旅路-その静かなる余波
南の大陸に吹き荒れた狂嵐、「冥静戦争」が幕を閉じてから数日が経過した。かつてこの地を恐怖のどん底に叩き落とした二大巨悪、ベスパとマンティ。彼らが空中要塞アバドンの崩落と共に消え去ったことで、世界は偽りの、あるいは真実の「平和」を取り戻したかのように見えた。
だが、その実態はあまりにもシュールで、あまりにも残酷な「剪定」の結果だった。
僕――伝説の暗殺者、あるいは「最悪の終焉」と呼ばれたルウは今、その身を白銀の毛並みに包まれたマンチカンの姿に変えられている。かつて時速400kmで戦場を駆け抜け、数万の命を刈り取った双極・白狼剣の使い手は、今やアイリス姉さんの腕の中に収まる「可愛いペット」でしかない。
今日の僕は、陽だまりが落ちる孤児院の窓辺で、精巧に仕立てられたイチゴ柄のフリルドレスを着せられたまま、香箱座りを余儀なくされている。通りがかる者は誰もが、その愛くるしい姿を「天使のようだ」と称賛するだろう。初対面の相手ならば、僕がかつて死臭を纏った二十歳の男であったことなど、夢にも思うまい。
だが、僕がアイリス姉さんに、そして天に向けて訴えたいことはただ一つ。僕は断じて愛玩用のメス猫ではなく、一人の独立した男だということだ。しかし、喉を震わせて放たれる切実なテレパシーに対し、姉さんは慈愛に満ちた微笑みを崩さない。彼女にとって、僕の言葉は心地よい自然音に過ぎないのだ。
「ルウくん。今日もお疲れ様。ほら、おやつよ」
アイリス姉さんが柔らかな微笑みを浮かべ、僕の鼻先に猫用のおやつを差し出す。その透き通るような水色の瞳には、一点の曇りもない善意が宿っている。だが、僕は知っている。この瞳が鮮血のような赤に染まった時、そこには抗いようのない「絶対的な支配」が君臨することを。
「(……姉さん、おやつはありがたいけど、このフリフリのイチゴドレスはどうにかならないのか? 重いし、何より僕のプライドが音を立てて崩れているんだが……)」
僕の喉から漏れるのは「ニャー」という情けない鳴き声だけだ。隣では、黒ウサギに変えられたヌーベが、器用に後ろ足で耳をかいている。彼もまた、白爪の参謀として恐れられた「最悪の不可視」の面影など微塵もない。
「(ルウさん。今日も相変わらず女の子じゃないですか。そのドレス、先週よりフリルが増えてません?)」
ヌーベが念話で僕を揶揄してくる。こいつ、ウサギになったせいで余計に図太くなりやがって。ここで爪を立ててやりたい。
「シュー(ヌーベ、僕を女の子扱いするな! これはアイリス姉さんの……その、独特な愛情表現なんだよ。それよりも聞いてくれ、ヌーベ。実はこの前、街で見かけたんだ。カリスを)」
「(月下狂牙のリーダー、剣聖カリスですか? 彼女も確か、冥静戦争の終局に巻き込まれたはずじゃあ……)」
「(ああ。パピヨンにされていたよ。あの『美しき死神』が、大きな耳をパタパタさせて、ルピナの奏でるピアノに合わせて尻尾を振っていたんだ。せっかく共闘した仲だというのに、あの変わり果てた姿……。今の僕たちが言えた義理じゃないが、見ていて胸が締め付けられたよ)」
ヌーベは長い耳をピクリと動かし、深いため息をつくような仕草を見せた。
「(この南の大陸も、もうすぐおしまいなんじゃありませんかね……。二大組織のトップがプードルとシャム猫にされ、義賊のリーダーがパピヨン。ルウさんはマンチカン、俺はウサギ。世界を震撼させた『444人リスト』の猛者たちが、今やペットショップのラインナップみたいになっている)」
「(全くだ。僕の知っている限りでも、すでに48人が『断罪』という名のペット化を受けている。だが、まだ安心はできない。リストにはまだ300人以上が残っている。彼らがこの異様な現状を知れば、黙ってはいないだろう。たとえ、その報復の結末が『ゴールデンレトリバー』か何かだったとしてもだ……)」
僕たちは、アイリス姉さんの孤児院の庭で、そんな物騒な相談を「動物の姿」で繰り広げていた。
姉さんの優しい声が降ってくる。僕は一瞬だけ抵抗するように尻尾を振ったが、次の瞬間には、差し出されたマタタビに抗えず、「にゃうん」と甘えた声を漏らしてしまっていた。
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翌日、アイリス姉さんは仕事の用事で「東部の街」へ出張することになった。なぜか知らないが、僕とヌーベもカゴに入れられて同行させられる。これはもはや子ども扱いを通り越して赤ちゃん扱いだ。
東部の街は、南の大陸の中でも比較的治安が良いとされていた場所だ。活気に満ちた市場、穏やかな海風。しかし、僕の「狼王の眼」は、その平和の裏側に潜む微かな「鉄錆と血の匂い」を敏感に察知していた。
「アイリスさん。お久しぶりです」
出迎えたのは、灯台守のネボだった。彼は一見すると気のいい青年に見えるが、その正体は『蒼天の凪』の一員であり、444人リストに名を連ねる「迷宮の審判」だ。彼の持つ煙管から放たれる霧は、敵の精神を内側から破壊する。
