隠れ家-2.美しき死神の末路
逃げ場のない静寂が、月下狂牙の隠れ家を包み込んでいた。
かつて大陸中を震撼させた剣豪たちが、今、一人の「庭師」を前にして、文字通り呼吸の仕方さえ忘れたように立ち尽くしている。
ルピナは、手にした出席簿のような帳簿をパラパラと捲り、慈悲深い、けれどどこか事務的な響きを持つ声で口を開いた。
「皆さん、安心してください。……社会的な制裁なら、もう手配済みですから。あなたがたの『席』は、もう表の世界のどこにもありません。……もちろん、地下の世界にもね」
その言葉が、最初の一刺しだった。
ルピナはまず、寝台に横たわる大男、宝石細工師のルビへと視線を向けた。
「ルビさん。宝石を磨く精密な技術、素晴らしいわ。けれど、その力で城門を両断し、どれほどの家族の絆を断ち切ってきたのかしら。……ああ、そういえば、あなたのご家族。とっても素敵な奥様と可愛いお子さん、今は安全な場所で『お父様は急な出張に行った』と信じていますよ」
ルビの顔から血の気が引いた。
「やめてくれ……! 家族に、家族にまで手を回したのかよ……ッ!」
「手を回した? 心外だわ。私はただ、これ以上あなたが罪を重ねなくて済むように、ご家族に『新しい住所』を教えただけ。……何をしても無駄ですよ、ルビさん。あなたの『重い一撃』は、今日から家族を守るための土を耕す力に変わるんですから」
次に、ルピナの視線はフロスへと移る。
「華道家のフロスさん。仕込み鞭剣『散花』。美しいわ。けれど、あなたの花は血を吸いすぎて、もう色が濁っている。……貴族出身のあなたが、友人の死をきっかけに闇へ落ちたこと、その悲しみさえも、あなたは戦うための燃料に変えてしまったのね」
「嘘だろ……。個人情報を、なぜ知っている……!」
フロスが震える手で剣を握り直そうとするが、指先に力が入らない。
「個人情報? ……ふふ、私の『庭』に咲く花の名前を覚えるのは、庭師の嗜みですから」
「ガーネさん」
ルピナは、双小太刀を構えるガーネの前へ、吸い込まれるような足取りで踏み込んだ。
「あなたの硝子は美しく、鋭い。けれど、それは光を反射して自分を隠すためだけの盾になっているわ。カリスさんの影に隠れて、壊すことでしか自分を証明できないなんて……。硝子職人なら、壊すよりも輝かせる方法を知っているはずでしょう?」
「来るな……ッ! 近寄ったら、お前も、そのジョウロも切り刻むぞ!」
ガーネが絶叫し、高速の斬撃を繰り出そうとした。
しかし、ルピナはその動きを見ても何事もなかったかのように微笑んでいる。彼女は無造作に、手に持ったジョウロの先で、ガーネの額を「トン」と軽く突いた。
その瞬間、ガーネの全身から力が抜け、戦う意志が霧のように散っていった。
「……え? 僕の……魔力が……消えた……?」
「戦う術を失うのは、怖いことじゃないわ。……光を透かす、本当の硝子に戻るだけよ」
次に、細剣を突き出したまま凍りついているロッサへ、ルピナは悲しげな視線を向けた。
「ロッサさん、あなたの薔薇は毒が強すぎるわ。美しく咲くことよりも、相手を傷つけることに夢中になって、自分自身の根っこが枯れていることに気づかないなんて。園芸家を名乗るなら、まずは自分の心に水を撒きなさい。……ピセアさんは、あなたのその枯れた根っこのこと、全部お見通しですからね」
「ピセアちゃんが……!? ピセアちゃんが私を裏切ったの?あの子、何も知らないはずよ」
ロッサが驚愕に目を見開く。取引相手として、そして友人として信頼していた「あの人」が、自分たちの情報をこの少女に流していた。その事実が、彼女の誇りを根底から揺さぶった。
「裏切ったのではなく、導いたのですよ。……あなたが、本当の意味で『咲く』ためにね」
最後に残ったのは、大剣を構えたままのアードだった。
「アードさん。炭焼きの火は、人を暖め、料理を作るためのもの。国を炭にするための火は、ただの『ボヤ』です。そんなに熱くなりたいなら、冬の間の暖炉の種火として、誰かを温める修行からやり直しなさい」
寡黙なはずの彼が、言葉を失い、目に見えて動揺し始めた。
「何を言うかと思えば......俺の火は、不浄を焼き尽くすための……」
「いいえ。あなたの火は、ただの『寂しさ』の裏返しよ。あの日、地下通路で私が死んだと思い込んで、自分の火を呪ったでしょう? ……そんな不安定な火で、何を護れるというの?」
ルピナの言葉は、アードの最も柔らかい部分を正確に射抜いた。
「それにね、社会的影響は、ここにいるメンバーは全員『ゼロ』になるはずです。あなたたちは『義賊』ではなくなるのですから」
