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最強暗殺者、聖女に詰められ短足猫になる  作者:
第6部-東部戦争開幕、三大組織滅亡
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脱出-1.洗濯屋の番犬と、失われた「狼」の矜持

 

 東部の街を流れる清流のせせらぎが、朝の光をキラキラと反射させている。鳥たちの囀りは祝福の歌のように響き、空気は洗い立てのシーツのように澄み渡っていた。

 だが、その平和を絵に描いたような風景の中、僕――かつて「最悪の終焉」と恐れられた魔戦士ルウは、今、アイリス姉さんの腕の中に収まり、屈辱的なほど柔らかい白い毛を揺らしながら、南の大陸でも有数の穏やかな場所、サリックスさんの洗濯屋へと向かっていた。


 表向きは、仲の良い「飼い主同士」の麗らかな朝の挨拶だ。

 しかし、僕の『狼王(フェンリル)の眼(・ヴィジョン)』と、この忌々しいほど猫の体に最適化されてしまった鋭敏な嗅覚は、その平穏な風景の裏側に潜む「不純物」を即座に感知していた。


「サリックスさん、おはよう。今日も川の音が気持ちいいわね。お洗濯、捗りそうじゃない?」


 アイリス姉さんの、春の陽だまりのような能天気な声。だが、僕のひげは、サリックスさんの家から漂う、微かな、だが決定的な違和感を捉えていた。それは、鉄と火薬の匂いを無理やり石鹸の香りで上書きしたような、裏社会の住人特有の澱んだ気配だ。


「あら、アイリスさん。おはよう。ふふ、ちょうど今、新しい『家族』をご紹介しようと思っていたところなのよ。少しばかりお行儀が悪かったけれど、ようやく綺麗な音で鳴けるようになった子たちなの」


 サリックスさんが微笑みながら指差した先。そこには、昨日まではいなかったはずの二匹の雑種の子犬が、情けない顔をして庭の隅に座っていた。


 僕はアイリス姉さんの腕から身を乗り出し、その二匹を凝視した。

 一見すれば、どこにでもいるような、少し発育の良い子犬だ。茶色い毛並みの犬と、白い毛並みの犬。だが、僕の全方位知覚が弾き出した答えは「NO」だった。


(……なんだ、あの二匹。ボーンやニヴェのような、僕たち『白爪ホワイトクロー』のメンバーが持つ、天を衝くような魔力ほどではない。だが、この煮え切らない、泥臭い魔力の残滓……。それに、あの四足歩行に慣れていない、ぎこちない股関節の動かし方。首を振る際に見せる、人間特有の「視界を確保しようとする」予備動作……。間違いなく、元は人間だ)


 僕は喉の奥で、低く、誰にも聞こえない程度に「ルルッ」と唸った。

 サリックスさん。彼女はやはり、僕をこの屈辱的なマンチカンの姿に変えたアイリス姉さんや、ティルをチワワに変えたルンと同じ、「こちら側」の人間……。いや、僕たち暗殺者にとっての、理不尽を体現した「天敵(飼い主)」だったのだ。


(……末端構成員とは言え、東部戦争に関与した身分のはず。あのアジト爆破事件、そしてガレたちを執拗に狙う『骸蝶(スカル)の軍勢(・パピヨン)』の息がかかっているに違いない。……聞き出さなければ。僕がこんな姿に甘んじている間にも、東部の均衡は、あの狂った支配者によって崩されようとしているんだ)