「最近はここ周辺で悪党が多いという噂がありますんでね。噂によると、冥府の羽音(ベスパ派)の残党がいるとかいないとか。最近じゃあまた別のでかい組織がうじゃうじゃいるとも言います。アイリスさんも、あまり出歩かない方がいいですよ」
ネボは人当たりの良い笑みを浮かべて忠告する。だが、その目は鋭く、アイリス姉さんの背後を探るように動いていた。
「あら、ご丁寧にありがとうございます、ネボさん。でも大丈夫ですよ、私にはこの子たちがついていますから」
アイリス姉さんが僕の入ったカゴをポンポンと叩く。ネボの視線が、僕とヌーベに注がれた。僕とヌーベはアイリス姉さんに呼び出されたかのように顔を少しだけ外へと覗かせる。
「アイリスさん。このウサギと猫は、いつ飼われたんでしょうか?」
ネボが恐る恐る尋ねる。彼の直感が、僕たちから漏れ出る「隠しきれない異物感」に反応しているのだろう。
「この子たち? そうね、少し前から縁があって。最初はちょっと手のかかる『お困りさん』だったんだけど、今はこうして、私の大切なお手伝いさんをしてくれているの。ねえ、ルウくん、ヌーベくん?」
アイリス姉さんは、僕たちがかつて世界を滅ぼしかねない暗殺者だったことなど微塵も感じさせない口調で答えた。彼女にとって、僕たちが何者であったかは重要ではない。今、彼女のルールの下で「お行儀よく」しているかどうかが全てなのだ。
「この2匹もお気をつけて……(この猫からアサシンの気配を感じるぞ。ただのペットじゃない。それにこのウサギ、妙に落ち着きすぎてやしないか……?それにルウとヌーベという名前、聞いたことがある...…)」
ネボの額に微かな汗がにじむ。彼はまだ、目の前のおっとりとした保育士が、大陸最強の二大巨悪を同時に無力化した張本人であることに気づいていない。
(……この女、悪意はなさそうだが違和感がある。常人離れしすぎている思考回路だ。ガレさんに報告しておかないとな……)
ネボはそう独りごちると、軽く会釈して去っていった。
「(やれやれ、さっそくマークされたか。まあ、今の僕にできるのは、このイチゴドレスを揺らして愛想を振りまくことくらいだがな)」
僕はカゴの中で丸くなった。
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その夕暮れ。
ネボが去った後、アイリス姉さんは静かな海を見つめていた。東部の町は川と海が面している場所。川と海の境界である塩水の混ざる河口は特に広い。川はゆったりと流れ、海は「ザザー」という自然の静かな音が流れる。アイリス姉さんの夕日に照らされたその横顔は聖母のように慈悲深く、同時に深淵のように底知れない。
「(……姉さん。一つだけ、どうしても僕にいまだに引っかかっていることがあるんだ)」
カゴに入っている僕は頭をひょっこりと出す。念話ではなく、心の中で問いかける。
「(なぜ、あの時……冥静戦争の最終決戦で、あんな無茶な割り込み方をしたんだ? ベスパもマンティも、あの時は本気で殺し合っていた。たとえ姉さんでも、一歩間違えれば命はなかったはずだ。それなのに、あいつらをまるで叱り飛ばす子供のように扱って……)」
僕が「俺」として戦場を駆けていたあの時、アイリス姉さんの登場は全ての論理を破壊した。最強の魔力も、至高の剣技も、彼女の「お掃除の時間ですよ」という一言の前に沈黙したのだ。
アイリス姉さんは、僕の視線に気づいたのか、そっとカゴ越しに僕の頭を撫でた。アイリス姉さんの答えは、僕たち常人の思考ももった狂人とは次元が違いすぎるものだった。
「ルウくん。世界はね、とっても広いのよ。でも、誰かが大切に育てたお庭を荒らしていい理由にはならないわ。喧嘩をするなら、もっと別の場所で、自分たちを傷つけない方法を選ばなきゃ。命は使い捨てじゃないのよ」
彼女の言葉には、魔術的な強制力はない。だが、その背後に透けて見える「魂の格」が、僕の本能に正座を強いる。
「(……相変わらず、理屈じゃないんだな、この人は)」
僕は諦めて目を閉じた。東部の街には、まだ平穏な空気が流れている。しかし、ネボが言っていた「別のでかい組織」――その影は、着実にこの街を侵食し始めている。
『骸蝶の軍勢』。
急な活動方針の路線変更の果てに国家転覆を狙う巨悪へと変貌した男、リュカが率いる精鋭部隊。彼らがこの東部で何を画策しているのか、今の僕には知る由もない。
だが、アイリス姉さんがここにいる限り、そして僕がこの屈辱的なドレスを着せられている限り、どれほどの巨悪が訪れようとも、最後には「可愛いペット」が増えるだけの結果に終わるような気がしてならなかった。
冥静戦争以降の新たな火種。
それがどのような形で幕を開けるのか、この時の僕はまだ知らなかった。
ただ、アイリス姉さんが持参した「お掃除用具」が、いつもより念入りに手入れされていたことだけが、不気味な予兆として僕の記憶に刻まれていた。
「さあ、行きましょうか。子供たちが待っているわ」
アイリス姉さんの足取りは軽く、僕たちの入ったカゴは心地よく揺れる。
南の大陸の運命を握る「最強の保育士」と、その腕の中でイチゴのドレスに身を包んだ「伝説の暗殺者」。
僕たちの、新しくも奇妙な日常が、東部の街でも始まろうとしていた。




