洗礼-断罪の翅、虚無の玉座
治療を終えたタロが辿り着いたのは、東部の街から数キロ離れた、忘れ去られた石切場だった。かつて巨大な花崗岩を切り出していたその場所は、今や巨大な擂り鉢状の監獄のように口を開け、底なしの闇を溜め込んでいる。切り立った断崖が月光を拒絶し、谷底には『骸蝶の軍勢』が放つ不穏な魔力が、淀んだ霧となって渦巻いていた。
焚き火の爆ぜる音が、乾いた岩壁に反響し、不気味なメトロノームのように時を刻む。その火を囲むように、二人の男が座していた。
一人は、自身の剥き出しになった前腕の骨を、悦悦とした笑みで弄る男、ウル。
『鋭利の魔戦士』の名に相応しく、その体からは改造された骨剣が棘のように突き出しており、彼はその刃にこびりついた乾いた血を、愛おしそうに爪で弾いている。
もう一人は、多節棍『百足』を無言で磨き上げる男、セキ。
かつては生真面目な武人としてその名を馳せたが、今のその瞳には光がない。感情を捨て、個を捨て、ただ『連結の魔戦士』という機能に成り果てた男の背中には、死の静寂が張り付いていた。
「……ようやくお帰りかよ、タロ。いきなり組織のトップ……ガレと衝突したなんて聞いたときは、俺が横から飛び込んでやろうかと思ったぜ。あのアサシンどもの、絶望に歪む面が拝めたはずなんだがなぁ」
ウルは、自身の腕から突き出した鋭利な骨剣を、地図の上に無造作に突き立てた。彼の瞳には、純粋な戦闘狂特有の、濁った歓喜が宿っている。
「……ガレ、か。奴は化け物だ」
タロは、焼けた右腕を無造作に放り出すようにして焚き火の傍らに腰を下ろした。
「予報士なんて面をしていながら、あの男の周囲の風は、近づくものすべてを分子レベルで粉砕する『拒絶』そのものだった。物理法則を気圧で書き換えるような真似を平気でやってのける。……途中で憲兵団の邪魔が入ったのは残念だが、あのまま続けていれば、俺の予報も危うかったかもしれん」
タロは指を動かし、いまだ神経を焼く雷撃の残滓を確かめる。苦痛を愉しむかのように歪んだ笑みを浮かべる彼に、ウルは嘲笑を浴びせた。
「『邪魔』かぁ。全くだ。この前、南の大陸でベスパとマンティの野郎どもがぶつかって、アイリスとかいう得体の知れない女に捕まったっていう噂……聞いたか? 結局、最強だなんだと思い上がっていた連中も、最後は犬猫にされて転がされたって話だぜ。あの大物連中が日向ぼっこ専用の愛玩動物とは、傑作だよなぁ!」
ウルが喉を鳴らして笑う。彼にとって、かつてのライバルたちが無残な末路を辿ったという情報は、自身が生き残っているという優越感を満たす最高級の娯楽だった。
タロが大笑いするウルを静止する。
「……笑い事ではない。お前の爆破工作がバレるのも時間の問題だ。あのガレの側近に、光を操る女……アルスと言ったか。奴の解析能力は厄介だ。お前が仕込んだ『骨の爆弾』の出所も、じきに突き止めるだろう。そうなれば、奴らはここを攻めてくるぞ」
「ウル、タロ、冥静戦争のことなど過ぎ去ったことだ。今は関係なかろう」
それまで石像のように沈黙を守っていたセキが、重々しい声で割って入った。彼は『百足』を鞘に収め、冷徹な双眸を二人に向けた。
「我々がやるべきは、ただ一つ。リーダーの意志に従い、この澱んだ東部を浄化することだ。無駄口を叩いている暇があるなら、己の刃を研いでおけ。……もうすぐ、リュカ様が来られる。ペナルティを受けたくなければ、その下劣な口を慎め」
セキの言葉には、狂気とは異なる、どこか空虚で絶対的な忠誠心が宿っていた。かつて武人として重んじていた名誉も正義も、今はリュカという名の「絶対的な真理」を回すための歯車として捧げられている。
彼らはまだ知らない。自分たちが「掃除」しようとしているこの街の片隅に、かつてベスパやマンティを沈黙させた、あの「洗濯屋のサリックス」や「保育士のアイリス」が控えているということを。彼らの傲慢さは、いずれ訪れる「飼い主」たちの断罪を、まだ露ほども予感していなかった。
石切場の空気が、一瞬で凍りついた。
物理的な温度の低下ではない。空間そのものが、巨大な「意思」によって完全に圧迫されたのだ。
「諸君、静粛に……。夜の静寂は、死者のための安らぎだ」
闇の奥から、漆黒の外套を翻し、一人の男が歩み寄ってきた。リュカである。
42歳という年齢を感じさせない、瑞々しくも冷徹な美貌。その背後には、魔力で形成された半透明の「翅」が、蝶の羽ばたきのように不吉な紫の燐光を放ちながら揺れている。
500名の精鋭を従えるリーダーの登場に、タロ、ウル、セキの三人は即座に膝を突き、頭を垂れた。炎の光さえ、彼の周囲では影に飲み込まれ、届くことを拒まれている。
「タロよ。お前は独断で、ガレと接触したと聞く。私の計画に、一秒の狂いも許されないことは理解していたはずだが?」
リュカの声は、どこまでも優しく、聖歌のように慈愛に満ちていた。しかし、その響きには抗いがたい死の予感が、深海のように冷たく含まれている。
「申し訳ございません……。奴の動向を掴み、機先を制するため、つい深入りを……」
「……少しばかり、口を慎みたまえ。説明は、私が求めたときだけでいい」
リュカが、白く細い指先をタロの鼻先に向けた。
指先から、キラキラと輝く美しい鱗粉が、雪のように、あるいは祝福のように舞い落ちる。
「……っ!! あ、あぁっ!!」
タロの表情が、一瞬で苦悶に歪んだ。
鱗粉に触れた彼の皮膚が、目に見えないほど微細な「崩壊」を開始する。それは細胞一つ一つを、熱核反応にも似た微細な爆発で消滅させていく拷問。神経を直接抉り、存在そのものを削り取るような激痛がタロを襲った。
(焼ける……。ガレの雷さえ温く感じるほど、魂が焼かれる……! ここまで冷酷なのか、この御方は……! 私がかつて憧れ、共に歩もうと誓ったあの頃の残影は、もうどこにも……!)
