調律師-保育士と洗濯屋
川のせせらぎ、村の空気。
東部の街に吹く風は、僕たちがいた南の激戦区に比べれば、どこまでも穏やかで、毒気のないものだった。だが、カゴの中から見上げる空の青さが、かえって僕の神経を逆撫でする。
アイリス姉さんの出張に同行し、白いマンチカンの僕と黒ウサギにされたヌーベは、この新しい街の土を踏んだ。しかし、今回の「お供」は僕たちだけではない。
「……ふわぁ、ここが東部の街か。いい風が吹いてやがるな」
呑気なあくびを漏らしながら、僕たちの横を歩くのは、白爪の元メンバーであり、「最悪の濁流」の異名を持つ大男、ライだった。194cmという巨躯、かつては巨大な白鉄槌で一軍を肉塊に変えた破壊の権化だ。今はエプロンを締め、アイリス姉さんの孤児院スタッフとして「更生中」の身だが、その筋肉の密度と殺気は、一般人のそれとは明らかに一線を画している。
「(……ライ。お前、少しは緊張感を持てよ。俺たちが今、どんな立場でここにいるか分かっているのか?)」
ヌーベはカゴの隙間から、念話でライに鋭いツッコミを入れる。
「(おう、ヌーベ。分かってるって。アイリスさんの荷物持ちだろ? それにしても、リーダーに続いてヌーベもか、その姿……マジで笑えるな。同期の参謀が、今や手のひらサイズのウサギかよ)」
ライが屈み込み、カゴの中のヌーベを指で突っつこうとする。ヌーベは器用にその指を避け、鼻をヒクつかせながら冷淡な声を返した。
「(ライ、お前もアイリスさんのところに来たか。呆れたものだな。いいか、俺たちの表の仕事は今じゃあクビなんだ。ここにいる三人は、世間から見れば全員が殺人犯であり、社会の汚点。更生という名のおままごとに付き合わされているだけだということを忘れるな)」
ヌーベの言葉には、相変わらず鋭い刃のような響きがあった。だが、その声も今はウサギの可愛らしい鳴き声として、アイリス姉さんの耳には届いているはずだ。
「さあ、みんな。目的地に着いたわよ。今日は私の古いお友達に会いに来たの」
アイリス姉さんが足を止めたのは、透き通った川が街を貫く、美しい堤防の近くだった。そこには、数枚の真っ白な布が風に踊り、心地よい石鹸の香りが漂っている。
そこで、一人の女性が鼻歌を歌いながら、川べりで洗濯物を洗っていた。
「あら、アイリスさん。いらっしゃい」
顔を上げた女性は、驚くほど華奢で、儚げな印象を抱かせる人だった。風が吹けばふわりと飛んでいってしまいそうなほど細い手足。だが、彼女が洗濯板に布を叩きつける「トントン」という音を聞いた瞬間、僕の全身の毛が逆立った。
「(なっ……!? なんだ、この気配は……!)」
僕はカゴの中で思わず身を固くした。
この感覚には覚えがある。アイリス姉さんが「レッド・アイ・ドミナンス」を発動させた時の、あの逃げ場のない圧倒的な「格」のプレッシャー。あるいは、特別執行官のルンさんが放つ、鋼のような重圧。
目の前の、ただの「洗濯屋」に見える女性――サリックスから放たれているのは、それらと同質、あるいはそれ以上に異質な「静謐な狂気」だった。
「(ルウさん、気づいたか……? あの女、ただ者じゃないぞ)」
ヌーベの声が震えている。幻術の達人である彼ですら、サリックスの存在感に圧倒されているようだった。
「(ああ……。悪意はないようだがアイリス姉さんやルンさんと同じ気配だ。いや、もっと『調律』されたような……不純物のない透明な恐怖だ。こんなところにも、アイリス姉さん級の『飼い主』がいたなんて……信じられない)」
サリックスは、僕たちの戦慄などどこ吹く風で、濡れた布を絞り、優雅な所作で干し始めた。
「(あの女……さっきから僕たちを見る目が、ただの動物を愛でる目じゃない。まるで、これから新しく迎える『ペット候補』を品定めしているような眼だぞ……)」
ヌーベの言葉に、僕はさらに背筋を凍らせた。
「(もしかして……ストーキングか? 僕たちの正体を見抜いた上で、次のコレクションに加えようとしているのか?)」
「(……あり得る。アイリスさんの知り合いなら、その可能性は極めて高い)」
そんな僕たちのパニックをよそに、ライは大きな体を揺らしながら、サリックスの干す布を眺めていた。彼はまだ、この場の異常性に完全には気づいていないようだった。
「(ライ。お前、冥静戦争の結末を知っているか?)」
ヌーベが、少しでも警戒心を高めようとライに問いかける。
「(あ? 戦争の結末? 聞いてねえよ。俺はあの時、別の仕事で離れてたからな。あの大陸を二分したベスパとマンティだろ? 派手にぶつかって共倒れにでもなったのか?)」
「(全然違う。ルウさんから聞いた話だと、俺が寝ている間にアイリスさんは奴らのすさまじい戦いに割って入ってお説教を始めた。常人があんな猛烈すぎる戦いに割って入れば普通に死ぬ。奴らは今はプードルとシャム猫に成り果てて、どこかの家庭で日向ぼっこをしているそうだ)」
ヌーベの暴露に、ライの動きがピタリと止まった。
「(……は? ベスパが……あの破壊の権化がプードル? マンティがシャム猫? 冗談はやめろよ、ヌーベ。あいつらは一晩で国を灰にするテロ組織の連中だぞ!)」
