追跡-1.静止する風、蠢く影
数日前の昼、東部の街を包む空気は、平穏を装いながらもどこか濁っていた。
かつて栄華を誇り、そして一夜にして崩壊した『蒼天の凪』の旧アジト。その骸となった瓦礫の山から数キロメートル離れた場所、陽光さえも拒絶する鬱蒼とした森の最奥に、一人の男がいた。
タロ。
国家転覆組織『骸蝶の軍勢』が誇る斥候頭であり、一度狙いを定めた獲物を地獄の果てまで追い詰めるその執念深さから、『追跡の魔戦士』と恐れられる男だ。
彼は大樹の幹に背を預け、石像のように微動だにせず、アジト内部の動向を観察していた。その双眸は肉眼の限界を超え、数キロ先の埃が舞う様子さえも克明に捉えている。
「……見つけたぞ」
タロの瞳には、かつてこの地を拠点としていたアサシンたちの姿が映し出されていた。
空色の髪を揺らし、瓦礫の中から「白い骨の破片」を拾い上げるプリズム研磨師、アルス。その表情はいつもの社交的な明るさを失い、真剣そのものだ。そして、その傍らで海図に冷徹な筆致でバツ印を書き込む男。
ガレ。かつて王都を巨大な竜巻で地図から消し去り、七万を超える命を「清掃」した男だ。
「距離は三・二キロメートル。かなりあるが……丸見えだな。おまけに、お前たちの声はすべて俺に盗聴されているぞ」
タロが細い指先で空気を弄ぶ。すると、本来なら届くはずのない微かな振動が、彼の魔力によって増幅され、鮮明な音声となって脳内に流れ込んできた。
アルスが発見した凄惨な真実。ガレが導き出した新たな拠点の計算。それらすべてが、タロというフィルターを通して『骸蝶の軍勢』に筒抜けとなっていた。
「アルス、そこまで辿り着いたか……。だが、真実に触れすぎたな。知らなくていいことを知る者は、明日を予報する権利を失う」
タロは低く、感情を排した声で呟く。
彼の傍らに控えていた数名の兵士が、ガレの名を聞いて一様に肩を震わせた。ガレの悪名――『天変の審判』としての力は、裏社会に生きる者にとって死神の鎌と同義だ。
「タロ様……どうなさるおつもりで。相手はあの『蒼天の凪』のリーダー、ガレです。不用意に近づけば、気圧の檻に閉じ込められ、塵も残さず圧殺されるリスクが高すぎます……」
タロはゆっくりと顔を向けた。その瞳は無機質で、まるで深淵を覗き込んでいるかのような錯覚を兵士に与える。
「リスク、か。……決まっているだろう。やられる可能性が少しでも出たなら、その芽を潰す。それが俺の仕事だ。それ以外に何の意味がある」
短い沈黙の後、タロは兵士たちに背を向けた。
「いいか、お前たち。ガレたちの動向をしばらく見ておけ。盗聴を怠るな。そして……あの男に盗聴されるような真似事はこの場では決して許さん。あいつの『耳』は風そのものだということを忘れるなよ」
「承知しました!」
忠告を残し、タロの姿は陽炎のように揺らぎ、足元の影へと吸い込まれていった。
獲物の「足跡」はすでに固定した。あとは、その喉元に爪を立てる瞬間を待つだけだ。
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太陽が水平線の彼方へと沈み始め、空が濃い群青と茜色の混じり合った不吉な色に染まる頃。
東部の街を見下ろす北側の断崖に、ガレは独り立っていた。
崩壊したアジトに残された残留思念。大気を流れる微かな気流の乱れ。彼はそれらを再観測し、新たな拠点の防衛線を構築するための計算に没頭していた。
彼が持つ『天変の瞳』は、半径数キロ圏内の全ての熱源と因果を視覚化する。
彼にとって、世界は「数式」の集まりだ。筋肉の収縮から生じる微かな発熱、衣服が擦れる音、肺に吸い込まれる空気の量。それら全てがガレの脳内で瞬時に演算され、0.5秒先の未来を確定させる。
この「神の目」がある限り、彼に不意打ちを食らわせることなど、物理的に不可能なはずだった。
だが。
その「絶対的な計算」の隙間に、一滴の墨汁が落ちたような不自然な感覚が走った。
音が消えたのではない。そこにあるはずの「空気の循環」が、一瞬だけ不自然に静止したのだ。
「……どこにいようがお前は丸見えだな、気象予報士。お前が占う明日の天気より、俺が刻むお前の死期の方が、かなり正確だ」
背後。
振り向く暇さえ与えない至近距離から、冷ややかな声が鼓膜を叩く。
声がした瞬間、ガレの項垂れた髪が、背後で発生した「空気の消失」に揺れた。
そこに立っていたのは、漆黒の装束を纏った男、タロだった。
ガレの観測網を、あろうことか「歩いて」抜けてきたのだ。
「……神出鬼没な男だな。俺の観測網に一度も引っかからずにここまで近づくとは。リュカの飼い犬は、ドブネズミの真似事も得意らしい」
ガレは振り返ることもなく、愛用の気象観測杖『シーガル・レイザー』を地面に軽く突いた。
ガッ、と硬質な音が響くと同時に、ガレを中心に半径5メートルの空間が変質する。
大気が凄まじい密度で圧縮され、目に見えない透明な障壁――『絶対防御気層』が展開された。
「最高戦力のお前がどこに潜んでいようが無駄だ、タロ。俺の周囲の風は、お前の呼吸一つ、毛穴から出る一筋の熱量すらも『敵』と判断して迎撃する」
ガレの言葉に嘘はない。彼の周囲の気圧は常に一定のアルゴリズムで制御されている。人間一人がそこに存在すれば、排熱と体積によって気流に必ず「歪み」が生じる。その歪みを、ガレは見逃さない。
「呼吸、か。なるほど。だがな、ガレ。あんたが吐き出したその言葉……口元の空気はすでに俺に盗聴されているぞ」
タロの姿が、陽炎のように揺らぎ、再び視界から消えた。
「肺の中に溜まった空気も、俺にとっては『影』と同じなんだよ」
シュッ、という鋭い断絶音。
ガレの左頬に、赤い一本の線が走った。
絶対防御であるはずの高圧空気層。並の魔術師なら近寄ることさえできず圧殺されるその壁を、タロは最小限の接触面積で「滑って」通り抜けたのだ。
「(……物理法則を無視した侵入。影を伝うだけではない、空間の接触面を狙った『潜り』か。計算外の変数が混じり始めたな)」
ガレの瞳が、青白く発光を強める。
IQ超天才と称される彼の脳が、フル回転を開始した。
「足元。……読めているぞ」
ガレが『シーガル・レイザー』を横一文字に薙ぎ払う。
杖の先端から展開されたカモメの翼を模した銀色の刃が、空間そのものを切り裂き、真空の断層を作り出した。
キィィィィィィン!!
