到着-1.ルウの住む街へ
雲一つない秋晴れの下、南の大陸でも有数の活気を誇るその街は、祝祭前夜のような浮き足立った空気に包まれていた。
「……ケッ、反吐が出るほど眩しい街だぜ」
フォルトは「林業屋」としての粗末な麻のシャツを纏い、巨大な薪の束を背負って街の門をくぐった。彼の隣には、上質な弓の弦を束ねて肩にかけたアストが、鋭い眼光を深いフードの陰に隠して歩いている。
賑わう市場からは、焼きたてのパイの香りと、子供たちの屈託のない笑い声が聞こえてくる。広場の中央では、ピンクのフリルドレスを纏わされたマンチカン(ルウ)が、アイリスに抱かれながら「可愛いイチゴちゃん」として街のアイドルに祭り上げられているとも知らず。あるいは、カフェのテラスで最強の虎がルンの冷徹な指導のもと、チワワとして「待て」の極限状態に置かれているとも知らずに。
「アスト、見ろよ。あの邸宅だ」
フォルトが顎で示した先には、街の北側に位置する、成金趣味の金細工が施された巨大な邸宅があった。周囲の質素な家々を見下ろすかのようにそびえ立つその建物こそ、森を焼き、民を蹂躙した悪徳領主の隠れ家。
(……平和ボケした街だ。だが、その裏に隠れたゴミを掃除するには、絶好の舞台じゃねえか)
アストは無言で頷いた。彼の『千里眼』は、邸宅の屋根に配置された見張りの私兵、張り巡らされた警備の魔法結界、そして奥の寝室で贅沢に溺れる標的の姿を、すでに精密な図面として脳内に描き出していた。
二人は一度も視線を合わせることなく、雑踏の中へ溶け込んでいく。彼らが通り過ぎた後には、わずかに森の湿った土の匂いと、嵐の前の静寂だけが残された。
深夜。街が深い眠りに落ち、家々の灯火が消えた頃。
月明かりさえも遮るような分厚い雲が空を覆い、外道の邸宅は不気味な沈黙に包まれていた。
「……おい、何か聞こえなかったか?」
高い壁の上で見張りをしていた私兵が、暗闇に向かって声を上げた。しかし、その問いに応じるのは、冷たく湿った夜風だけだった。
「……おい外道。狩りの時間だ」
地底から響くようなフォルトの低い声が、寝静まった邸宅の庭に響き渡った。
次の瞬間、警備の兵たちが叫び声を上げる暇もなく、事態は動き出した。アストの放つ弦のない魔力矢が、闇を切り裂く緑の閃光となって走り抜ける。影から影へと自律的に軌道を変えるその矢は、兵士たちの急所を外しながらも、確実にその膝や腕を縫い止め、石畳に釘付けにしていった。
「な、なんだ!? 敵襲だ! 明かりを点けろ!」
松明が焚かれ、邸宅内が騒がしくなる。しかし、翠影双翼にとってそれは、標的を照らし出すスポットライトに過ぎなかった。
フォルトがハルバード『大地の牙』を地面に叩きつける。
「『地脈波』……逃げ場はねぇぞ」
凄まじい震動が邸宅を直撃し、堅牢なはずの外壁が紙細工のように崩れ落ちた。土煙の中から現れたのは、巨木のごとき筋肉を躍動させた、死神の代行者。
「ひ、ひぃぃ……! 誰だ、誰に頼まれた! 金ならやる、この部屋にある金貨も宝石も、すべてお前たちのものだ!」
最奥の寝室。豪華な寝台の上で、悪徳領主は震え上がりながら金貨の袋を差し出した。
フォルトは一歩、また一歩と、血の匂いを漂わせながら絨毯を踏みしめて近づく。その丸太のような腕が、領主の贅肉のついた胸ぐらを無慈悲に掴み上げた。
「その金が募金になるとでも思ってんのか?森の枯れ木に金は払えねえだろ? お前の罪は、お前の血で洗ってもらうぜ」
「や、やめろ! 助けてくれ! 私は、私はこの街の功労者だぞ!」
領主の情けない叫びは、フォルトの冷徹な笑みにかき消された。
アストは部屋の隅で、窓から差し込むわずかな光を背に受けながら、無造作に次の矢を番えていた。
「安心しろ。死ぬ前に、お前が焼き払った木々の『熱さ』をたっぷりと味合わせてやる。……剪定の時間だ」
一方的な蹂躙が始まった。
圧倒的な身体能力、魔法をも無効化する自然の理。
街の住人たちが平和な夢を見ているその裏側で、伝説の亡霊たちは、一族を滅ぼされた老人の悲願を果たすべく、その鋭い牙を標的の喉元へと深く突き立てていった。
血の飛沫が豪華な壁紙を汚し、深夜の静寂の中に、骨の砕ける音だけが規則正しく響く。
彼らにとってこれは、単なる「仕事」に過ぎない。
