表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第6部-東部戦争開幕、三大組織滅亡
154/155

月下-極秘通信と脱走

 

 ガタゴトと、あるいはギシリと。不規則なリズムで揺れ続けていた駅馬車の屋根にしがみつき、夕刻の冷たい風に吹かれること数時間。

 オレンジ色に燃えるように染まった地平線の彼方に、見覚えのある孤児院の尖塔が見えてきた。馬車が速度を落とし、物資搬入口の石畳の上で完全に停止したその瞬間、僕は重力に逆らわず、ふわりと地面へ飛び降りた。


 肉球が乾いた土を捉える。

 四本の足に摩擦が加わり、爪が石の隙間に食い込む。

 何とか勢いを殺して着地を成功させる。

 かつて100メートルをわずか1秒も経たぬうちに駆け抜けたこの脚も、今は高さ1メートルの荷台からの衝撃を和らげるのが精一杯だ。だが、立ち止まっている暇はない。アイリス姉さんがサリックスさんの家での「お茶会」を終えて戻る前に、ここでの「仕込み」をすべて完了させなければならないのだ。


 影から影へと滑り出すように移動を開始しようとしたその時、背後から音もなく巨大な影が僕を覆った。

 (……まさか、アイリス姉さんじゃないだろうな!?)

 背筋に冷たいものが走る。僕はギチギチと音を立てるような緊張感の中で、ゆっくりと振り返った。


「にゃあ!(ニヴェか! 飼い主の誰かさんかと思ったぞ。心臓が止まりそうだ)」


 僕は反射的に毛を逆立てて威嚇したが、相手の顔を見てようやく安堵の吐息を漏らした。そこにいたのは、清潔なエプロン姿で、かき氷用の巨大な氷塊を軽々と運んでいた『白爪ホワイトクロー』の氷使い――ニヴェだった。


「……リーダー。そんなに驚かないでくれ。心臓に悪いのはこちらのほうだ。アイリスさんが出張(お喋り)中でいない間だからいいものの、今のあなたが見つかれば、孤児院中が大騒ぎになる」


 ニヴェは周囲を警戒しながら、氷塊を置くと、僕を物置の影へと誘い込んだ。その瞳には、かつて戦場を凍てつかせた冷徹な光が宿っている。


「ヌーベに続いて、俺まで子猫やネズミ、あるいは何か『可愛らしくて無力な』生き物に変えられるのは、冗談抜きでごめんだからな。……リーダー、用件は手短に頼む。アイリスさんの気配が、風に乗って近づいている気がするんだ」


 僕は短足のマンチカンという、戦士としてはあまりにも屈辱的な姿のまま、見上げるほど高い位置にあるニヴェの瞳を射抜くようにしてテレパシーを送った。


「(そうか、なら単刀直入に言う。ニヴェ、君も冥静戦争の報告は受けているだろう? 盟友たるベスパやマンティが、プードルやシャム猫にされ、歴史から消されたあの悪夢を。……今のままでは、僕たちは飼い主たちの『愛玩動物ペット』として、牙も誇りも漂白されてしまう。だが、僕はリュカを……骸蝶の軍勢を倒すつもりだ。後輩の素質を見抜く君の眼があるなら、力を貸してほしい)」


 ニヴェは無言で僕を見つめ、やがて短く頷いた。


「(……それと、姉さんへの証拠隠滅も頼む。僕がいなくなったことはすぐにバレる。今の僕のスペックでは、追跡を完全に撒くのは不可能だ)」


「承知した、リーダー。あなたがそこまで言うなら、俺は氷点下100度の静寂をもって、敵を凍らせる準備をしておこう。……たとえ、その後でアイリスさんに正座をさせられる運命が待っていたとしてもな」