夜の帳を切り裂くような金属音が響き、火花が散る。
影から這い出そうとしたタロの隠し爪『暗歩』が、ガレの放った真空刃と正面から衝突したのだ。
タロは影の中でわずかに目を見開く。
「ほう……。俺の『転移』の終着点を、完全に捉えたか。さすがは、一晩で王都を壊滅させた男だ。その瞳、ただの気象観測用ではないらしいな」
「お前の動きは、風の流れを乱す『淀み』だ。予報士にとって、予測できないノイズほど不快なものはないんでね。……一気に氷点下まで叩き落としてやる」
ガレが指を鳴らす。
瞬間、二人の周囲の気温が、物理限界を超えた速度で低下し始めた。
得意魔術『凍てつく恒久』の予備動作。半径1kmの全ての分子運動を停止させ、心臓の鼓動さえも凍りつかせる絶滅の冷気。
「……冷たいのは、嫌いでな」
タロは再び影へと逃れようとする。
だが、ガレはそれを許さない。
「影の中に逃げ込めると思うな」
ガレが杖を地面に叩きつけると、タロが潜もうとしていた「影」そのものが、超高圧の気圧操作によって物質的な質量を持って固定された。
影がコンクリートのように固まり、タロの逃げ道を塞ぐ。
「その空間ごと、真空の墓場に変えてやる」
ガレが杖を振り上げ、トドメの衝撃波を放とうとした、その刹那。
「……残念だったな、ガレ。あんたが見ているのは、俺の『現在の影』だけだ」
声は、頭上から降ってきた。
ガレが驚愕と共に視線を上げると、そこには信じがたい光景があった。
先ほどガレが放った攻撃によって舞い上がった「爆発の煤」。その微小な塵が空中に作る、数ミリ単位の無数の影。
タロは、その塵の影を足場にして、重力を無視して逆さまに立っていたのだ。
「お前が『絶対防御』に頼り、力を行使すればするほど、あんたの足元にも、空中にも、俺のための『足跡』が生成され続けるんだよ」
タロが空中を蹴る。
その速度は、肉眼では捉えられない音速の領域。
ガレの脳内に展開された数千の変数が、この不規則な機動によって一時的にオーバーフローを起こす。
「死ね、予報士。あんたの今日の予報結果は……『血の雨』だ!」
黒い閃光がガレの心臓を目がけて突き進む。
ガレは死の淵で、かつて出会った「銀色の兄ちゃん」の姿を思い出した。あの、空よりも速い男に比べれば、この男の速度はまだ計算の範疇にある。
「……チッ、あいつみたいに速い野郎は、一人で十分なんだよ!」
ガレは回避を捨てた。
自身の体重を「数トン」へと一気に増加させ、自身の周囲に超高圧の衝撃波『エア・バースト』を、指向性を持たせずに全方位へ発生させる。
肉を切らせて骨を断つ――。
タロの爪がガレの肩を深く貫き、骨を削る感触が伝わるのと同時に、ガレの放った衝撃波がタロの胸部を直撃し、数本の肋骨を粉砕した。
激しい衝撃波によって、二人の体は大きく弾け飛んだ。
断崖の上には、土煙と、荒い呼吸の音だけが残る。
タロは地面に膝をつき、口角から鮮血を流しながらも、不気味な冷笑を崩していなかった。
「……ハッ、最高戦力のお前がどこにいても無駄だ、と言ったか。確かに、あんたの周囲の風は恐ろしい。だが、その風が吹き荒れ、砂塵が舞うほど、俺が潜む『死角』は濃くなる。あんたは自分で自分の首を絞めているんだよ、ガレ」
対するガレも、貫かれた肩からドクドクと血を滴らせ、蒼白な顔で立ち上がった。
痛みによる思考の鈍りは最小限。彼はすでに、返り血の飛び散る角度から、タロの次の生存可能領域を算出し終えている。
「……予報を修正する。お前の隠密は完璧だが、俺の支配領域(空)からは、蟻一匹逃げ出すことはできない」
ガレが杖を構え直す。その先端には、先ほどまでの冷気を超える、暴力的なまでの電気エネルギーが収束し始めていた。
雲一つない夜空に、青白い放電現象が走る。
「次の1分間、お前の生存確率は……ゼロだ」
『絶滅の雷鳴』。
数億ボルトの雷が、対象を分子レベルで蒸発させるために解き放たれようとしていた。
東部の崖の上、月明かりさえも届かない暗闇の中で、影の王と空の支配者。
二人のアサシンの命を懸けた、終わりの見えない「チェスゲーム」は、さらなる局面へと突き進んでいく。




