羽音-不吉な残滓
爆発の余波が、東部の朝を重苦しい灰色に染めていた。
昨夜の惨劇により、『蒼天の凪』の隠れ家であったアジトの正門は無残に崩落し、周囲には焦げた魔導爆薬の異臭が立ち込めている。それは平穏な街の朝には似つかわしくない、死の匂いだった。
アジトの内部では、一睡もせずに調査を続けていたアルスが、プリズムの光をかざしながら瓦礫の隙間を慎重に覗き込んでいた。彼女の異名『幻光の審判』が示す通り、その瞳は残留する魔力の「色」を詳細に視覚化する。
「……リーダー。昨夜、自爆した男の残滓を解析しました。やっぱり、ただのヤク中や狂人の類じゃありませんよ」
アルスが慎重に拾い上げたのは、爆心地で高熱に焼かれながらも、その不気味な形を留めている、奇妙に白い「骨の破片」だった。それは人間の骨を加工した暗器の一部であり、表面には見る者の精神を逆撫でするような蝶の翅を模した彫刻が施されている。
「この魔力反応……内側から生命力を強制的に燃焼させて、爆発の威力に変換させてる。術式というよりは、呪いに近い。こんな残酷な真似、南の大陸でもあそこくらいしか使いません」
ガレはアルスの報告を無表情に聞きながら、手元の海図に無慈悲なバツ印を書き込んだ。
「……『骸蝶の軍勢』か」
その名は、アサシン業界においても一種の「禁忌」として扱われている。かつては弱者を救う正義を標榜していたが、今は国家そのものを解体し、己が神として新世界を再構築しようとする狂信的な軍事組織だ。
「数日後に拠点を移転するぞ。ここはもう、第三者に完全に把握されている。……『飼い主』などと自称する女どもの動向はどうでもいい。だが、この街を『灰』にしようとする奴らが現れた以上、この場所は防衛には適さない」
ガレの言葉には、常に通りの冷徹な計算が宿っていた。しかし、その計算を根底から覆すような「ノイズ」が、彼の懐で激しく震え始めた。
ガレの個人用通信石――特定の「観測者」とだけ繋がるそれは、持ち主の動揺を映し出すように不規則な明滅を繰り返している。ガレが通信を繋いだ瞬間、耳をつんざくような怒鳴り声が飛び込んできた。
『ガレ! 聞こえるか、ガレ!! 今すぐそこを離れろ! いや、準備を整えろ!』
声の主は、街の外れで移動天文台を営む占星術師、ロキだった。普段はアイリスやルンといった強大な力を持つ女性たちの動向を星の動きから読み解き、のらりくらりと危機を回避する食えない老人だが、今の彼の声には、かつてない悲鳴に近い切迫感が混じっていた。
「……落ち着け、ロキ。星の並びでも狂ったか?」
『狂ったのは世界の方だ! ガレ、この街に……東部に『骸蝶の軍勢』が来る! いや、もう既に入り込んでいるんだ! 昨日の爆破はその「前菜」に過ぎん!』
ロキがこれほどまでに狼狽するのは、大陸全土を焼き尽くさんとしたかつての大戦以来のことだった。
「骸蝶の軍勢……リュカか。奴がついに動いたというのか」
『星が消えているんだよ! 奴が通る道の星が、すべて漆黒に塗り潰されている! 近年、奴が東部に新世界を開く計画をしているという不確かな情報があったが、それはデマじゃなかった! 奴は本気で、この東部の均衡を……「蒼天の凪」も「紫電の檻」もろとも、一度「無」に還そうとしている!』
ガレは窓の外を見た。そこには、自分たちが裏側から守ってきた穏やかな街並みが広がっている。だが、ロキの予報は、ガレの気象計算よりも遥かに残酷な「運命の的中率」を誇るのだ。
「……リュカ。救済とは徹底した管理と破壊の先にあると宣う、断罪の魔戦士か」
かつては希望を説いた英雄が、とある事件の絶望の果てに、500人の精鋭を率いる「死神」へと変貌した。その圧倒的な軍事力と、因果さえ断ち切るリュカの大鎌の前に、果たして自分たちの計算がどこまで通用するのか。ガレの脳内で、生存率の計算が急速に下方修正されていく。
『飼い主どころじゃないぞ!この町も終わる!気をつけろ!』
その言葉を最後にロキとの通話が切れた後、アジトには重苦しい沈黙が降りた。
