隠れ家-1.逃げ切った先の「訪問者」
崩落した跡地で行われた「最悪の終焉」と二大トップたちによる、人類の理解を超えた大決戦から数日が経過した。
南の大陸の片隅、切り立った崖の内部をくり抜いて作られた『月下狂牙』のアジトには、かつてない重苦しい沈黙が漂っていた。結界と硝子職人の技術によって、光学的にも魔術的にも完璧に隠蔽されているはずのこの場所が、今はまるで巨大な墓標のように静まり返っている。
現在、まともに動けるのはパトロールに回っていたガーネとロッサの二人のみだった。アードは爆破からの傷が治りつつあるが、まだ時間はかかりそうだ。まともに行動をしたい月下狂牙全メンバーにとっては、表の仕事の同僚やその知り合いに何やら怪しまれるのも時間の問題でしかない。
「カリスちゃん。今日も街の様子を見て、戦争復興のボランティアに行ってくるわね。……あの子たちの食料も調達してこないと」
ロッサが力なく呟く。彼女の自慢の赤髪は、ソルなどの冥府の羽音の兵たちとの戦いで舞い上がった煤と疲労で少しだけ輝きを失っていた。
リーダーであるカリス、そしてルビ、フロスの三人は、要塞爆破の衝撃と、怪物たちの乱戦に巻き込まれ、奥の寝室で横たわっている。この三人が生きているだけでも奇跡だ。命に別状はない。だが、魔力の完全枯渇と、空間の歪みに叩きつけられたことによる深刻な全身打撃。剣聖の家系に連なるカリスでさえ、指一本を動かす指令が神経に伝わるまで数分を要するほどの重症だ。
「……カリス姉さんたちはまだ動けない。要塞が落ちてから、あの場にいた連中はみんな行方不明だ。ルウさんも、破壊神も、管理者も」
ガーネが窓の外……結界越しに映る荒野を警戒しながら呟く。義賊連合はルウたちを除き、アイリスという「概念の守護者」が戦場に降臨した直後、本能的な生存本能に従った。重傷の仲間を抱え、カリスの『紅蓮の香界』の残滓を霧に紛れ込ませて、文字通り命からがら逃げ出したのだ。
(……熱すぎる戦いだった。だが、結局、誰も死ななかったのが不思議でならない。あの規模の爆発と衝突があったというのに)
アードが、アジトの隅で炭を弄りながら、ため息をつきながら思い出す。街の地下通路での激闘。ベスパの幹部オイマによる爆破工作。あの時、逃げ遅れた移動花屋の少女――ルピナは、確実に炎に呑まれたはずだった。アードは彼女を救えなかった悔恨を、今も炭の火に重ねている。
「ピセアちゃんたちの姿が見えた瞬間、私の本能が『逃げろ』って叫んだのよ......。フォルトとアストがすでにウサギにされていたことは彼らから聞いていたけれども、あれだけ恐ろしいなんて夢にも思わない......」
ロッサが自身の細剣『薔薇棘』を磨きながら溜息をつく。
「彼女。私たちと仲がいいはずなのに、何だったのかしら、あの威圧感。私たちアサシンが斬れる相手じゃないわ。次元が違いすぎる」
「何を言っている......ロッサ……俺たちには関係ないだろう。どうせアバドンを墜落させ......ベスパの野望を挫いたんだ。今回の件は、お咎めなしのはずだ。国王陛下がこの勝利を聞いたら......どんな褒賞を出すかな」
寝台で上半身を起こしたフロスが皮肉げに笑うが、その顔は青白い。アバドン墜落の後遺症は、華道家として知られた彼の繊細な神経を今も苛んでいた。
「確かに僕たちは大陸を救った義賊だ。……だけど」
ガーネが自嘲気味に言葉を継ぐ。
「僕たちは超が付くほどの国際指名手配犯、444人リストの連中だ。英雄のメダルより先に、首を括る縄が用意されるのが関の山だよ」
アジトを覆う多層結界。侵入者が触れれば瞬時に警報が鳴り、硝子のトラップが発動するはずの聖域。
しかし、その重厚な石造りの扉に、軽やかな、それでいて拒絶を許さない「音」が直接響いた。
──コン、コン。
心臓が跳ね上がるようなリズム。
「……どなたかしら。新しい依頼者? ここに堂々と入ってこれるのは、それ相応の猛者か、絶望に満ちた依頼者だけじゃないの?」
ロッサが武器を手に取り、警戒を強める。
ガーネは硝子越しに外の様子……誰かの姿を捉えた。
扉がゆっくりと開いた。