 僕はアイリス姉さんの腕をすり抜け、重力を感じさせない身のこなしで地面に飛び降りた。


「あら、ルウくん。お友達にご挨拶したいの? 仲良くしてあげてね、その子たち、まだこの生活に慣れていないみたいだから」


 アイリス姉さんはおっとりと微笑むが、そのような要求はお断りだ。姉さん、冥静戦争のときもそうだったけれど、僕は馴れ合いに来たわけじゃない。

 姉さんののんびりした声を背に、僕は音もなく――かつて時速400kmで戦場を蹂躙した「死神」の片鱗を見せながら、二匹の子犬の前に立った。


 今の僕は、ハヤブサの急降下のような速度は出せない。短足のマンチカン。だが、狼王の魂は折れてはいない。


 僕は二匹の目を見据えた。猫の姿ではあるが、僕の瞳の奥に宿る『狼王』の殺気は、アイリス姉さんの抱擁をもってしても完全には消し去れていない。

 二匹の犬――元末端兵AとBは、僕を疑わしそうに、そしてどこか怯えたように見上げた。


 茶色い犬(末端兵A)が、不器用に後脚で耳の裏を掻こうとして、そのままバランスを崩して転がった。彼は自分の醜態に苛立ったように、僕に向かって鋭く吠えた。


「キャン、キャンキャン!(なんだお前? このフリフリの首輪をつけた小生意気な猫は!)」


 僕はその鳴き声に対して、背中の毛を逆立て、威嚇の態勢に入った。


「フシュー……(……おい、お前ら。無駄な芝居はやめろ。最近、ガレ率いる『蒼天の凪』と、グリ率いる『紫電の檻』が激突したと聞く。その挙句、あの薬中の狂王……何者かが横やりを入れたという知らせが情報屋から僕のもとに届いた。……何か知っていることを吐け。もしもお前らがその片棒を担いでいるなら、今この場で、その喉笛を爪で掻き切ってやる)」


 僕の威嚇に対し、農家出身だという茶色い子犬(末端兵A)が、鼻をピクピクと動かしながら、テレパシーに近い「獣の意思」で返してきた。犬の体になったことで、言語以前の「感情の伝播」が容易になっているのだ。


「(……ハッ、笑わせるな。『最悪の終焉』ルウか。裏社会でその名を聞かぬ者はなかった伝説の暗殺者が、今やフリフリのレースを付けられた『社会の恥さらし』の、女の玩具じゃねぇか。傑作だぜ。……俺たちはもう、昨日あのサリックスという女に『漂白』された時点で死んだも同然だ。隠す必要もねぇよ)」


 続いて、呉服商の息子だという白い子犬(末端兵B)が、前脚を揃えて座り直そうとするが、爪が石畳に引っかかって「クン」と情けない声を漏らした。彼は、冷静だが深い絶望の混じった視線を僕に寄越す。


「(……今の、そのマンチカンという矮小な体のお前じゃ、俺たちを殺せても、あのお方……リュカ様の『新世界』には届かない。悪いことは言わん、お前もすぐにあの鋭利なる魔戦士、ウル様に刻まれるぞ、ルウ。……あのお方は、お前のような義賊の甘さなど、微塵も持ち合わせていない)」


「にゃっ(……ウルだと?)」


 ウル。骸蝶の軍勢の幹部であり、自身の骨を改造して刃とする狂気の男。その名を聞いた瞬間、僕の脳裏に最悪の戦況がフラッシュバックする。

 だが、驚くべきは彼らの態度だった。彼らは抵抗する様子すら見せなかった。

 サリックスさんという「絶対的な管理者」に、その存在意義という名の汚れを叩き落とされた彼らは、もはや戦う意志を失い、ただの番犬としての役割を、恐怖と諦めの中で受け入れようとしていた。だが、その瞳の奥には、彼らが奉じる主君リュカへの、狂信的なまでの憧憬が、消えかけの炭のように燻っていた。


「(……自白したな。お前たちの目的はなんだ。何を成そうとしている。この街まで戦火を広げるつもりか)」


 僕は攻撃姿勢を解いた。むしろ、この二匹のあまりにも情けない、自分の尻尾を追いかけて回るような動作を見ていると、攻撃する気力さえ削がれていく。

 茶色い犬こと元末端兵Aが、地面の匂いを執拗に嗅ぎながら、自嘲するようにキャンと鳴く。


「(新世界だ……。お前みたいな、国家転覆にすら興味を持たず、ただ弱者を救うだの、綺麗事をほざいている義賊の猫ごときには、わかんねぇだろうがな……! 世界の全てを一度灰にし、その上に『神』が新たな秩序を築くんだよ! そのために、ノイズは全て排除される!)」


 新世界。

 リュカという男が掲げるその言葉が、どれほど多くの血を要求し、どれほどの絶望を種として咲く花なのか、こいつらは理解していない。

 僕は二匹から視線を外し、高く澄み渡った空を見上げた。


(……このままアイリス姉さんの腕の中で、日向ぼっこをしながら喉を鳴らしている場合じゃない。ガレが負傷し、アルスが動き、そしてサリックスさんという『未知の調律師』が東部の盤面に現れた。……状況は、僕の予報を超えて、最悪のテンポで加速している)