「頼む、助けてくれ! 奪った金なら全部返す、倍にしてやるから! いや、三倍だ! だから、命だけは……!」
豪華な毛皮の絨毯の上で、かつて一国の領地を支配し、私欲のために森を焼き、民を蹂躙した男が這いつくばっていた。涙と鼻水にまみれ、かつての権威など微塵も感じさせない浅ましい姿。その喉元には、フォルトが携える巨大な斧槍『大地の牙』の冷たい刃が押し当てられている。
フォルトの瞳は、燃え盛る森の奥底のような、暗く、熱を帯びた「無」を宿していた。
「金で森が元に戻るか? 灰になった木々が、また芽を吹くか? ……お前の金で、あの時死んだ連中が生き返るのかよ」
「そ、それは……だが、私がいなければこの街の経済が……!」
「お前の命に、そんな価値はねえよ」
フォルトの声は、地響きのように重く、断罪の響きを持っていた。その声はまさに山の神。
「俺たちは『自然』の代弁者じゃねえ。ただの掃除屋だ。だがな、お前のような不浄がこの世界に居座っているだけで、森の空気が淀むんだよ」
元領主が最期の悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、ハルバードの切っ先がわずかに震え、高密度の振動波が放たれた。物理的な破壊ではない。対象の内部構造――魂の形そのものを、森の理によって「分解」するかのような無慈悲な一撃。
「あ、あ……が……」
絶望に顔を歪めた外道の瞳から光が消え、その肉体は物言わぬ「有機物の塊」へと成り果てた。累計殺害人数、また一人。しかしフォルトにとって、それは枯れ木を一本、剪定したのと同義だった。
静寂が戻った寝室。傍らに立つアストが、窓の外から差し込む月光を浴びて、無機質な声を上げた。
「……終わったな。だが、この街の番人どもは鼻が利く。このまま放置すれば、余計な足がつくぞ」
「……アスト、掃除を頼む。ここはもう、街には必要ねえ場所だ」
「了解だ」
アストが懐から数本の、淡い翠色の光を放つ特殊な魔力矢を取り出した。弦のない弓にそれらを番えると、矢は空中で意思を持つかのように分裂し、邸宅を支える主要な支柱や、魔力結界の基点へと正確に突き刺さった。
「フォルト、地脈を繋げろ」
「ああ。『緑界創生・風化吸収』……ッ!」
フォルトが拳を地面に叩きつける。
邸宅の地下を流れる巨大な地脈のエネルギーが、アストの放った魔力矢を触媒にして、一気に地上へと噴出した。
それは破壊というよりは、暴力的なまでの「再生」だった。
邸宅の床から、壁から、天井から、凄まじい勢いで太い蔦が突き出し、石材を粉砕しながら絡みついていく。豪華な調度品は瞬く間にコケに覆われ、金細工の装飾は木の根によって噛み砕かれた。
「……森に還れ。お前たちの欲も、罪もな」
轟音は最小限に抑えられ、ただ「ミシミシ」と巨大な何かが成長する音だけが深夜の住宅街に響く。数分後、そこには豪邸の影も、血生臭い処刑の跡も残っていなかった。
月明かりに照らされていたのは、まるで数千年前からそこにあったかのような、静まり返った「小さな森(更地)」だった。
不自然なほどに生い茂った樹木が、風に吹かれてザワザワと音を立てる。
アストは翠色の防具を翻し、その森の影へと溶け込んだ。
「行こう。これでもう、この街に『外道』は存在しない」
「ああ。……だが、少し派手にやりすぎたか?」
フォルトがふと、街の中心部の灯りを見つめる。
二人はまだ気づいていない。
この「深夜の森の出現」という異常事態が、パジャマ姿でティータイムを楽しんでいたアイリスと、その横で法律書を閉じたルンの逆鱗を、最大出力で叩き起こしてしまったことに。
「……アイリスさん。街の中に、許可なく『国有林』が不法投棄されています」
「そうね、ルンさん。しかも、とっても血生臭い匂いがするわ……。これは、徹底的な『しつけ』が必要ね」
深夜の静寂を切り裂く、ヒールを鳴らす音と、穏やかすぎる微笑み。
伝説の『翠影双翼』が、人生で最大の「間違い」を犯したことに気づくのは、彼らがピセアの待つ森へ辿り着くよりも、ずっと前のことだった。
「アスト、さっさと消えるぞ」
何かを察したのか、フォルトとアストは音を立てず、亡霊のように一瞬で森の奥へと姿を消した。




