蒼天-完璧な予報、迫る異変
東部の空は、今日も「蒼天の凪」が予報した通りの、一切の濁りを含まない、数式通りに澄み渡った秋晴れだった。
街の喧騒から少し離れた高台にある、一見するとただの気象観測所。そこが、南の大陸でも屈指の実力を誇るアサシンチーム『蒼天の凪』のアジトである。リーダーのガレは、精密な真鍮製の観測機器が並ぶ部屋で、数枚の気圧配置図を広げていた。
ガレの目に映る風景は、海流と断崖絶壁。この東部の町は、かつての冥静戦争の影響が唯一届いていないエリアでもあった。
「……ふむ。等圧線の乱れはない。湿度、風速、熱源反応。すべてが計算の範囲内だ」
ガレはぶっきらぼうに呟き、手元の通信石を指先で叩いた。彼にとって、世界は数式と気流の組み合わせでできている。その計算が狂わないことこそが、彼が最も重視する「平穏」の定義だった。
「ヌヴ、気球から見た風景はどうだ。上層気流に淀みはないか?」
通信石から、風の唸り声と共にヌヴの声が返ってきた。彼は表の顔として気球乗りを装い、高度数千メートルから街全体の「異常」を監視する広域偵察を担っている。ヌヴの目に映る光景は冥静戦争の凄惨な跡地と南の大陸の自然に囲まれた風景。
「リーダー。ちょうどよかった。今は乗客がいない、乗客がいたら怪しまれるところでした。……ええ、空はいたって平和ですよ。気圧配置のズレはコンマ単位でも検知できません」
ヌヴの声には、どこか安堵の色が混じっていた。彼は自身の肉体を霧のように希薄化させる『断層の審判』。その能力で気球のゴンドラから身を乗り出し、文字通り「空の目」となって地上のすべてを俯瞰している。
「リーダー。冥静戦争は本当に仕事に影響が出てましたよ。あの戦争は俺も参戦をしようか迷ってました。南の空があれほど禍々しい赤に染まったのは、生まれて初めてでしたからね。あそこで何が起きていたのか……正直、気象予報士のあんたでも説明がつかない『嵐』だったんじゃないですか?」
ガレは椅子に深く背を預け、愛用している気象観測杖を壁に立てかけた。
「……冥府の羽音と静寂の捕食者。あの二つの巨大組織が正面衝突すれば、気圧どころか因果律まで歪む。俺の計算でも、あの戦争が長引けばこの東部にも壊滅的な熱波が届くはずだった。だが……」
ガレはふと、窓の外を流れる穏やかな川の音に耳を澄ませた。
「なぜか『嵐』は一瞬で凪いだ。あの大陸の癌細胞どもが、跡形もなく消え失せた。理由はどうあれ、俺たちの観測網に影響が出なくなったのは歓迎すべきことだ。……予定外の変数は、予報の邪魔にしかならんからな」
そこへ、アジトの重い扉が開き、鮮やかな空色の髪を揺らしたアルスが顔を出した。彼女はプリズム研磨師としての仕事を終えたばかりなのか、その指先には細かな光の粉が微かに残っている。
「リーダー、お疲れさまです! 今日の東部は最高のお洗濯日和ですね。街の女の子たちもみんな浮き足立ってますよ」
「……アルスか。お前は少しは危機感を持て。平和な時ほど、光の屈折は予期せぬ影を作るものだ」
「もー、リーダーは相変わらず堅苦しいんだから! あ、そうだ。ネーヴ、例の件はどうなったの?」
アルスの問いに、部屋の隅で氷の彫刻を弄んでいたネーヴが静かに顔を上げた。彼はガレの右腕的存在であり、絶対零度の冷気を操る『白銀の審判』。
「アルス、麻薬組織の粛清の依頼が入った。南の港から流れてきた汚物どもだ。街の裏通りで、子供たちにまで手を出し始めているらしい」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の温度がスッと下がった。それはネーヴの魔力ではなく、アジトの入り口で雨具の修繕をしていたシュバから放たれた殺気だった。
「ネーヴ、その件は俺一人で十分だ。お前らは情報攪乱に回れ」
シュバは、愛用の多弾頭針『時雨』を懐に収め、低く唸るような声で続けた。
「俺の嫌いなゴロツキどもの仕業だ。とある婆さんがそいつらのせいで家族を亡くしたらしい。……俺がガレの兄貴に拾われる前にいたような、救いようのないクズどもだ。雨具職人の仕事のついでに、そいつらの体に風穴を開けて、綺麗な『慈雨』を降らせてやるよ」