 僕は自身の肉体を再度、冷徹に確認する。

 著しく弱体化している。全力で走っても時速4kmが限界の、短足のマンチカン。攻撃手段は小さな爪と、猫パンチ。だが、僕にはまだ、魂を共にする「仲間」がいる。


(……こうなったら、ライとティルを誘い出すしかない。ライの圧倒的な破壊力と、ティルの野生の直感があれば、この膠着状態を打破できるはずだ。……そのためには、あの鋭い観察眼を持つルンすらも欺き、アイリス姉さんの完璧な監視網を突破する必要がある)


 冥静戦争の時、僕は一度脱走に失敗した。その結果、罰として屈辱的な「フリフリドレス三枚重ね」の刑に処され、一日中アイリス姉さんのベッドで添い寝をさせられた。

 だが、そんな恥辱はもう関係ない。

 僕が守るべきは、僕を「リーダー」と呼んで信じてくれる仲間たちと、この大陸の微かな、しかし愛おしい平穏だ。


「ルウくん、どうしたの? そんなに怖いお顔をして。もしかして、お腹が空いちゃったのかしら?」


 アイリス姉さんが僕をひょいと抱き上げた。

 彼女の指先が、僕の顎の下を優しく、的確な強さで撫でる。その心地よさに、危うく本能が屈し、喉をゴロゴロと鳴らしそうになるが、僕は奥歯を噛み締めて、辛うじて理性を繋ぎ止めた。


(……見ていろよ、リュカ。お前の『新世界』とやらを、この小さな猫の爪でズタズタに引き裂いてやる。……そしてアイリス姉さん、ごめん。僕はやっぱり、ただの可愛いぬいぐるみにはなりきれないんだ)


 僕の瞳の奥に、銀色の狼の焔が再点火される。

 サリックスさんの洗濯板が、世界の汚れを落とすように「トントン」と響くその音を合図に、僕の脳内では、かつてないほど大胆で、それでいて無謀極まりない「脱走計画」のシミュレーションが、超高速で開始されていた。


 次の瞬間、僕はわざとらしく「にゃ~ん」と甘えた声を出し、アイリス姉さんの首元に顔を寄せた。

 油断を誘い、隙を突く。死神の戦いは、今この瞬間から始まっているのだ。

 サリックスさんの洗濯屋に、穏やかな正午の鐘が響き渡る。

 その音と同時に、僕の心臓は、かつて数万の重武装軍勢を単独で正面突破した時よりも激しく、猫の小さな胸の中で脈打っていた。


 アイリス姉さんがサリックスさんとお喋りに興じ、新しく仲間入りした「コロ」と「ハク」――元末端兵の二匹に、これまた絶品のミルクを与えている、その一瞬の隙。


「(今だ……!)」


 僕はアイリス姉さんの足元から、音もなく影に溶けるようにして離れ、庭の生け垣をすり抜けた。

 背後で、子犬の姿にされた男たちの「思念」が、呆れたように、あるいは憐れむように僕の背中を追ってくるのが分かった。


「(おいおい、猫野郎。無茶すんじゃねえぞ。その短足で、人間の一歩にすら届かない歩幅で、一体どこまで行けるってんだ?)」


「(……ふん。俺たちに嗅覚でリュカ様を探す仕事をさせられるのは、犬の誇りが許さねぇ。お前が勝手に野垂れ死んで、騒ぎを起こしてくれるなら、俺たちにとっちゃ願ってもねぇ好都合だがな)」


 ――勘違いするな。お前らが舐め腐った態度をとっていられるのもそこまでだ。


 彼らの皮肉交じりのノイズを意識の外へ放り出し、僕は表通りへと続く土手を全力で駆け上がった。

 かつての僕なら、この程度の距離は瞬きをする間に踏破し、景色は銀色の線となって後ろへ流れていったはずだ。だが今の視界は、道端のタンポポさえも僕の背丈を越える巨大な障害物として立ちはだかり、土手の斜面は険しい断崖絶壁のように僕の行く手を阻む。


 ようやく這い上がった表通りに出ると、ちょうどアイリス姉さんの孤児院へ、冬用の毛布や保存食を運ぶための大型駅馬車が、御者台に恰幅の良い男を乗せて出発しようとしていた。


「(……デカすぎる)」


 見上げるほどの、圧倒的な巨体。鉄で補強された巨大な木製車輪が、ゆっくりと回転を始める様は、まるで僕という矮小な存在を無慈悲に押し潰すための、巨大な処刑器具のように見えた。

 かつての僕――「最悪の終焉」と呼ばれた時速400kmの死神なら、この程度の馬車を追い抜き、風を置き去りにして車内に忍び込むなど、欠伸をしながらでも造作もないことだっただろう。だが今の僕は、全力で四肢を駆動させても時速4km。急ぎ足の人間と並ぶのが精一杯の、歩くぬいぐるみに過ぎない。