-----


 その日の夜。

 アイリス姉さんの目が届かない孤児院の裏庭、古びた礼拝堂の深い影に、かつての伝説たちが集結した。

 マンチカン、そして不運にも黒ウサギへと転生させられたヌーベ。そしてまだ人間の姿を保ち、エプロンという名の「拘束具」に身を包んだニヴェ、サレ、ライ。

 かつての『白爪』が、異様な光景――三人の人間と二匹の小動物という姿で、月明かりの下に再集結を果たしたのだ。


「(ヌーベ、君に証拠隠滅を頼みたい。……と言いたいところだが今の君は、転生の影響で魔力がほとんど封印されているありさまだ。まともに戦場に出るのは自殺行為だろう。だが、その小さな体でも『霧の幻術』の片鱗は残っているかどうかはわからないが、僕の『不在』を姉さんの目から逸らすデコイになってくれ)」


 黒ウサギのヌーベが、前足を顔の前でこすり合わせながら、情けない声で「キュ、キュイ……」と鳴いた。かつて戦場を霧で支配した参謀の面影はない。


「(サレ、すまないが、この黒ウサギを白く染めてやってくれ。闇夜でも目立たないように、そして何よりアイリス姉さんの視覚を欺く『ただの白いウサギ』に見えるようにね)」


「承知いたしました、ルウ様。お安い御用です」


 塩屋のサレが、冷静沈着な手つきでヌーベの耳に脱水と漂白の魔術を微調整しながらかけていく。ヌーベの漆黒の毛並みが、見る間に雪のような白へと変わっていく。魔力が弱体化している彼には、抵抗する術すらなかった。


「(……ライ、準備はいいか? 君の圧倒的な破壊力が、今回の作戦の要になる)」


 194cmの巨漢、酪農家のライが、白鉄槌を静かに握りしめた。

「リーダー、準備は万端だ。いつでもあの大鎌を叩き折ってやる。……だがその前に、ニヴェが郵便局長のゼトさんから受け取った『これ』を使ってくれ」


 ニヴェが差し出したのは、情報屋ロキ直伝の『超広域通信石』。月光を反射して青白く光るそれは、この「飼い主の聖域」から外の世界へと繋がる、唯一の窓だった。


-----


 真夜中。静まり返った礼拝堂の片隅で、僕は通信石の前に座り、残り少ない魔力を絞り出して流し込んだ。石の中に波紋のような光が灯り、遠く離れたルンの屋敷――その広大な庭の片隅にいるはずの「宿敵」へと繋がる。


「にゃあ(……聞こえるか、テラ。そこにルンさんはいないだろうな?)」


『ルウか! びっくりするぜ、まさかお前から通信してくるとはな!』


 通信の向こう側から、焔牙騎士の巨漢・テラの、地響きのような低い声が返ってきた。


『安心しろ。今、ルンは「夜のティータイム」で最高にご機嫌だ。俺は自分の魔術で「山鳴りのようなイビキ」をかく魔法を自分自身にかけて、熟睡してるフリをして庭の隅でこれを起動してる。……おい、聞いたぜ。お前、今マンチカンなんだってな? 噂は瞬く間に南大陸を駆け巡ってるぞ。不憫だが、笑いが止まらねえ! ギャハハ!』


「(……笑っている場合じゃないだろう。あんたたちの大将、あの最強の破壊者ティルだって、今や手のひらサイズのチワワじゃないか。……いいか、テラ。東部戦争は、僕たちが楽観視していた以上に深刻なステージに入っている。リュカは本気でこの街を灰にするつもりだ)」


 僕は声をさらに潜め、かつての伝説の暗殺者としての重々しいトーンで続けた。


「(今から指定する場所に集合してくれ。東部の外れ、放棄された石切場の近くだ。……もちろん、ティルも連れてこい。あいつの『虎の直感』がなければ、リュカの因果断裂は防げない。……ルンには絶対に悟らせるな。もしバレたら、僕たちは全員、今度こそお揃いのピンクのリボンを付けられて、一生を終えることになるぞ)」


『……分かった。ティルも、チワワの姿でルンのハンドバッグに入れられ、「一言も吠えてはいけない静寂の修行」をさせられてるのに限界が来てる。……「檻を壊す」時が来たようだな。明日、必ずそこへ行く』