ネボ、シュバ、ネーヴといった『蒼天の凪』の精鋭たちも、通信の内容を察して集まってくる。
「リーダー。骸蝶の軍勢が相手となると、これまでの小競り合いとは次元が違いますよ」
灯台守のネボが、いつになく真剣な表情で煙管を握り直す。
「奴らは500人の部下の魔力をリンクさせ、リュカ一人の力に変換する戦法を取る。個人の技量でどうにかなる相手じゃねえ。オイラの霧だって、奴らの『鱗粉』に触れれば一瞬で灰にされる」
「……あいつらが狙っているのは、俺たちアサシン同士の共倒れだ」
ガレは、昨日のグリとの衝突を思い出した。自分たちの不信感を煽り、内側から瓦解させる。それはリュカがかつて「裏切られた」経験から学んだ、最も効率的で残酷な常套手段である。
「ロキがこれだけ騒ぐってことは、リュカの側近……スカやフェム、あの狂った特攻担当のウルたちも揃っている可能性が高いな。……シュバ、傷の具合はどうだ」
「……ああ、ビオのワイヤーより、あの自爆野郎の熱の方がきつかったぜ。だが、動ける。兄貴、やらせてくれ。俺たちの街を、あんなキチガイどもの実験場にさせるわけにはいかねえ」
シュバは煤けた雨具を脱ぎ捨て、予備の多弾頭針『時雨』を装備し直した。その瞳には、かつてガレに救われた恩義と、この街で「まっとうな職人」として生きる決意が宿っている。
ガレは、アジトの地図を指でなぞり、ある一点で止めた。
「……計算を変更する。これより、蒼天の凪は全戦力を持って『骸蝶の軍勢』を迎え撃つ。だが、我々だけでは絶対的な数が足りない」
ガレの視線は、地図上のライバル組織『紫電の檻』の本拠地へと向けられていた。プライドも、昨日の激しい口論も、今は二の次だ。東部が灰になるか、それとも生き残るか。その巨大な天秤の分岐点に、彼らは立たされていた。
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爆発から一夜明けた東部の街は、死に体の沈黙に包まれていた。
しかし、その静寂は平和の訪れではない。巨大な嵐が上陸する直前の、酸素が希薄になったような不気味な圧迫感――それは、この街の「終焉」を予報する前触れだった。
自警団『紫電の檻』の本拠地。執務室の窓からは、昨夜の爆発で黒く焦げた『蒼天の凪』のアジトが遠目に見える。
団長・グリは、包帯を巻いた腕を組み、苦虫を噛み潰したような表情で通信石を見つめていた。仲間のビオが負傷し、誇りを傷つけられた怒りは、いまだ沸点を超えたままだ。
不規則に明滅する通信石に対し、グリは叩きつけるように応答した。
「……なんだ、ガレ。話しかけるなと言ったはずだ。ビオを傷つけておいて、今更『仲直り』なんて寝言が通用すると思うなよ」
通信石の向こう側、ガレの声はいつになく低く、そして氷のように冷たかった。
『……うちのバカが仕でかしたことは、後でいくらでもケツを拭いてやる。だが、感情を優先させるのは後にしろ。東部は今、明日の朝日を拝めるかどうかの瀬戸際にある。……衝撃の事実が発覚した。アルスのプリズム解析の結果だ』
ガレの異様な真剣さに、グリの眉がぴくりと動く。
『爆発の火種になったあの自爆犯の体内から、「骨の埋め込み暗器」が見つかった。……ただの薬物中毒者の暴走じゃねえ。あれは、奴自身が爆弾として設計された「強化兵」だ。そして、その術式の紋章は……』
「……まさか」
『「骸蝶の軍勢」。リュカの飼い犬共だ』
グリの背筋を、冷たい刃がなぞるような戦慄が走った。
かつて正義を説いた英雄リュカが、絶望の果てに築き上げた狂信的な魔戦士集団。既存の国家を「守る価値のないゴミ」と断じ、14万以上の命を刈り取った「断罪の魔戦士」の影が、この東部に差している。
『さらに、観測者のロキから緊急通信があった。……星の動き、魔力の潮流、すべてが最悪の予報を告げている。骸蝶の主力部隊500人が、すでに東部への侵攻を開始した』
