漂白-もふもふの服従
東部の街を貫く清流のせせらぎが、朝の光をキラキラと反射させ、水面には宝石を散りばめたような眩い輝きが踊っている。
木々の間からは鳥たちの囀りが響き、それはまるで世界の誕生を祝う賛歌のように穏やかで、慈愛に満ちた朝だった。だが、その平和な空気とは裏腹に、川辺に建つ一軒の慎ましやかな民家の中では、二人の男が人生最大の絶望と、理性を焼き切るほどの困惑の中に叩き落とされていた。
昨日まで、彼らは『骸蝶の軍勢』の精鋭――末端兵とはいえ、過酷な選別を生き残り、漆黒の外套に身を包んで鋭い銃剣を構えていた戦士たちだった。
一人は、実家が農家で、その類まれなる腕っ節の強さと、どんな上官にも物怖じしない生意気な性格を買われて軍勢に入った「末端兵A」。
もう一人は、実家が老舗の呉服商で、リュカが提唱する秩序ある「新世界」の到来こそが真の救済だと信じ、実直な忠誠を誓った「末端兵B」。
彼らが、石切場での不気味な蝶の羽ばたきや、昨夜の虹色の閃光の記憶を抱えたまま重苦しい瞼を開けた時、視界に飛び込んできたのは、期待していた軍の野戦病院でも、覚悟していた敵の拷問部屋でもなかった。
「……う、ぐ……。ここは、どこなんだ? 身体が……妙に熱い」
末端兵Aが、掠れた声で呟いた。
身体が妙に暖かい。それも、鉄の鎧や冷たい寝袋の感触ではない。糊のきいた清潔なシーツと、陽だまりの匂いがするふかふかの羽根布団に包まれているのだ。窓の外には、のどかな川の流れと、春風に揺れる柳の枝が見える。
「俺たちは……あの光を操る女、アルスを追い詰めていたはずだ。……クソ、何が起きた? 身体が、妙に軽いっていうか、感覚が……重心が変だぞ。それに、手が、動かない……」
「……あ、あ、ああ……っ! なんだ、これは……鏡を、鏡をよこせ!!」
隣のベッドで、末端兵Bが悲鳴に近い声を上げた。彼は取り乱した様子で、何度も自分の顔や腕を触ろうとしているが、まるで自分の身体が自分のものではないかのように、思うように四肢が駆動しないらしい。
「いきなり何なんだよ、B! 落ち着け、ここはただの民家だ。……俺たちの正体がバレてなきゃ、適当に迷子になったフリをして、セキ様のもとへ帰ればいいだけの話だ。俺たちの軍勢は、こんなところで終わるようなタマじゃ――」
「おはよう。よく眠れたかしら?」
鈴を転がすような、透き通った声が部屋に響いた。
二人が弾かれたように視線を向けると、そこには白いエプロン姿の女性――サリックスが、湯気の立つ温かいスープを載せたお盆を手に、穏やかに立っていた。
その微笑みは、聖母のように慈愛に満ちている。だが、昨日あの路地で、存在そのものを消去されるような「重圧」を味わった彼らにとって、その笑顔は、リュカの冷徹な美貌よりも、どんな魔王の咆吼よりも恐ろしい終焉の合図だった。
「い、いきなり『おはよう』とはなんだ! 貴様、何者だ! 俺たちをどうするつもりだ……っ! 離せ、今すぐセキ様のもとに行かねば、お前も、この家も、軍勢の火に焼かれることになるぞ!」
末端兵Bが、必死に虚勢を張った。呉服商の息子らしい、理路整然とした(はずの)抗議。だが、その声はなぜか、自分でも驚くほど甲高く、情けなく響いた。
サリックスは、末端兵Bの剣幕に驚く風もなく、スープをサイドテーブルに置くと、困ったように小首を傾げた。
「あら。セキさん……。昨日の夜、真っ先に逃げていったあの男の子のことかしら。いいこと聞いちゃった。……東部を騒がせている『お行儀の悪い蝶々さん』たちのお名前ね。後でアイリスさんに言わないと。彼女、悪い子にはとっても厳しいから。お仕置きのメニューが増えちゃうわね」
「ア、アイリス……? 国家関係者の特務機関か、そいつは……!? 答えろ!」
農家出身の末端兵Aが、ベッドから飛び出そうと身を乗り出した。
「あのお方の、リュカ様の名誉を汚すような真似はさせねえ! この女、連行して拠点まで――」
彼は得意の力任せな動きでサリックスに飛びかかろうとした。……はずだった。
だが、彼が足を踏み出した瞬間、視界が異様に低くなり、バランスを崩して顔面からフローリングの床に転がった。
――ボフッ
「キャンッ!?」
自分の口から出た「声」に、末端兵Aは凍り付いた。
なんだ、今の、心臓が跳ね上がるほど情けない、子犬のような鳴き声は。
ふと見下ろした自分の手。そこにあるはずの、土を耕し、重い銃を握り締めてきた五本の指は消え失せていた。代わりにそこにあったのは、茶褐色の毛に覆われた、小さくて丸い「肉球」のついた、頼りない前足だった。
「(な……な、……なんだこれぇええ!!)」