「……ヒヒーン!」


 馬が鋭く嘶き、重厚な車体がギシリと不気味な軋みを上げる。

 動き出す。今この瞬間を逃せば、僕はただの迷子猫としてアイリス姉さんに「お持ち帰り」され、さらに厚手のフリフリ服を着せられる運命だ。


「(……くっ、車輪が……あんなに巨大に見えるなんて。地面が遠い……! だが、銀狼の誇りは、この短い手足にこそ宿っているんだ!)」


 僕は馬車が加速し始める瞬間、その振動と蹄の音が石畳を叩く轟音に紛れて、後部の荷台へ向けて決死の跳躍を敢行した。

 空中で短い足を必死にバタつかせ、ガシッ、と前足の爪を古い木材に深く立てる。


「(……よ、い、しょ……っ! ぐ、うぅ……!)」


 重い。物理法則が、僕の小さな体に容赦なく襲いかかる。自分の体重が、これほどまでに重力の影響を強く受けるものだとは思わなかった。

 マンチカン特有の短い手足が、必死にもがく姿は、傍から見れば滑稽この上ないだろう。だが、この「低重心」こそが、激しく揺れる馬車の縁にしがみつくには適しているという皮肉な事実に気づく。僕は懸垂をするような必死の体勢で、どうにか荷台の隙間へと滑り込んだ。


 荷台の中は、清潔なリネンと小麦粉の袋で溢れていた。

 アイリス姉さんの慈愛が詰まった物資の香りに包まれ、一瞬、心が安らぎそうになるが、僕は立ち止まらない。

 客室に座る人間や、御者台の男に気づかれないよう、僕はさらにその上の「屋根」を目指す。


 積み上げられた布の山を足場に、僕は馬車の屋根へと這い上がった。

 そこには、遮るもののない吹き抜ける強い風と、不穏な雲がたなびく広大な東部の空が広がっていた。


「(ふぅ……。どうにか、第一段階はクリア、か)」


 マンチカンの姿で自力で馬車に乗り込むことが、これほどまでに命懸けの苦行だとは思わなかった。

 馬車は街の中心部、そして孤児院へ向かって緩やかに加速していく。

 本来の予定なら、僕は夕方までには孤児院の庭で子供たちに追い回され、幸せな「ペット」を演じているはずだ。アイリス姉さんは、僕がいなくなったことに気づけば、きっと血眼になって、それこそ大地を割るような勢いで僕を探すだろう。


「(ごめんね、姉さん。……どうせ猛禽類に襲われたとか、悪い人に拾われたとか思って、本気で悲しむんだろうけど。僕には、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ。……姉さんの優しすぎる監視が届かない『死角』へ、僕は行く)」


 ――なんて決意しているにもかかわらず、どうせアイリス姉さんは僕を見つけに来る。その予報だけは、何があっても外れない気がして、少しだけ背筋が寒くなった。


 屋根の上で、僕は鋭い爪を革張りの屋根に食い込ませ、周囲の魔力を感知した。

 『狼王の眼』を極限まで絞り込み、東部の街の喧騒の中に潜んでいるはずの、あの「凶暴な虎の気配」を探す。


(……待っていろよ、ティル。今から僕が、お前の首輪を噛み千切りに行ってやる。……そして、この大陸を覆う漆黒の予報を、僕たちの手で塗り替えるんだ)


 その頃、街のどこかでは。

 ルンのハンドバッグの中で、あるいはその足元で、かつての伝説の破壊者ティルが、チワワの姿で震えながら、自分を捕らえて離さない「飼い主」という名の絶望に耐えているはずだ。

 そして、白爪の誇り高き大男、不動のライもまた、この事態を静観している。


 白いマンチカンを乗せた馬車は、土埃を上げながら、不穏な影が色濃く差す東部の中心地へと突き進んでいく。

 伝説の暗殺者による、世界で最も遅く、最も低く、そして最も必死な脱走劇が、今、ここに幕を開けた。


 僕は風を受けながら、遠くそびえる石切場を見据えた。

 あそこには、リュカがいる。

 そして、そこへ至る道には、ウルという鋭利な刃が待ち構えている。


「(見ていろよ、リュカ。時速4kmでも、辿り着いてみせる)」


 銀色の狼の焔を宿したマンチカンは、揺れる馬車の上で、静かに牙を研ぎ始めた。


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