 通信が途絶え、石の光が消える。

 僕は深い、深い溜息をつき、夜空に浮かぶ無慈悲なまでに美しい月を見上げた。


(……これで、白爪と焔牙騎士の主力が動き出す。アイリス姉さん、ルン、そしてサリックスさん……。あなたたちが望む平和な日常を、僕たちの手で壊すのは心苦しいけれど。……僕たちはまだ、牙を抜かれ、誇りを捨てた「ただのペット」にはなりきれないんだ)


-----


 夜の帳が東部の大地を深く飲み込み、星々さえも不穏な雲に隠れた午前二時。

 孤児院の裏門を音もなく抜け、僕はかつての誇り高き脚ではなく、白爪の巨漢・ライの強靭な腕に抱かれながら、夜霧の向こうへとひた走っていた。


 僕の視界は、地上からわずか数十センチの高さに固定されている。マンチカンという肉体の制約は、僕から時速400kmという、風を置き去りにする快楽を奪った。だが、代わりに地を這う獣としての執念と、わずかな隙間に滑り込む卑屈なまでの隠密性を僕に植え付けた。


「悪いな、ヌーベ。同期の誇りだが、今は孤児院の『砦』になってくれるだろうよ」


 ライが、胸元に収まった僕に聞こえるように、振動のような低い声で呟いた。

 背後を振り返る余裕はない。だが、僕の『狼王(フェンリル)の眼(・ヴィジョン)』は、遥か後方の物置の隅で、微動だにせず完璧な「看板ウサギ」を演じているヌーベを捉えていた。サレの魔術による漂白は完璧だ。白爪の参謀たるヌーベは、今や純白の毛玉と化し、アイリス姉さんが戻ったとしても、そこにいるのが「最悪の不可視」を司る伝説の暗殺者だとは夢にも思うまい。


 向かう先は、東部の外れ、古びた石切場の近郊。

 そこは、かつて僕と三日三晩、死の淵で狂ったように踊り続けた宿敵が待つ場所だ。


 月光が剥き出しの岩肌を青白く照らす石切場に到着すると、そこにはすでに先客がいた。

 モデルのような長身を小刻みに震わせながら、一匹のチワワを大切そうに、というよりは盾にするように抱きしめている女性。焔牙騎士の氷彫刻家、ネヴェだ。


「親方様……助けて……。私、やっぱり怖いです……。もし、ルンさんにバレたら、私、今度こそ永久に氷像にされちゃいます……」


 ネヴェの震える声が静寂に響く。彼女が抱いているのは、かつて「轟く赤雷」として戦場を蹂躙した破壊の権化、ティルだ。……いや、今はその威厳など微塵もない、プルプルと生まれたての子鹿のように震えるチワワなのだが。


「キャン、キャン!(心配すんな、ネヴェ! 背が高くてビッグフットみたいなモデル体型のお前が、いつまでも同年齢の鉄仮面にビビるんじゃねぇ! これは、あの鉄仮面ルンの監視を欺いて、俺たちが再起するための千載一遇のチャンスなんだよ!)」


 ティルの思念が、チワワ特有の甲高い鳴き声と共に脳内に直接響く。ネヴェを「ビッグフット」呼ばわりするデリカシーのなさは相変わらずだが、彼女は焔牙騎士における唯一の良心であり、同時にそのにこやかな微笑みの下に数千トンの氷を隠し持つ「崩落」の主だ。


 ライが重厚な足取りで歩み寄ると、ネヴェはいつものように、引きつりながらもにっこりと微笑んで僕たちを迎えた。


「ルウさん、ライさん。ご無沙汰しています。……あぁ、ルウさんまで、そんなに『コンパクト』になられてしまって……」


「……ヌーベはあえて置いてきた。あいつには、アイリスさんへのデコイという重任を任せている。……さあ、リーダー。始めてくれ」


 ライが僕を地面に下ろす。僕は短い前足を一歩進め、ネヴェが差し出した通信石の前に立った。


「にゃあ(今から『蒼天の凪』のガレに連絡する。ライ、石の起動を)」


 ライが魔力を流し込むと、通信石から青白い光の粒が溢れ出し、ぶっきらぼうな男の声がスピーカーのように響いた。


『……銀色の兄ちゃんか。久しぶりだな。……悪いが、俺たちはすでにアジトを移した。憲兵どもや、あの気味の悪い蝶の連中にバレるような真似はしていないだろうな?』


 ガレ。かつて僕の「終焉」の速度を気象学的に予報しようとして、絶望に顔を歪ませた偏屈な男だ。通信越しの彼の声は相変わらず冷淡で、どこか焦燥を含んでいる。

 どうやら彼は、自分をこの姿に変えたサリックスさんのことを、運悪く居合わせた「恐ろしく機嫌の悪い一般人」程度にしか思っていないらしい。彼女たちの真の恐ろしさ、その「調律」が魂の深淵まで及ぶ絶望であることを、彼はまだ知らないのだ。


