炎上-紫の檻を穿つ「計算外」の爆炎
東部の街に夕闇が迫る頃、街の空気はいつも以上に重苦しく淀んでいた。
海からの湿った風が断崖にぶつかり、高台にある気象観測所の風見鶏を力なく揺らしている。街の賑わいは最高潮に達し、家路を急ぐ馬車の轍の音や、夕餉の準備を始める家庭の笑い声が、平和な日常を奏でていた。
その日常を守る自警団『紫電の檻』の本拠地。その屋上で、一人の男が立ち尽くしていた。
グリ。かつては数多の戦場を渡り歩いた伝説的な傭兵であり、現在はその腕を街の平和のために振るう「ヒーロー」だ。彼は、手にしたばかりの新人教育用の資料を軽く叩きながら、空を仰いだ。
「……後輩の奴らには、ナイフの対処法をもう一度叩き込んでやらねばならんな。付け焼刃の技術では、この街の平和は維持できん」
グリは本拠地で、微かな「音」の違和感に眉をひそめていた。
(……風の通りが悪い。いや、何かが大気の振動を阻害しているのか?)
グリの超感覚は、1mm単位で空間の揺らぎを感知する。だが、その違和感の正体を掴む前に、東部の静寂は「物理的な暴力」によって粉砕された。
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街の北西、蒼天の凪が「完璧な平和」を予報していたはずの区画。
その一角にある重要物流倉庫の屋上で、一人の男が歪な笑みを浮かべていた。骸蝶の軍勢の特攻担当、ウルである。
「ヒャハッ! 気象予報士の兄ちゃんよぉ、あんたの『神の目』も随分と曇ったもんだな!」
ウルの両腕からは、改造された骨の刃が突き出し、夕日に血のような赤色を反射させていた。彼の足元には、骸蝶の軍勢の参謀フェムから授けられた特殊な熱源遮断術式が施された爆薬が設置されている。
「ガレのやることはお見通しなんだよ。あのアホは空ばっかり見てるから、地面を這いずる俺たちの足音に気づかねえ。フェムから聞いた通り、この位置なら気流の死角になって、観測計の針一つ動かさねえで『掃除』ができるってわけだ」
ウルは、トゲイモリを愛でるような手つきで爆破スイッチの魔力回路を撫でた。
ガレ率いる『蒼天の凪』の観測網は、確かに鉄壁だ。だが、それはあくまで「自然現象」と「広域の魔力変動」を前提としたもの。ウルのような、自身の骨を削り、局所的に魔力を封じ込める変態的な隠密工作までは、ガレの計算式には組み込まれていなかった。
「新世界の神様がお望みだ。まずはこの街の『安全』という幻想を、木っ端微塵にしてやるぜ!」
ウルが指先に力を込めた瞬間。
――ズ、ドォォォォォォォォン!!
轟音と共に、巨大な火柱が東部の空を貫いた。
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街の中心街にある花屋『紫蕾』。
店主のビオは、なじみの客に贈るためのスミレを整えていた。彼の指先は、見えないほどの極細ワイヤーを操る『極みの葬送』のそれだが、今は優しく花弁に触れている。
だが、窓ガラスを震わせる衝撃波と、それに続く爆鳴が、彼の薄ら笑いを一瞬で消し飛ばした。
「ぎゃあ!爆発だぁ」
「逃げろ! 燃えてるぞ!」
パニックに陥った住民たちの悲鳴が、爆鳴に続いて街を埋め尽くした。
ビオは、床に散らばったスミレの残骸を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。その顔には、いつもの掴みどころのない「薄ら笑い」が張り付いている。だが、その瞳に宿る光は、すでに店主のものではなかった。
「……んん、なんだあれぇ?」
ビオが店の外へ飛び出すと、北西の空が不気味なオレンジ色に染まっていた。黒煙が「蝶」の羽のように広がり、街の平穏を食いつぶしていく。
「火災……いや、爆発だねぇ。ガレの野郎、今日は『快晴』だって予報してやがったはずだが……計算違いかぁ?」
ビオの瞳から「表の顔」が消え、暗殺者の冷徹な光が宿る。彼は腰の針金細工に手をかけ、即座に通信石を取り出した。