鍵を壊した形跡も、結界を破った衝撃もない。ただ、扉という概念が「最初から開くことを運命づけられていた」かのように、自然に、滑らかに。
そこに立っていたのは、つばの広い麦わら帽子を被り、泥のついたエプロン姿にジョウロを手にした女性
──ルピナだった。
「依頼者にしては、気配が、いや……『気配』そのものが存在しない!? 硝子の反射にも、魔力探査にも、何も映ってないんだぞ!そもそも、なんで笑顔で立っていられるんだ?」
視界に入ったルピナを見ると、殺し屋としての直感がそれを語ったのか、いきなり動揺し始めた。
「......何の用だ!?」
アードが急に反射的に叫び、総毛立つような殺気を解放した。
三人は一斉に跳ね起きた。
扉の向こうにいる「何か」。それは一般人にしては、あまりにも様子がおかしすぎた。魔王や勇者を凌駕する剣豪集団の隠れ家に、まるで近所の家に回覧板を届けに来たかのような気安さで立っている。絶望的な苦しみも、戦場の殺気も、その女性からは一切感じられない。
ガーネは双小太刀『砕火』を逆手に構え、アードは『焦土』を抜き放つ。空気の熱度が急上昇し、アジト内の酸素が燃え始める。
「お前、何者だ……! ここを見つけられるはずが……!」
ガーネの叫びに、扉の向こうから鈴の鳴るような声が返ってきた。
「あら、そんなに殺気立たないで。折角お見舞いに、良い苗木と、お薬代わりのハーブティーを持ってきたんですから」
アードが「生きていたのか」という表情で、安堵より恐怖が上回った目を見開く。地下通路で死んだと思っていた少女が、傷一つない姿で、あの日と同じ穏やかな微笑みを浮かべて立っている。
ガーネの精密な計算によれば、彼女はただの無防備な民間人でしかない。しかし、いま目の前にいる彼女からは、カリスの3km先の標的の心臓の鼓動さえ捉える『ジャッカル・センス』が霧散し、すべての予測が「剪定」されていくような、絶対的な支配の匂いがした。
彼女が足を一歩踏み入れるたびに、アジトの無機質な石の床から、マゼンタ色の小さな花々が芽吹き、蝶が舞う。
「カリスさんは、奥で寝ているのかしら? ……お友達のルウくんたちがみんな、とっても可愛い『ペット』になったから。南の庭も、少し整理が必要かと思いまして」
「馬鹿を言え、さっさと帰れ!」
ガーネがルピナを押し戻そうとするが、ルピナは微笑んだまま動じていない。
「そんなに押し出したいなら、私も強硬手段を使いますね?」
「ふざけるな……! カリスには指一本触れさせん!」
アードが吠え、数千度の熱を帯びた大剣を振り下ろす。その熱波は一国の軍隊を炭に変えるほどの威力。
だが、ルピナは動じない。
彼女が手にしたジョウロを軽く傾けた。
一滴の水が、その熱線に触れた瞬間──アードが放っていた地獄の劫火は、一瞬で「春の陽だまり」のような、うたた寝を誘う温かな光へと変質し、消え失せた。
「……消えた……? 」
アードが驚愕に立ち尽くす。
「さあ、月下狂牙の皆さん。お庭の手入れの時間です。……お利口さんに、ハサミ(断罪)を受けてくださるかしら?」
ルピナの目が、マゼンタ色に妖しく輝く。
その視線が奥の寝室に向けられた。重傷を負って横たわるカリス。彼女の魂に刻まれた「剣聖の因果」が、ルピナの瞳の中では「伸びすぎた不揃いな枝」として映っている。
カリスは夢の中で、自分を縛る鋭い刃が、一枚、また一枚と、蝶の羽のように柔らかく、色鮮やかな何かに書き換えられていく感覚を味わっていた。
それは、彼女の誇り高い剣気が「野に咲く花の香り」へと強制的に再編される、転生の予兆。
「あなたは少し、鋭すぎました。……もっと可愛らしく、ひらひらと舞うのが、お似合いですよ。皆さん、剣を全部カットするお時間です」
ルピナは微笑んだまま床にジョウロを置き、ハサミを手に取る。
その「チャキリ」という金属音が、月下狂牙のメンバーたちの耳には、世界の終焉を告げる鐘の音よりも重く、抗いようのない宣告として響き渡った。
南の大陸に咲く紅蓮の義賊たち。
その最も鋭い刃に、ついに「飼い主」という名の因果が、音もなく振り下ろされる。