「シュバ、深追いはするな。俺の予報では、その粛清は3分以内に終わるはずだ。それを超えるようなら、俺が直接『雷鳴』を落とす」
ガレのぶっきらぼうな、だが信頼の籠もった言葉に、シュバはニッと不敵な笑みを浮かべた。
「分かってるよ、兄貴。あんたの予報を外すようなヘマはしねえ」
シュバがアジトを飛び出していくのを見送りながら、ガレは再び手元の資料に目を落とした。
資料の隅には、彼が個人的に調査していた「ある噂」についてのメモが書かれている。
――『飼い主』。
南の大陸を揺るがした冥静戦争。その戦場に現れ、最強の怪物たちを「ペット」へと作り変えて連れ去ったという、正体不明の女性たちの総称だ。
「(……やれやれ。冥府の羽音と静寂の捕食者の戦争に巻き込まれずに済んだ。ということは、俺たちも飼い主とかいう女どもからのお咎めはなしだな)」
ガレは内心で安堵していた。
自分たちは義賊だ。民を苦しめる暴君や汚職貴族を「浄化」し、街の調和を守るために刃を振るってきた。私欲のために国を転覆させようとしたベスパたちとは、存在の根源が違う。
「リーダー、どうかしたんですか? さっきから難しい顔して」
アルスが不思議そうに覗き込んでくる。
「……いや、何でもない。ただ、南で暴れていたあの『銀色の兄ちゃん(ルウ)』が、今はどこかの家庭で猫として飼われているという噂を思い出していただけだ。あの速度が、家庭の檻に収まるとは思えんがな……」
ガレは、かつて自分の計算(予報)を唯一超えてみせたルウのことを思い出し、自嘲気味に笑った。もしあの男が本当にペットになったのだとすれば、この世に不可能などないのかもしれない。
「(まあ、俺たちには関係のない話だ。俺はこの街の空を守り、予報通りに明日を呼ぶ。それだけが、俺の、そして『蒼天の凪』の使命だ)」
ガレの観測網――それは高度な計算と、ヌヴの広域偵察、ネボの灯台からの監視、そしてガレ自身の『天変の瞳』によって構成された、文字通り鉄壁の防衛システムである。東部の空を舞う一羽の鳥の羽ばたきですら、彼の計算からは逃れられない。そのはずだった。
「……リーダー、一つ報告が」
通信石から、今度は灯台守をしているネボの声が入る。
「なんだ、ネボ。霧の発生予報なら、夜の21時からだと言ったはずだぞ」
「いえ、そうじゃねえんです。……先ほどから、街の川べりの一帯だけ、僕の『五里霧』が上手く浸透しないというか、何かに『吸い取られている』ような感覚があるんです。……まるで、誰かがそこだけ世界を書き換えているような……」
ガレは眉をひそめた。
「吸い取られている? 熱源の異常か? あるいは地形による気流の乱れか?」
「いえ、数値には出ないんです。ただの……気のせいかもしれません。アイリスとかいう有名な教育者の女性が来ているらしくて、その影響で街が浮ついてるだけかも」
「アイリス……。ああ、あの保育士の女か?サリックスという洗濯屋の知り合いだったな。ただの無害な一般人だ。気にするな」
ガレは通信を切った。
超天才である彼の脳内にある戦術シミュレーションは、「蒼天の凪」が敗北する確率を0.0001%と弾き出している。
南の巨悪たちが消え、街の秩序は保たれ、自分たちは表の仕事で市民に信頼されている。
完璧だ。計算通りだ。
ガレは、窓から見える東部の平和な街並みを眺めた。
だが、彼の『天変の瞳』は、ある異変を捉えきれていなかった。
街の境界線、そのさらに外側の山脈の影に、500羽もの「蝶」が潜んでいることを。
そして、それらの蝶が、ガレの最も嫌う「計算外の熱源(爆薬)」を抱えて、静かに羽ばたきを始めていることを。
「……明日の予報は、今日以上の快晴だ。異変など、起きるはずがない」
ガレが断言した瞬間、精密機械の真鍮が微かな悲鳴を上げた。
それは、ガレの計算が最も嫌う「不確定要素」――500羽の蝶が撒き散らす、血の色の雨予報だった。




