幕間-静寂の箱庭、柔らかな刑罰
冥静戦争終結から一週間近くが経つ。
南の大陸、ピセアの薬草園は、今日も不気味なほど平和な静寂に包まれていた。微風が運ぶのは、高純度の魔力を帯びたハーブの清涼な香りと、湿り気を帯びた肥沃な土の匂い。空はどこまでも透き通り、かつて戦場を焼き尽くした炎も、大気を震わせた絶叫も、ここには届かない。
その庭の特等席、陽だまりが落ちる柔らかな芝生の上に、四つの「命」が並んでいた。
かつて、その名を聞くだけで国家が震え上がり、通った後には草一本残らぬと言われた災厄の化身たち。累計殺害人数は五桁を遥かに超え、人智を超えた武力と冷徹な思想で世界を塗り替えようとした怪物たち。しかし、現在の彼らにその面影を探すのは困難を極めた。
そこにいるのは、耳の垂れた愛らしい二匹のロップイヤー。二匹の片割れは茶色の毛並みを持ち、その相方は銀色の毛並みを持っている。
雪のように白い毛並みを誇る、一匹のアンゴラウサギ。
そして、絹のような灰色の毛に覆われた、小柄なチンチラ。
「さて、皆さん。今日もしっかり土を落として、ふわふわになりましょうね」
おっとりと、毒気のない声が響く。麦わら帽子を被り、手には手入れの行き届いたブラッシング用のブラシとスコップを持った女性――ピセアが、聖母のような、あるいは無邪気な子供のような微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
彼女は『調律師』。世界の歪みを「日常」という名の檻に閉じ込める、この箱庭の絶対的な管理者である。
「キュイ……(おいピセア! 寄るな、その魔道具を向けるな!)」
白銀の毛を逆立て、短い前足で地面を叩いたのはアストだった。かつて『天空の亡霊』と恐れられ、音速の魔矢で数多の英雄の眉間を貫いた狙撃手は、今や鼻をヒクつかせることしかできない軟弱な家畜へと成り果てている。
「(……無駄だアスト。この女には、俺たちの殺意も、かつての栄光も、すべて『喉が鳴っている音』程度にしか変換されん)」
隣に座る茶褐色のロップイヤー――フォルトが、諦念の混じったテレパシーを返す。かつて『深緑の亡霊』という異名を持ち、巨大なハルバードで軍隊を肥料に変えてきた豪傑の言葉には、重い溜息が混じっていた。
彼ら「翠影双翼」にとって、この状況は死よりも過酷な拷問だった。特に、隣に並べられている「同類」たちの存在が、彼らの誇りを逆なでする。
「(おいアスト、見ろ。あのレニとかいう男の無様な姿を。この世を彫刻にすると豪語していたテロリストが、今やネズミの類に成り下がって、砂浴びの準備をさせられているぞ)」
フォルトの視線の先には、灰色のチンチラとなったレニがいた。レニはかつて『静寂の捕食者』の幹部として、極低温の針で人間を凍結保存してきた狂信者だ。しかし今の彼は、ピセアが用意した「最高級の砂」を前に、本能的な欲求と戦士としてのプライドの間で激しく葛藤し、プルプルと震えていた。
「(小生の……小生の屈辱……。マンティ様、見ておいでですか。この私が、このような……ただの毛玉として扱われる日が来ようとは。ああ、凍らせたい。この温かな日差しも、この女の指先も、すべてを絶対零度の芸術品に変えてしまいたい……!)」
レニの殺意に満ちたテレパシーが響くが、ピセアには「クィー」という可愛らしい鳴き声にしか聞こえていない。彼女は「あらあら、レニちゃんは砂遊びが待ちきれないのね」と、レニの背中を優しく撫でた。
「(……静かにしろ、レニ。見苦しいぞ)」
たしなめるような念を飛ばしたのは、白いアンゴラウサギの姿をしたルードだ。かつては貴族として、そして巨大な鋏を振るう巨悪の幹部として、組織の規律を重んじた男。彼は四匹の中で最も落ち着いているように見えたが、その実、内面のプライドはズタズタに引き裂かれていた。
「(我々は負けたのだ。冥静戦争という盤上で、チェックメイトを喫した。今は耐えるしかない。この『ブラッシングの刑』という名の、因果の清算をな……)」
「(ルード! てめぇ、マンティに従っていた時のあの威厳はどうした!因果の清算って反省する気あるのかないのかどっちなんだ?)」
アストが噛みつく。義賊として組織の腐敗を正そうとしていた彼らにとって、マンティやベスパのような、秩序そのものを破壊しようとする巨悪は不倶戴天の敵だ。
「(フン、聞くまでもないだろう。山の猿どもが。それよりも、貴様らのような野蛮な連中と同じカゴに入れられていること自体、私にとっては万死に値する苦痛だ。それとフォルト、さっきから私の毛並みに鼻を近づけるな。不快だ)」
「(なんだと……? この俺を猿呼ばわりするか、このヒゲ野郎が!)」