「グリさんに連絡だぁ……グリさん、聞こえますかぁ? ええ、私です。街の北西区画が派手に咲きましたよ。……ええ、あのアホ面の気象予報士たちは、まだ寝ているようです」
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その頃、自警団の本拠地。
グリは通信石から響くビオの焦燥に満ちた声を聞き、腰のベルト――多節剛鞭『紫垂れ』のロックを外した。
「なんだビオか? 俺に連絡するということはよほどのことか……と思っていたが、この振動、通信を聞くまでもねえ。本拠地の地脈まで揺れてやがる」
グリの声は、怒りと冷静さが同居した低い響きを持っていた。
「状況を報告しろ。蒼天の凪の連中はどう動いている?」
『それが……あいつら、まだ気付いてねえみたいなんです! 観測網が死んでいるのか、現場には魔力の残滓すら残っていない。……プロの仕業ですよぉ、これは』
「誰の仕業かわからないだと? 俺たちの庭で、このグリの目の前で、そんな真似ができる奴がこの大陸にそう何人もいてたまるかよ……」
グリは奥歯を噛み締めた。
街の住人を家族と呼び、その灯火を守ることに執着する彼にとって、この爆発は自分の家族の喉元に刃を突きつけられたも同義だった。
「アマ! ウバ! ロショ! 出るぞ!」
グリの怒号に呼応し、自警団の精鋭たちが集結する。
宝石商のアマが、結晶化した紫のアメジストを弄りながら不敵に笑う。
「旦那、ようやく出番ですね。平和すぎてルビーの輝きが鈍るところでしたよ」
「アマ! 軽口を叩いている暇はねえ。お前は住民を避難させろ! 爆発は連鎖する可能性がある。結晶壁で建物を補強し、火を封じ込めろ!」
「へいへい、旦那。……美学のない爆破野郎どもに、結晶の硬さを教えてやりますよ」
アマが風のように走り出す。続いて、巨漢のウバが鉄球大鎚『紫房』を地面に叩きつけ、重力の波動を広げた。
「グリさん。ベスパの連中が攻めてきたのか? それともマンティの残党か?」
「……わからん。だが、これほどの工作をやってのける奴らだ。ただのゴロツキじゃねえ。……ロショ、お前は影から潜入しろ。犯人の『足跡』を見つけろ。見つけ次第、骨まで紫に染めて動けなくしてやれ」
「了解だ、グリ。……ネーヴの叔父として、この街の恥辱は許せんからな」
染物師を表の顔に持つ、ロショが紫の魔液を影に走らせ、闇に消えていく。
グリは本拠地の屋上に立ち、燃え上がる街を見つめた。
空を見れば、ヌヴが操る気球が慌てて現場に急行しているのが見える。だが、遅すぎる。ガレの誇る「神の目」は、完全に後手に回っていた。
「……ガレ。あんたは『空の色がおかしい』なんて言ってたらしいが、現実は地面から火が噴いてやがるぞ」
グリの手に握られた通信石。
その接続先は、蒼天の凪のリーダー、ガレに設定されていた。
グリの脳裏には、今は目の前の惨劇がすべてだった。
骸蝶の軍勢が仕掛けた「自滅のシナリオ」。
タロが予言した通り、グリの心には、街を守れなかった「予報士」に対する激しい憤り――「裏切り」にも似た感情が芽生え始めていた。
「(あいつが情報を流したのか? それとも、ただ無能だっただけか?……どちらにせよ、この落とし前はつけてもらう)」
グリの体から、紫色の雷光がパチパチと放電を始める。
それは、かつて一国の騎士団を「首吊りの森」に変えた死神の魔力。
「ビオ、住民の避難が終わったら、檻を張れ。この街のネズミを一匹も逃がすな。……そして、あの『蒼天の凪』の連中をここに呼び出せ」
「了解です、グリさん。ふふ……。私のワイヤーにかかれば、逃げる前に細切れのパズルになりますからぁ」
グリの目は、すでに犯人だけでなく、その原因を作った「空しか見ない隣人」へと向けられていた。
東部戦争。
その幕開けを告げる爆炎は、ウルの狙い通り、街を二分する二つの巨大組織の間に、消えない不信の楔を打ち込んでいた。