「……お前、俺たちを国家に連行する気か?」
ルビが、掠れた声で問うた。
ルピナは、まるで小さな子供の質問に答えるかのように、首を横に振った。
「国家? ……いいえ。そんな狭い場所に閉じ込めたりしません。あなたたちは、もっと広くて、美しくて、逃げ出したくても逃げられない……私の『庭』で、永遠に働いてもらうだけです」
「庭……? 冗談じゃないぞ!」
ガーネが叫んだが、その声はすでに虚空に消えかかっていた。
アジトの壁が、天井が、マゼンタ色の蝶の羽ばたきと共に、ゆっくりと透き通っていく。
「ルビさん、フロスさん、ガーネさん、ロッサさん、アードさん。……あなたたちの『再教育』は、もう始まっています。……まずは、その伸びすぎた不揃いな枝を、綺麗に揃えましょうね」
ルピナの手元で、剪定バサミが「チャキリ」と鳴った。
その音は、彼らが今まで聞いてきたどんな剣戟の音よりも重く、決定的な断絶の響きを持っていた。
「……さて。最後は、あなたの番よ。カリスさん」
ルピナが、奥の寝室で横たわるリーダー、紅蓮華の剣へと歩みを進める。
「……ま、待ちなさい……。私の、仲間たちに……何をしたの……」
寝台から崩れ落ちるようにして、カリスがベッドから苦しそうな体を無理にでも起こした。
かつて「美しき死神」と謳われ、時速400kmを超える抜刀術で数多の強者を一瞬で細切れにしてきたジャッカル。だが、今の彼女は、右腕を吊り、脇腹を深く抉られた満身創痍の体だ。それでもなお、リーダーとして仲間を守ろうとする執念だけで、彼女はルピナの前に立ちはだかった。
しかし、その眼前に立つ少女は、カリスが今まで対峙してきたどの暗殺者よりも、どの魔王軍の幹部よりも底知れない「虚無」を纏っていた。
「あら、カリスさん。そんなに無理をしては、せっかくの綺麗な筋組織が台無しですよ」
ルピナは優雅な所作で近くの椅子に腰を下ろすと、持参したティーカップに琥珀色の液体を注いだ。
「あなたたちは、確かに立派に戦いました。南の大陸を救い、英雄になる一歩手前まで行った。でも、致命的な計算違いをしましたね。……『速度』や『殺意』といった、そんな安っぽい力で世界を動かせると信じてしまったことが、あなたの、そしてチームの『枯れ』の原因です」
「計算違い……? 私たちは、弱者のために、この剣を……ッ!」
「そもそも『義賊』をやっていることが計算違いだと言っているのですよ」
ルピナの声は、穏やかなままカリスの心を凍らせた。
「ルウさんたちは、アイリスさんの慈悲によって、幸せな『ペット』に戻りました。あの子は今、余計な責任から解放されて、温かい日向で丸くなっています。……けれど、あなたたち『月下狂牙』はどうかしら? このまま放っておけば、復讐と殺戮の連鎖の中で、不健康な雑草として醜く枯れるだけ」
ルピナの瞳が、底なしのマゼンタ色の深淵へと変貌した。
カリスが腰の『狂牙マゼンタ』に手をかけようとした瞬間、ルピナの手にした剪定バサミの刃が、銀光を放ってカリスの鼻先を掠めた。
「だから……私の手で、最高に美しく『剪定』してあげます。……もう二度と、血生臭い剣なんて握りたくなくなるような、素敵で平和な姿にね」
カリスは、ルピナの背後に広がる「逆らえない因果の奔流」を幻視した。彼女がハサミを動かすたびに、世界の枝葉が切り落とされ、運命が書き換えられていく。
絶望。
それは、死に対する恐怖ではない。自分の積み上げてきた人生、誇り、そして「剣聖」としての魂そのものが、一輪の花を摘むような軽やかさで消し去られることへの、根源的な畏怖だった。
南の大陸を裏から支配し、444人リスト級の精鋭たちを束ねてきた伝説の義賊組織『月下狂牙』は、この日、たった一人の「庭師」の手によって、その輝かしい歴史に終止符を打たれた。むしろ、この庭師から見たら逆にまがまがしい歴史でもあった。
それは、血や肉を切り裂くような物理的な殲滅ではなかった。
ルピナがその場に立ち、数回の「チャキリ」という音と共に因果を切り離しただけで、組織としての結束、メンバー間の絆、そして何より彼らを突き動かしていた「殺意」という名の鼓動が、春の霧が陽光に溶けるように霧散してしまったのだ。
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そして、彼らがひた隠しにしてきた「表社会」への影響は、ルピナの手回しによって残酷なまでに露呈した。
「おい、聞いたか? あの街の宝石細工師のルビ、実は凶悪な殺人鬼集団のメンバーだったらしいぜ」