ウサギとチンチラが、狭い陽だまりの中で互いにメンチを切り合う。かつてなら一国を滅ぼす規模の衝突に発展したであろう一触即発の空気。しかし、外から見れば、それは「モフモフした小動物たちが仲良く固まっている微笑ましい光景」に過ぎなかった。
ピセアは、そんな彼らの内なる怒号など露知らず、手慣れた手つきでフォルトを抱き上げた。
「さあ、フォルトちゃんから。森で走り回ったから、毛の中に種がたくさんついていますよ」
「(ひ、卑怯だぞ! 離せ! 俺の『地脈感知』をこんな尻の汚れの確認に使うな!)」
フォルトがじたばたと暴れるが、ピセアの腕の中ではあらゆる筋力が霧散する。彼女の特殊技能『全生変換』。対象が持つ殺意や闘争本能を、強制的に「毛の柔らかさ」へと変換する権能の前に、伝説の義賊は成すすべもなかった。
シュッ、シュッ、と規則正しいリズムでブラシが通る。ピセアが持っていたブラシはフォルトに引っ付いたひっつき虫を取り除いていた。動物の毛に張り付くかぎ状の爪を持った種が一粒ずつ取り除かれていく。
「(くっ……あ、ああ……!)」
フォルトの脳内に、耐え難い快楽が走った。ピセアのブラッシングは、単なる手入れではない。魔力の通り道を完璧に把握し、滞ったエネルギーを「調律」する神業だ。
「(バカな……俺の魂が、土に還されていく……。殺した連中の怨念も、組織への憎しみも、このブラシ一振りで『どうでもいいこと』に書き換えられていく……。やめろ、やめてくれ、俺の『絶望』の象徴としての自覚が、消えて……しまう……)」
フォルトの目が、次第にトロンと濁っていく。強靭な肉体、数トンのハルバードを操る膂力、それらすべてが「ブラッシングの気持ちよさ」という圧倒的な現実の前に敗北を認めていく。
「(情けないぞフォルト! シャキッとしろ!)」
アストがテレパシーで喝を入れるが、彼もまた次の瞬間、ピセアの指先によって耳の付け根をピンポイントでマッサージされ、短い悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「アストちゃんも、今日は念入りにしましょうね。白銀の毛がくすんでは台無しですから」
「キュ、キュゥゥ……(……っ! お前……っ! 天空の……俺の視力は、敵を……屠るために……)」
アストの意識もまた、白い霧の中に溶けていった。数百メートル先の眉間を射抜く精密な感覚は、今や「指先の温かさ」を最大限に享受するための受信機へと成り下がっている。
ブラッシングの刑が続く中、わずかに正気を保っていたルードが、遠く南の空を見上げた。
「(……ガレ。どこかのあのカモメのようなチーム、あの男はどうした)」
その問いに、アストが半分意識を飛ばしながら答える。
「(……ガレか。あいつはまだ……どこかの空の下で、気圧を読んでいやがるはずだ。あの偏屈な気象予報士なら、このピセアという女の魔手からも……逃げ切れるはず……。あいつが合流すれば、戦局が変わる可能性も……)」
アストに賛同するようにフォルトが頷く。
「(ガレが住んでいる地域は、まだこの女の……いや、飼い主たちの手が及んでいない。あいつこそが、我々の最後の希望だ。あの『神の目』を持つ男が、いつか俺たちをこの屈辱的な箱庭から救い出してくれる……)」
四匹の間に、わずかな連帯感が生まれた。それは敵対していた組織の垣根を越えた、戦士としての「明日の反撃」への期待だった。自分たちはまだ終わっていない。ガレがいる。あの絶対的な的中率を誇る予報士が、必ずや反攻の狼煙を上げるはずだ。
しかし、彼らは知らなかった。
ピセアが時折、空を見上げて「あら、新しいお客様の気配がしますね」と独り言を呟いていることを。
そして、その「お客様」を迎えるための、もう一つのブラシとカゴが既に用意されていることを。
「(……いつか、必ず……)」
レニがチンチラの小さな手で、空を掴むような仕草を見せる。その瞳には、かつて世界を凍らせようとした野心の残滓が宿っていた。
だが、現実は無情だった。
「はい、みんな綺麗になりましたね。お疲れ様でした。ご褒美に、今日は特別にすり潰した特製薬草クッキーをあげましょう」
ピセアが皿を置いた瞬間、戦士たちのプライドは脆くも崩れ去った。
「キュッ!?( 良い匂いだ……!)」
「(くっ、毒味は俺が……もぐもぐ……う、美味すぎる!)」
「(この配合……魔力の循環を……もぐもぐ……完璧に計算されている……)」
「(小生の……小生の、食欲が……!)」
四匹は、かつての敵対関係も、血塗られた過去も、そしてガレへの期待さえも一瞬だけ忘れ、一皿のクッキーに群がった。
太陽は穏やかに西へ傾き、薬草園を黄金色に染め上げていく。
そこにあるのは、四匹の可愛らしいペットと、彼らを愛おしそうに見守る一人の農家の女性。
