野心-瓦礫に咲く悪の胎動
南の大陸を真っ二つに引き裂いた「冥静戦争」は、その終わり方もまた、常軌を逸したものだった。
マンティとの直接対決の最中、不測の事態を悟って自ら崖下へと身を投げたエナガは、血反吐を吐きながらも泥にまみれて命からがら這い上がってきた。全身に大怪我をした状態で崖下から到達した彼にとっては、震えながらも四つん這いで歩くことだけが精一杯だ。
「人生……賭けなきゃ……生きてらんねぇ……」
かつて「煉獄の虚妄」と恐れられ、賭博師として戦場の期待値を計算してきた彼ですら、今の光景だけは「あり得ない」と脳が拒絶していた。
空の晴れ間さえも、今は不吉な静寂を強調するための予兆にしか見えない。
エナガは震える手で双眼鏡を握り、瓦礫の山と化したかつての戦場を遠くから覗き込んだ。
「なんだあれは……! 冗談だろ……! ベスパ様と、あのマンティが……ただの水色の髪の女の前で……ッ!」
レンズの向こう側。
かつて一晩で一国を地図から消し去り、「放置されたゴミは焼き払う」と豪語した最強の破壊神ベスパ。そして「略奪者は清掃する」と冷酷な統治を敷いたマンティ。
南の大陸の頂点に君臨したはずの二人の怪物が、まるで叱られた幼稚園児のように、一人の女性――アイリスの前に並んで立たされている。
血反吐を吐き、敵対組織の首領と殴り合った自身の主君が幼稚園児のように無理やり正座させられているなど末端構成員や幹部ですら信用できない。
「いい加減にしなさい! って、おふくろかよ! この戦争をまるで悪い子の遊びだと言い張るのかよ。ソルがいつまで経っても戻ってこないと思ったら、あいつもアイリスとか名乗る女の仲間にやられたっていうのか……」
エナガの額から冷や汗が流れる。
気が付けば、数百人規模で展開していたはずの兵どもがいない。戦意を失って逃げ出したか、あるいは「存在の格」の違いに耐えきれず霧散したのか。ここにいるのは両軍の猛攻に巻き込まれて倒れこんでいる兵士たちだ。あるいは、すでに息絶えた兵士のどちらかだ。
最後にエナガの双眼鏡が捉えたのは、この世で最も不条理な光景だった。
アイリスが優雅に指先を振った瞬間、あのベスパが、灼熱の熱量をすべて「愛くるしい体温」へと変換され、小さなティーカップ・プードルへと変貌したのだ。
「キャン……」
その弱々しい鳴き声が、風に乗ってエナガの耳に届く。
「……あれは、誰も賭けたがらねぇな。史上最悪の配当だぜ」
エナガは、自分がまだ「人間の姿」でいられるうちにその場を去るのが、ギャンブラーとして唯一の正解であることを理解していた。
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数日後。
かつての栄華が嘘のように静まり返った「冥府の羽音」の地下アジト。
湿った空気とカビの臭いが立ち込める奥深くで、生き残った四人の幹部が、数本の松明を囲んで集まっていた。揺らめく炎が、彼らの険しい表情を不気味に浮かび上がらせる。
「ベスパ様が犬になったという情報が、手下の生き残りから入った。それと、マンティ率いる『静寂の捕食者』は事実上の消滅だ。管理だの剪定だのほざいていた連中がいなくなったのは清々しいが……この結末は納得がいかん」
沈黙を破ったのは、筋骨隆々の巨漢、ビルだった。ビルはこの戦争の結末に納得がいかず、ただ呆れ果てたように椅子に座っている。
「アソラとアニルは戦死。だが、ベスパ様もソルも記憶を消され、ペットにされた。……戦士として、ましてや人間として死んだも同然だな。情報屋からそう連絡が入ってきている」
どこかやるせない様子のビルだが、自身の筋骨隆々とした右の剛腕に重圧手甲を握りしめた。以前、貯水施設でルピナと遭遇した際、自慢の魔力を「無」にされ、逃亡を余儀なくされた屈辱が、今も右拳に疼いている。