タロは声にならない悲鳴を飲み込み、震えながらその場に平伏した。リュカにとっては、側近の命さえも、自身の描く「完璧な新世界」を構築するための、交換可能な部品に過ぎないのだ。
その光景を隣で見ているウルもセキも、眉一つ動かさない。ウルの瞳には共犯者としての愉悦が、セキの瞳にはただ受け入れるだけの虚無が宿っていた。
リュカは、悶絶するタロから冷淡に視線を外し、焚き火の炎を見つめた。その瞳には、何かの残り火すらもはやなく、ただ無機質な「虚無への還葬」への渇望だけが宿っている。
「諸君。我々の目的は、この腐敗し、守る価値を失った世界を一度虚無へと還し、私が神として新たな因果を刻むことだ。……そのためには、新世界の邪魔となる不純物は、塵一つ残さず除去せねばならん」
リュカは、ゆっくりと側近たちを見渡した。彼の声は石切場の壁に反響し、あたかもこの世界全体の意志であるかのような重圧を持って響く。
「アサシンや自警団……。そして何より、この大陸に蔓延る『想定外の変数』には特に気をつけねばならん。……たとえそれが、ウル、君が言う裏社会での不穏な噂……『飼い主』と呼ばれる女たちだったとしてもだ」
リュカの言葉に、ウルがわずかに肩を震わせた。戦闘狂の彼でさえ、ベスパやマンティが「消えた」事実には、本能的な嫌悪感を抱いていた。
「ベスパやマンティの二の舞になるような振る舞いだけは、くれぐれも控えよ。……暴力や略奪によって秩序を乱す者が、より強大な『管理』によって淘汰されるのは、至極当然の理だ。だが、私の新世界に、そのようなイレギュラーな支配者は必要ない。彼女たちがどれほど強大な力を持とうとも、それは私の管理を逃れるための『バグ』に過ぎない。消し去るべき、旧い世界の残滓だ」
「はっ……!!」
ウル、タロ、セキの三人が、一斉に唱和した。もはや、そこに個人の意思はない。あるのは、リュカという絶対神への狂信的な服従、あるいは思考を放棄した隷属のみである。
リュカは、大鎌『冥蝶』の柄を静かに握り、厚い雲に覆われた夜空を見上げた。
「……すべてを灰にし、私が神として新たな因果を刻もう。……まずは、空を支配したつもりでいる『蒼天の凪』。そして、偽りの絆という脆弱な鎖で結ばれた『紫電の檻』。彼らに、明日という予報は必要ない。私が予報そのものになるのだから」
リュカの呟きは、冷たい夜風に溶け、東部の街へと死の香りを運んでいく。
東部戦争は、もはや組織同士の勢力争いという次元を超えていた。自らを神と定義した一人の男が仕掛ける、全生命を対象とした徹底的な「浄化」の儀式。
その「偽りの神」の前に立ち塞がるのが、気圧を操り未来を計算する予報士なのか。それとも、かつて最強の破壊神たちを「愛玩動物」へと変えた、あの恐るべき「飼い主」たちなのか。
運命の歯車は、世界そのものを押し潰すような不吉な音を立てて、回り始めていた。
「セキよ。明日、アルスという娘を捕らえよ。彼女の『光』を屈折させ、我々の進軍を照らす導火線に仕立てる。神の国への階段を照らす灯火だ」
「御意に、リュカ様。この『百足』、空間ごと、あるいは因果ごと、あの娘を繋ぎ止めてみせましょう」
セキが立ち上がり、音もなく夜の闇へと溶け込んでいく。
東部の街が享受していたかりそめの平穏が、今、完全に崩れ去ろうとしていた。
リュカが去った後の石切場に、再び焚き火の音だけが戻る。
タロは崩壊した皮膚を魔力で強引に繋ぎ合わせ、立ち上がった。その瞳には、リュカへの恐怖と同時に、自分をここまで追い詰めたガレへの、執念深い殺意が宿っている。
「ウル……。お前、さっきの噂、本気か? あの『ベスパ』がティーカップ・プードルにされたなんて話、信じられるか?」
ウルは突き立てた骨剣を地図から引き抜き、冷たく笑った。
「信じる信じないじゃねぇよ。実際にアイツの熱源が、南の大陸から消えたんだ。残されたのは、小さな犬の足跡だけだ。笑えるぜ、あの暴君が『お座り』してるなんてなぁ!」
「……もし、その『飼い主』が東部にも現れたとしたら?」
「ハッ! だったらその飼い主ごと、俺の骨で串刺しにしてやるよ。俺はリュカ様の側近、最強の兵隊だ。あんな化け物どもの二の舞にはならねぇよ」
ウルの笑い声が岩壁に跳ね返る。
しかし、彼らの知らない場所で、運命は確実に「トリミング」を開始していた。