「まあ、元気ね。これからお仕事をしてほしいことがあるのよ。お庭の番をしたり、お洗濯物の見守りをしたり。……悪いことに加担して、世界に不協和音を撒き散らした分、ここでしっかり働いて、心の汚れをピカピカにしましょうね?」
サリックスは何事もなかったかのように微笑むと、手鏡を二人の前にそっと差し出した。
そこに映っていたのは、漆黒の外套を着た戦士の姿ではない。
二匹の……まだ幼さの残る、なんとも言えず情けない困り顔をした、雑種の子犬だった。一匹は茶色い毛並みの活発そうな個体(末端兵A)、もう一匹は真っ白な毛並みの大人しそうな個体(末端兵B)。
「キャン!(何を言っているんだこの女は……! 呉服商の息子たる俺が、犬などという畜生に……)」
末端兵B(子犬・白)が、必死に誇りを保とうと言葉を紡ぐ。だが、彼の高潔な精神とは裏腹に、その小さな身体は、サリックスが差し出した温かなミルクの甘い香りに、生物的な本能で抗いがたく反応していた。
尻尾が、自分の意思を裏切ってパタパタと勝手に振れる。逆らいたいのに、彼女が「良い子ね」と頭を撫でようと白く細い手を伸ばすと、吸い寄せられるように、自分から首筋を差し出して喉を鳴らしてしまう。
「あら? 自分の実家がどこにあるとか、どんな悪いことに加担してきたかとか……隠しても無駄よ? 全部、私のお洗濯板で叩けば『音』として聞こえてくるの。でも、安心なさい。あなたたちがこれからは『良い子』の旋律を奏でるなら、前の名前は秘密にしておいてあげるわ」
サリックスの指先が、末端兵A(子犬・茶)の耳の裏を絶妙な力加減でくすぐる。
「キィ……ッ! (な、なんだ、この……脳が溶けるような心地よさは……! 殺意も、野心も、全部が漂白されていくような、この感覚……っ!)」
生意気だったAは、もはや抵抗する気力さえも、その恍惚感の中に溶かされていた。
サリックスの「調律」は、単に肉体を作り替える魔法ではない。その存在が奏でる「悪意」や「傲慢」というノイズを、彼女の持つ絶対的な波長によって、強制的に「従順」という旋律へと書き換えてしまう、魂の再構成なのだ。
「アイリスさん、なんて反応するかしら。私、初めて飼うわ、こんなに可愛いワンちゃんたち。……さて、お名前は何がいいかしら? Aくんは、お茶色だから『コロ』。Bくんは、真っ白だから『ハク』がいいわね。とっても素敵な音色だわ」
「(やめろ……俺には、愛した故郷での名前があるんだ……)」
「(そうだ、俺にも……呉服の伝統を継ぐはずの名前が……)」
二匹(二人)の心の叫びは、サリックスが微笑みながら彼らをひょいと抱え上げた瞬間、心地よい重力の中に消えた。彼女は二人を抱えたまま、窓の外の柔らかな日差しが降り注ぐ庭へと連れ出した。
末端兵A(改めコロ)は、吸い込まれそうなほど青い空を見上げて、心の中で嗚咽した。
「クゥーン……。(あのお方が……リュカ様が今の俺たちの姿を見たら、どう思うだろう。国家転覆を狙う精鋭が、まさか犬になって庭番なんて……)」
末端兵B(改めハク)は、冷徹な現実を分析しようとしたが、日差しの温かさに抗えず、うつらうつらと瞼を閉じかけていた。
「クゥン(……今は、耐えるしかない。リュカ様なら……俺たちが捕まったと知れば、機密保持のために迷わず切り捨てるだろう。……ならば、この『調律師』のそばで『犬』として生き延びる方が、合理的……なのかもしれない……。いつか、リュカ様がこの街を浄化しに来るその日まで……)」
彼らは信じていた。自分たちのリーダー、リュカこそがこの世界の「絶対的な神」であり、いつかこの異常な日常を破壊し、自分たちを救い出してくれると。
だが、彼らはまだ知らない。リュカが掲げる「完璧な管理」と、サリックスやアイリスが振るう「絶対的な飼育」が衝突した時、どちらがより強固な檻となるのかを。
サリックスは、庭に干された白いシーツの隙間で、二匹の子犬が小さく震えているのを見つめ、優しく微笑んだ。
「さあ、お洗濯を始めるわよ。あなたたち、しっかり見ていてね。……世界からノイズが消えて、みんなが綺麗な音で鳴けるようになるまで、私は何度でも洗うから」
トントン、と。
昨日、精鋭兵たちを恐慌に陥れたあの洗濯板を叩く音が、のどかな川辺に響き渡る。
その規則的なリズムは、二匹の犬の記憶の奥底に、「リュカ」という名を忘れさせるための強力な暗示を刻み込んでいく。
東部を脅かす軍勢の尖兵たちは、一夜にして、世界で最も平和な「お洗濯の番犬」へと姿を変えた。
そして、この二匹にはさらなる重要な役割を与えられることになる。
「あら、いい音色ね」
サリックスの鼻歌が、川のせせらぎに溶け込んでいく。
東部戦争の行方は、今、一人の洗濯屋の掌の上で、静かに、そして真っ白に漂白されようとしていた。