「ドラア。あの計画……正直に言ってどうだった?」
問われたドラアは、煤けた作業着のまま、力なく首を振った。
「事を早めすぎた結果がこれだな。全都市放棄計画。俺も間に合うように爆弾やデバイスを開発したつもりだったが、結局は付け焼き刃だった。……ベスパ様は完璧主義だったはずだ。なぜ、あそこまで焦って走ったんだ?」
ここでビルは、激動の「冥静戦争」を頭の中で反芻した。
――全ては政治家バルガスの殺害から始まった。ベスパの宣戦布告、マンティの応戦。解散したルウの「白爪」や、カリスの「月下狂牙」といった義賊チームのネズミどもが介入してくることは、ベスパ様も最初から織り込み済みだったはずだ。
だが……。
「最初から『飼い主』というイレギュラーは、計算に入っていなかった。それが全てだ」
エナガが皮肉げに笑う。その発言内容はギャンブラーとしての論理だ。
「義賊どもが好き勝手に動くと読んで、あのお方は賭けたんだ。だが、その背後にあんな『化け物女』たちが控えてるなんて、ベスパ様の『放棄の審判』でも見抜けなかったってわけだ」
ビルが忌々しそうに周囲を見渡す。
「手下たちも一気に九割以上がこの戦争から逃げ出した。……今じゃ、ここにいる俺たちたった四人だけだ」
「俺たちは、負けても立て直せる」
エナガがトランプを指先で弄ぶ。
「たとえこの戦争で全財産がなくなったとしても、俺がカジノを一晩潰せば資金は戻る。問題は場所だ」
「南の大陸はもう、あの『飼い主』どもの庭も同然だ」
ドラアが忌々しげに言った。
「俺たちの魔力波形は記録されている。すぐに見つかって、俺もウサギか猫か?何かにされちまうかもな」
その時まで沈黙を守っていたオイマが、ゆっくりと口を開いた。
彼はこの絶望的な状況下にあっても、柔和な牧師の笑みを崩していなかった。だが、その瞳の奥には、救済を説く天使の慈悲ではなく、煉獄の底で揺らめくようなどす黒い火種が宿っている。
「ビル。……いや、『大将』。我々は拠点を他へ移すべきでしょう。あなたが、この新生『冥府の羽音』のトップに相応しい」
「大将? どういう意味だ」
ビルが眉を寄せる。
「オイマ、お前の方が教祖としてのカリスマがあるだろう? 理想を語らせれば、お前の方が人を惹きつける。あと『冥府の羽音』は国家転覆を狙うだけじゃない。カルト宗教団体の側面も作っていただろう?」
「いや、この荒れ果てた組織を力で束ねられるのは、ビル、お前だ」
ドラアもオイマの発言に同意する。
「統率力も、そして何より、あの女たちに屈しなかった野心がある。お前がちょうどいい」
ビルはしばし目を閉じ、かつてのボス・ベスパの冷徹な背中を思い出した。そして、ルピナに魔力を消された時の恐怖を。
「……なるほどな。お前らも本心に気づいていたか。だが、俺はベスパ様より甘くはないぞ」
ビルが目を見開き立ち上がる。その肉体から、煉獄の炎とはまた違う、ドス黒い殺気が溢れ出した。
「俺はベスパ様を超えるだけじゃない。あの『飼い主』の女ら……アイリスやルピナすらも超えてやる。一度はヘマをやったが、二度はねぇ」
ビルの瞳に、復讐の火が灯る。
「まずは立て直すと同時に、やらなければ気が済まないことがある。……この大混乱に乗じて消えた、裏切り者どもの粛清だ。俺たちの名前を売ろうとした奴らに、死よりも深い後悔を教えてやる。野郎ども、『冥府の羽音』はここからが始まりだ」
南の大陸。
表向きはペットたちの平穏な日常が始まったが、その地下深くでは、より苛烈で、より執念深い「新しい火」が燃え上がろうとしていた。
次は、裏切り者たちの血でこの大陸を染める、新たな戦争の序曲だ。




