさい、もう二度としません、どうかそれだけは……!)」
フォルトが全力で謝罪した。……ウサギの鳴き声で。
僕もまた、彼女の視線がこちらを向いた瞬間、喉の奥から「にゃあ」という、この上なく従順で可愛らしい音を絞り出した。プライド? そんなものは、異次元を超える神速で走り去る過去の遺物に過ぎない。
そして、ついに「その時」が来た。
リビングの扉が開き、ルンさんとアイリス姉さんが、地獄の重みを湛えた特大の裁縫箱を持って現れたのだ。
「さあ、着替えましょうね。ルウくんはバイオリン担当。ティルくんはタンバリン。新しく入ったフォルトくんとアストくんは、アコーディオンとラッパよ」
アイリス姉さんが取り出したのは、もはや「服」という概念を超越した何かだった。
レースが地層のように積み重なり、金糸銀糸の刺繍がこれでもかと施され、巨大なリボンがあちこちに鎮座している。それは過剰なまでにデコラティブな、『森の音楽隊』シリーズの新作だった。
「にゃ、にゃあ……(姉さん、せめて、せめてイチゴドレスよりは動きやすいやつを……!)」
僕の願いも虚しく、僕はバイオリンを模した小さなポシェットを首から下げられ、頭には羽飾りのついたシルクハットを載せられた。
ロップイヤーのフォルトはアコーディオン型の腹巻きを巻かれた。同じくロップイヤーのアストはラッパを背負わされている。チワワのティルに至っては、歩くたびにシャンシャンと音が鳴るタンバリン付きの首輪を装着された。
僕たち四匹は、互いに顔を見合わせた。
かつて全世界444人リストのトップに君臨し、歴史そのものを断絶させてきた怪物たち。
僕たちは今、ピセアさんの編んだ特製カゴの中で、もふもふと身を寄せ合いながら、底なしの絶望へと沈んでいた。
「みんな、とっても可愛いわ! 明日は街の広場で発表会ね」
アイリス姉さんの歓声が響く。
アストは、自分に被せられたシルクハットがズレるのをアイリス姉さんの指先で優しく直され、「きゅっ……(もう殺してくれ……いや、死なせてすらもらえないのか……)」と小さく、しかし悲痛な声で鳴いた。
『白爪』だった僕と『焔牙騎士』だったティル、そして最凶の森のコンビ『翠影双翼』の放浪記。
それは、後世の歴史家によって語られるはずだった「血塗られた覇道」ではなく、今日この日をもって、アイリス姉さんの手帳に記される「うさぎと猫の仲良し飼育日記 兼 音楽隊コスプレ写真集」へと、完全に書き換えられたのである。
窓から差し込む夕日は、かつての僕たちが戦場で見た、血の色によく似ていた。
だが、今の僕たちを照らすのは、その赤色さえも「可愛らしい頬紅の色」に塗り替えてしまうような、残酷なほど眩しいピセアさんの微笑みだった。
僕は心の中で、かつて斬ってきた四万人の犠牲者たちに謝罪した。
「すまない……僕も今、因果応報という名のフリルに溺れているよ……」
明日、街の広場に鳴り響くのは、伝説の武器が空を切る音ではない。
「可愛い!」という観衆の歓声と、僕たちが必死に鳴らすシャンシャンというタンバリンの音なのだ。
僕の『狼王の眼』は、明日、広場で子供たちに囲まれて撫でまわされる僕たちの未来を、0.5秒の狂いもなく鮮明に映し出していた。