「ガーネさんの硝子細工、綺麗だと思って買ってたけど……あんな連中と関わりたくないね。縁起が悪い」
住民たちの冷ややかな声が、かつて彼らが守ろうとした街の至る所から聞こえてくる。彼らが命を賭けて守った「平和」は、彼らを異物として排除することで成立し始めていた。
王宮の奥深くでは、事態を把握した大臣たちが震え上がっていた。
「信じられん……。あの白爪だけじゃない、炎を操る『冥府の羽音』のベスパ、そして剣聖の末裔たる『月下狂牙』までもが、たった一人の女によって無力化されたというのか……」
とある国家の大臣もまた白目を向いて震えあがっていた。国家を震撼させた事態は別のベクトルで国家を震撼させることになる。
「南の大陸も......パワーバランスが崩壊した。……いや、書き換えられた......のか......あの『保育士』に......『庭師』の望む形に……かつての『最悪の終焉』も恐ろしいが、この事実だけは......震えが、震えがぁ!」
彼らにとっての「正義」も「悪」も、ルピナという概念の前では、ただの「手入れが必要な庭木」に過ぎなかった。
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最後の日が、訪れた。
リーダーであるカリスは、ルピナが放つ圧倒的なマゼンタ色の光に包まれ、その峻烈な魂と、研ぎ澄まされた剣気を、あまりにも小さな器へと押し込められていった。
かつて、その俊敏さと鋭い嗅覚から「ジャッカル」の異名をとった彼女。
皮肉にも、ルピナが彼女に与えた新しい姿は、その名の由来と同じ系統でありながら、あまりにもか弱く、愛くるしい小型犬――パピヨンであった。
「ワン! ……クゥン?(嘘、私が犬になってる......。剣の修業はこれからどうすればいいの?)」
カリスだったものは、自分の短い脚と、視界の低さに困惑の声を上げた。
あの名刀『狂牙マゼンタ』を自在に操った繊細な指先は、今は可愛らしい肉球になり、数キロ先の恐怖を嗅ぎ分けた感覚は、ルピナの淹れたハーブティーの香りに陶酔するために再編された。
「あら、なんて優雅な耳かしら。カリスさん、いいえ……これからは『パピィ』ね。剣を振るう代わりに、その大きな耳で、私が弾くピアノを聴いてちょうだい。……それが、あなたの新しい『任務』よ」
ルピナは、満足げにパピヨンを抱き上げた。
一方で、ペット化という「恩赦」を免れたメンバーたちには、別の地獄が待っていた。
ルビ、フロス、ガーネ、ロッサ、アードの5人。彼らに課せられたのは、大陸のどこにあるかも知れないルピナの管理領域、広大な「世界の庭園」における専属庭師としての更生ペナルティだった。
それは、魔力をすべて「植物の育成」と「土地の浄化」に変換される、呪いに近い強制契約。
「人を斬るより、雑草一本抜く方が難しいことを、その体で学びなさい。……一株でも枯らしたら、その日はお夕飯抜きですよ?」
かつての暗殺者たちが、今は泥だらけのエプロンを身に纏い、一日の大半を地面に這いつくばって過ごしている。
数万の軍勢を縦一文字に斬り捨てたルビの大太刀は、巨大なクワへと変わり。
華麗な舞で敵を翻弄したフロスの鞭剣は、繊細な蔦を固定するための導力ワイヤーへと変わった。
「くそっ……。腰が、腰が折れる……。宝石を磨くより、この粘土質の土を改良する方が重労働だなんて……」
ルビが泥を拭いながら呻く。大太刀をふるった彼はもはや剣豪としての面影は一ミリもない。自分でも妻子を支えるべき手は誰だったのかという裏切りを想像してしまう恐怖に毎日襲われている。
「……もう、いっそ死刑にしてくれ……」
フロスが、一本の雑草を抜くのに全力の魔力を吸い取られ、青白い顔で地面に突っ伏した。かつての華道家だった繊細さと、鞭剣使いとしての威厳も地面に生えた植物に吸い取られているかのようにひたすらやっている。
ロッサは、ピセアから贈られたという「園芸用手袋」を見つめながら、自分が今まで育ててきた薔薇がいかに毒に満ちていたかを、空腹と疲労の中で思い知らされていた。
彼らは、かつて自分が奪ってきた命の重さを、一輪の花を咲かせるための過酷な労働という形で、一秒ごとに刻み込まれていく。
それが、世界の剪定者ルピナが下した、最も静かで、最も残酷な「救済」であった。
南の大陸に吹き荒れた嵐は去った。
後に残されたのは、平和を取り戻した街と、その影で、小さな犬としてピアノを聴くリーダーと、泥にまみれて「生命」を育てることを強いられた元・暗殺者たちの、滑稽で悲しい日常だけであった。