国家を転覆させようとした巨悪の物語は、この静かな庭の中で、柔らかな毛並みとクッキーの甘さの中に、跡形もなく溶けて消えていくのであった。
「(……いつか、殺してやる)」
誰かの弱々しいテレパシーが響いたが、それはすぐに、満足げな咀嚼音にかき消された。
冥静戦争の終わり。それは、新たな「絶望」の始まりでもあった。
ただ、その絶望は、あまりにも温かく、あまりにもふわふわとしていた。
ピセアは微笑む。
「明日も、いいお天気になりそうですね」
その言葉の通り、空には雲一つなく、不気味なほどの「凪」が広がっていた。
その静寂の中でもアストは鼻を立てる。声は出せずともテレパシーでピセアに訴えかける。
「(おい、ピセア!聞こえるか、俺たちを巨悪どもと一緒に入れた理由はなんだ?)」
「あらあら、アストちゃん。そんなに鼻をヒクヒクさせて……。お友達とのお喋りが楽しくて興奮しちゃったのかしら?」
レニもぴくぴくと耳を立てる
「(そうだ、義賊と仲良くさせるなど納得がいかん...)」
ピセアがにっこりとほほ笑む。彼女の眼にはこの二匹が甘えているかのようにも見えたが、彼らは真剣だ。戦士としての誇りを失ってはいなかった全員の目がその真剣さを物語っている。
「あなたたちは、少しだけ『力が強すぎた』の。フォルトちゃんも、アストちゃんも、レニちゃんも、ルードちゃんも。みんな、自分の信じる正しさで世界を塗り替えようとして、土を掘り返しすぎてしまった。……でもね、森の土には、枯れ葉も、死んだ虫も、そして新しい種も、みんな混ざり合って重なっているものなのよ」
ピセアは手にしたブラシを止め、膝の上にアストを抱き寄せた。手と足をジタバタ動かそうとするアストだったが、彼女の掌から伝わる「絶対的な安寧」の魔力に、まるで重力に捕らえられたかのように体が弛緩してしまう。
「(……くっ、この女の魔力……抗えん……。だが答えろ、ピセア! 混ざり合うだと? 冗談じゃない。俺たちは『掃除』をしていたんだ。不浄な権力者を、土に還していただけだ!)」
アストの必死の抗議も、ピセアの耳には「キュイ、キュキュイ」という甘えたような高い鳴き声として届く。彼女はその細い耳の付け根を、慈しむように親指で撫でた。
「そうね、アストちゃん。あなたは悪い枝を折ろうとした。レニちゃんは、綺麗な森をそのまま残そうとした……。でも、一色の花だけで埋め尽くされた森は、いつか脆くなって枯れてしまうの。毒のある草も、鋭い刺を持つ虫も、みんながそこにいて初めて、森は深い呼吸ができるようになるのよ」
「(……詭弁だ。小生の芸術は、不完全な略奪者どもを排除し、静寂の中に固定することにある。この泥臭い義賊どもと一緒にされるのは、私の美学が許さない……!)」
レニがチンチラの小さな前足で、ピセアのスカートを精一杯引っ張る。しかし、ピセアはその小さな反抗さえも「もっと遊んでほしい」という意思表示として受け取り、レニの顎の下を優しくこすった。
「ふふ、レニちゃんも情熱的ね。……あなたたちは今、とっても小さくて、柔らかいでしょう? それはね、一度『何者でもない存在』に戻るためなの。義賊でも、巨悪でもなく、ただの命として。この土の上で、お互いの体温を感じながら、ゆっくりと根を張り直せばいいのよ」
ピセアの瞳は、どこまでも澄んでいた。そこには敵意も、裁きも、恐怖もない。ただ、荒れ果てた大地を癒やす雨のような、圧倒的な「無関心という名の包容」があった。
「(……命として、だと? 笑わせるな。俺たちがこれまでに奪ってきた数万の命はどうなる。俺たちの手に染み付いた血の臭いは、このハーブの香りで消せるとでも思っているのか……!?)」
フォルトが、重い足取りでピセアの足元に擦り寄る。それは親愛の情ではなく、彼女の言葉の真意を計ろうとする、戦士としての最後のあがきだった。
「消さなくていいのよ、フォルトちゃん。その重みも、苦しみも、全部あなたが持っていた『力』の裏返し。……でもね、ここではその力は必要ないの。今はただ、隣にいる子の毛並みが温かいことや、お日様が気持ちいいことだけを、その小さな体で感じていればいいの」
ピセアは立ち上がり、四匹を囲むように両手を広げた。
「さあ、お喋りはこれでおしまい。次はルードちゃんの番ね。そんなに隅っこで固まっていないで、こっちへいらっしゃい。……みんなで仲良く毛を整えたら、きっと少しだけ、世界が優しく見えるようになるから」
ルードは、アンゴラウサギの長い毛を揺らしながら、観念したように一歩前へ出た。
「(……ガレ。予報してくれ。この終わりのない『日常』という名の刑期が、いつか明ける日は来るのか……)」
四匹の頭上に、ピセアの振るうブラシの音が、死神の鎌よりも静かに、そして抗いようのないリズムで響き始めた。