「500人だと!? 冗談じゃねえ! そんな大軍が動いていて、なぜあんたの網に引っかからなかった!」
グリの怒号が壁を震わせた。だが、ガレは悔しげに吐き捨てた。
『……奴らには特攻参謀フェムがついている。元騎士団長の指揮能力と隠密進軍術……気象の死角、魔力の空白地帯、そして俺の思考パターンまでもが読み解かれていた。昨日の俺とお前の衝突さえも、奴らが描いた「撒き餌」だったってわけだ』
通信石を握るグリの拳が、白くなるほどに震え始めた。
「ロショ! アマ! ウバ! ほかの奴らも全員集まれ!」
グリの剛毅な咆哮に、本拠地内にいたメンバーたちが即座に集結した。
染物師のロショは鋭い眼光を放ち、宝石商のアマは苛立たしげにアメジストを弄ぶ。
「グリ、ガレの野郎と何を話してたんだ? まさか、昨日の今日で手を組むなんて言わねえだろうな」
ロショが不審げに問うが、グリの表情はそれを許さないほど深刻だった。
「私怨を言っている場合じゃない。昨日の爆破犯は『骸蝶の軍勢』の工作員だ。奴らの主力500人が、この街を灰にするために動き出した」
その瞬間、室内の空気が凍りついた。30名規模の自警団に対し、相手は10倍以上の軍勢。それも、死を恐れぬ洗脳を施された暗殺のプロたちだ。
「……新世界だか何だか知らねえが、果実が熟す前に根っこから引き抜こうってんなら、その頭をぶっ飛ばすまでです」
果実商のウバが、巨大な鉄球大鎚『紫房』を床に叩きつけた。
「……みんな溶かしてやるよ。骸蝶だか何だか知らんが、紫の液に浸かれば、どんな美しい翅も二度と動かなくなる」
ロショの周囲からドロリとした紫の魔液が浸み出し、床を腐食させていく。その殺気は、昨日ガレのアジトへ向かった時よりも遥かに深く、冷たい。
「アマ、お前は街の防衛ラインを固めろ。住民には『演習』だと伝えて地下へ誘導しろ。パニックは奴らの餌になる。……ウバ、ロショ。お前たちは俺と共にガレの合流地点へ向かう。癪だが、空からの情報はあいつらに頼るしかねえ。……行くぞ、野郎ども! 東部の火は、一分一秒たりとも消させはしない!」
グリの号令と共に、紫のオーラが本拠地全体を包み込み、街の夜を威圧するように膨れ上がる。
だが、その活気溢れる叫びを嘲笑うかのように、街の外縁部では無数の「黒い蝶」が音もなく羽ばたき始めていた。
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骸蝶の軍勢、特攻参謀フェムの指揮の下、500人の暗殺者が影から滲み出す。
彼らは知っていた。この街を守ろうとする者たちの「正義」が、いかに脆く、そして美しい絶望に変わるかを。
その頃、東部を包囲するようにそびえる山脈の頂。
月光を不気味に反射する巨大な大鎌『冥蝶』を背負い、一人の男が眼下の街を見下ろしていた。
「……美しい。死の色に染まる前の、最後の輝きだ」
リュカは、優雅な所作で自身の魔導甲冑『翅の衣』の襟を整えた。
彼の背後には、微動だにせず、呼吸音さえ一つに重なる500人の洗脳兵士たち。そしてスカ、セキ、タロといった、彼がかつて正義だった頃から付き従う、盲信的な魔戦士たちが影のように並んでいる。
「スカ。準備はいいか」
「……御意。リュカ、お前の望む新世界の礎として、この街の『旧き正義』をすべて刈り取ろう。それが我々の、唯一の救済だ」
リュカは静かに微笑んだ。その瞳には、かつて愛した民衆に裏切られ、絶望の果てに辿り着いた「無」の静寂が、どこまでも深く宿っていた。彼にとって、この街を滅ぼすことは破壊ではなく、苦しみからの解放――すなわち慈悲なのだ。
「始めよう。……愚かなアサシンたちが、自分たちの死ぬ場所を巡って争っている間に。東部のすべてを、私の『管理』の下へ」
リュカが指を鳴らす。
次の瞬間、空を覆わんばかりの無数に煌めく黒い蝶が、触れるものすべてを灰へと変える鱗粉を撒き散らしながら、静かに、そして確実に街へと舞い降りていった。
東部大戦の幕が、今、残酷に切り落とされた。