「(事実だ。そして、目の前にいるその女性を見てみろ。彼女がもし、ベスパたちの末路に関与した者たちと同類の存在だとしたら……。ライ、お前が次に何に変えられるか、想像に難くないだろう?)」
ライの大きな背中に、冷たい汗が流れるのが見えた。
サリックスが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
彼女の足取りは驚くほど軽く、足音が一切しない。それは、気配を消す暗殺者の技術ではなく、世界そのものと調和しているような不気味な「正解」の歩法だった。
「あら、可愛らしい。アイリスさん、この子たちは?」
「私の自慢の家族よ。こっちの白い子がルウくん、ウサギさんがヌーベくん。そして、この大きな方がライさんよ。私の孤児院を手伝ってくれているの」
サリックスの視線が、僕とヌーベ、そしてライを順番に「スキャン」していく。
その瞳は、深緑の森のように穏やかだが、その奥底では、僕たちの魂の波長を冷静に聞き分けているようだった。
「……ふふ。賑やかでいいわね。でも、少し『音』が乱れているわ。東部の風は、お行儀の悪い子を嫌うのよ?」
彼女の言葉と共に、川面を渡る風が一瞬だけ止まった。
いや、止まったのではない。サリックスの意志によって、大気の振動が完全に「静寂」へと上書きされたのだ。
「ライさん? 何か気になりますか? 私の顔に、何か付いているかしら?」
サリックスが、上目遣いにライを見上げる。
かつて巨大な鉄槌で数多の強者を葬ってきたライが、わずか157cmの小柄な女性を前に、石像のように固まっている。
「い……いえ。なんでもねえです。ただ、いい匂いがするなと思って……。石鹸の、いい匂いが……」
ライの声が、情けないほど上ずっていた。本来の彼は目の前の女性におびえるほど何事にも動じない彼が動揺をし始めている。その振動は僕のひげに伝わっていた。
「そう? 嬉しいわ。汚れはね、放っておくと落ちなくなるの。早いうちに、綺麗に洗ってあげないと。ねえ、アイリスさん?」
「ええ、本当にそうね。サリックスさんの洗濯術には、いつも感服するわ。どんな頑固な汚れ(罪)も、真っ白になってしまうんですもの」
二人の女性が、おっとりと笑い合う。
その会話の内容が、僕たちに向けられた「宣告」のように聞こえて、僕は思わずカゴの奥で丸くなった。
この東部の街にも、逃げ場はなかったのだ。
南の大陸でベスパやマンティが辿った「断罪」の連鎖。それが今、この美しい川べりから、新たなターゲットを探し始めている。
「(ルウさん。まずいぞ。あの女……サリックスは、間違いなく僕たちのような『汚れ』を洗う機会を窺っている。彼女の視線、あれは新しいペットを欲しがっている蒐集家のそれだ)」
ヌーベの念話が、悲鳴に近い焦りを含んでいた。
「(分かっている。だが、今は大人しくしているしかない。ここで下手に抵抗すれば、その瞬間にアイリス姉さんとサリックスさんのダブル断罪が待っている。……ライ! お前も余計なことはするなよ!)」
「(分かってる、分かってるって……。けどよ、あの女の持ってる洗濯板……あれ、何でできてるんだ? 俺の鉄槌と同じくらいの硬度が、あの木片から感じられるんだが……)」
ライは、サリックスが何気なく置いた古びた洗濯板を見つめ、戦慄していた。
サリックスは再び川べりに戻り、楽しそうに布を洗い始めた。「トントン、トントン」というリズム。その音が響くたび、周囲の魔力濃度が浄化され、僕たちがかつて誇った暗殺者の「影」が、剥ぎ取られていくような錯覚に陥る。
「(……これが、東部の『飼い主』か。南のアイリス姉さんが『教育』なら、このサリックスという女は『調律』。世界のノイズを取り除き、自分好みの音色に変えていく……)」
僕は自分の白い前足を見つめた。
時速400kmで駆け抜けたあの脚。今は、アイリス姉さんに買ってもらった肉球クリームでツヤツヤになっている。
この街には、ガレやグリといった、444人リストに載る猛者たちがまだ「自由」を謳歌しているはずだ。だが、彼らはまだ知らない。自分たちが「お洗濯の順番待ち」をされているリストの筆頭であることを。
「さあ、ライさん。荷物を持って。サリックスさんの家でお茶をいただくわよ」
「は、はい! 喜んで!」
ライが、借りてきた猫……いや、僕以上の忠犬のような態度で荷物を担ぎ上げる。
サリックスは、川の流れを見つめながら、独り言のように呟いた。
「今日は、いい風が吹いているわ。……でも、少しだけ、湿った埃の匂いがする。……お洗濯しがいのある『大きな汚れ』が、近くまで来ているのかもしれないわね」
彼女がそう言って微笑んだ瞬間、川面を泳ぐ小魚たちが一斉に飛び跳ねた。
まるで、彼女の奏でる音色に、命そのものが強制的に同調させられているかのように。
東部戦争。
それが始まる前に、この街の「調律」はすでに始まっていたのだ。
僕たち白爪の生き残り、そしてこれから「骸蝶の軍勢」として襲来するであろうかつての同胞たち。
彼らがこの洗濯屋の女に出会った時、果たしてどのような「色」に染め上げられるのか。
僕は、カゴの中から見えるサリックスの華奢な背中に、終わりのない絶望と、逃れられない平和の予感を同時に感じていた。