「(ガレ、僕だ。……今からティル、ライの二人を連れて、そっちへ向かう。他の焔牙騎士や白爪のメンバーには、各所で証拠隠滅と攪乱を頼んでいる。……合流し、リュカの喉元を突く準備をする)」


 一瞬、通信の向こうで沈黙が流れた。


『……チッ、あのアホな虎と組むだと? 冗談じゃねぇ。今はグリの野郎とも無理やり同盟を組まされているが、あれ以上暑苦しい筋肉バカのノイズはお断りだ。……だが、あんたが言うなら、少しは信じてやってもいい。……現在地の座標を送る。ただし、後ろに変な女を連れてくるなよ。俺は女の説教と高湿度が一番嫌いなんだ。アルスには慣れてるが、他は受け付けられねぇからな』


 相変わらず不遜な物言いだ。彼は「空」の純粋な理を愛し、地上の感情的な軋轢をすべてノイズとして切り捨てる。その傲慢さが、いずれアイリス姉さんたちの逆鱗に触れないことを祈るばかりだ。


「にゃーん(ネヴェ、君はメイから『あれ』を受け取っているな? そいつを僕に。……万が一の保険だ)」


 ネヴェは頷き、氷の彫刻家としての繊細な指先で、服の裏に隠していた小さな小瓶を取り出した。

 仕立て屋のメイ。彼女は僕たちの正体を知りながら、アイリス姉さんからの発注を受けるフリをして、密かに「道具」を融通してくれる貴重な協力者だ。


「はい、メイさんから預かった『獣化解除薬』の錠剤です。一個服用すれば、最低三日は人間の姿と魔力を保てますが……予備はありません。アイリスさんやルンさんにバレたら、メイさんまでフリフリの服を着せられてしまいます。慎重に使ってくださいね、ルウさん」


 僕はその瓶を、ライが持っている隠しポーチに収めさせた。

 そして、ライに抱えられながらプルプルと小刻みに震えている、かつてのライバルを振り返る。


「キャン、キャン!(行ってくるぜ、ネヴェ! あいつにバレる前に、リュカの首を獲って戻る! ガレの野郎にも、虎の牙の鋭さを思い出させてやるぜ!)」


 意気込みは素晴らしいが、震えが止まっていないせいで、今の彼は散歩をねだる臆病な小型犬にしか見えない。


「(行こう。……ガレのアジトで、東部戦争の真の幕引きを計算する。……ライ、ティルを抱えてくれ。今の僕たちの足では、夜が明ける前に森を抜けることすら叶わない)」


 ライがティルを小脇に抱え、僕をもう片方の腕に乗せる。

 巨漢の影が、静まり返った石切場を離れ、木々が騒めく森の深奥へと消えていく。


 背後でネヴェが、いつまでもにっこりと、しかしどこか縋るように手を振っていた。その微笑みは美しいが、彼女もまた「飼い主」という理不尽な概念に魂を縛られた、傷ついた暗殺者の一人なのだ。


 夜霧が深まる中、僕は胸に抱いた解除薬の瓶を見つめた。

 僕たちの向かう先には、気圧を操る偏屈な予報士と、そして彼を狙うであろう『骸蝶』の魔手が待ち構えている。

 マンチカンとチワワ。

 この小さすぎる反逆者たちが、再び世界を震撼させる「終焉」を奏でるための、絶望と希望の行軍が、今、本格的に加速し始めた。


(……待っていろよ、ガレ。あんたの予報に、僕たちの『終焉の乱気流』を叩き込んでやる)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