断罪-4.庭の捕食へのしつけ
土煙が晴れた後に広がっていたのは、凄惨な戦場跡ではなかった。そこにあったのは、大陸最凶の破壊者たちが、一人の女性の「お説教」の前に平伏し、物理的にも精神的にも作り替えられていくという、悪夢よりもなお奇妙な現実だった。
全大陸を震え上がらせた巨悪、ベスパ。かつて数多の都市を灰燼に帰した「煉獄の劫火」は、今やアイリス姉さんの腕の中で、アプリコット色の毛玉――ティーカップ・プードルの「ペロちゃん」として収まっていた。そのつぶらな瞳がパチパチと瞬くたびに、彼が積み上げた恐怖の歴史が、可愛らしい肉球の下に埋もれていく。
目の前で繰り広げられる光景を、僕は脳の隅々まで刻みつけながら、同時にその現実を拒絶したかった。
その光景を見た冷徹な管理者マンティは、かつてないほどの狼狽を露わにしながら一歩後退した。彼の計算された世界に、「人が犬に変わる」という数式は存在しなかったに違いない。僕と同様の拒絶反応だ。
「貴様、いい加減しつこいぞ! その胡散臭い術を解け!」
マンティが声を荒らげる。だが、アイリス姉さんはおっとりと首を傾げ、聖母のような微笑みを浮かべた。
「術? いいえ、これはただの『教育』ですよ、マンティさん。あなたのやっていることは、すべてお見通しなの。……あなたが完璧な庭を作ろうと躍起になればなるほど、そこに住む人たちは、ただの飾りに成り下がってしまう。そんなの、寂しいとは思わない?」
「教育だと? 下らん」
マンティは地面を見据え、虚ろな表情を一瞬見せたものの、すぐに独善的な屁理屈で武装した。
「オネブとネールがすでに死んだと聞いていたが、他の役立たずどもが行方不明なのは、貴様らの仕業だったというわけか。私の管理下から外れた時点で、あのような連中に存在意義などない」
その瞬間、アイリス姉さんの周囲の空気が、ガリッという音を立てて凍りついた。
「…………役立たず?」
姉さんの声が、地を這うような低い響きに変わる。その瞳は、もはや深紅を超えて、凝固した血のような昏い赤へと変色していた。その言葉は命を安売りすることを最も嫌う姉さんにとっての逆鱗。
「マンティさん……。今、あなたのために戦い、傷ついた部下たちを『役立たず』と言いましたね? ……その言葉、二度と口にできないようにしてあげましょうか?」
現場の空気が一気に「死」の色に塗り替えられる。アイリス姉さんのガチギレだ。こうなった彼女を止められる存在は、この世界には一人もいない。
「『静寂の捕食者』なんて大層な名前の組織に入って、秩序を守っているつもり? あなたがやっているのは、気に入らないものを自分のルールで削り落としているだけの、独りよがりな『掃除』です。遊び心のない庭師さんは、ただの伐採機と同じですよ?」
冷ややかな視線がマンティを射抜く。僕は思い出していた。以前、ルピナさんの庭園でアフガン・ハウンドに転生させられていた男――オーガと出会った時のことを。あの時、犬になった彼から聞き出したマンティの「完璧な再構成」という野望。その本人が今、目の前で文字通り「剪定」されようとしていた。
「傲慢なのは貴様らだ!」
マンティは折れた『エデン・シザー』を握り締め、剥き出しの殺意を叫びに変えた。
「放置すれば腐敗し、略奪を繰り返す愚民ども……。私は、やられる前にあの巨悪を潰し、世界を完璧な定規で引き直さねばならなかった! 感情という不純物を排除し、完璧に管理された世界こそが、二度と悲劇を生まない唯一の正解なのだ!」
彼の叫びには、狂気的な支配欲と共に、深い傷跡が混じっていた。略奪によって愛する両親も「庭」も失った少年の絶望が、彼を「完璧な管理」という病へと突き動かしていた。
「それが正解?あなたの身勝手なテストの答えでしょう?管理されすぎて動けなくなった庭は、死んだも同然です。……それはもう、愛じゃありません」
アイリス姉さんの言葉が、マンティの心の奥底を抉り出す。彼女はそっと懐から、一本の白い花を取り出した。それはルピナが、アフガン・ハウンドにされたオーガから預かっていたホワイトローズだった。
「……ッ!? なぜ、それを貴様が持っている……!」
マンティの瞳が激しく揺れる。それは彼が失った過去の象徴であり、そして彼を最後まで信じ、自らも庭を造ろうとしていたオーガの忠誠の証だった。しかしそれと同時にマンティのアイデンティティそのものだった。
「これを持っていた彼は、最期まであなたの『秩序』を信じていたわ。でも、見てなさい。この花、少しも笑っていない」
アイリス姉さんが指先で触れると、花の凍結が解け、瑞々しい香りが戦場に広がった。土の匂い、風の記憶、そして家族との温かな日々。管理のために捨て去ったはずの「人間らしさ」が、マンティの完璧な演算を音を立てて崩壊させていく。
「あなたは略奪を憎むあまり、自分の心さえも『略奪』して、冷たい石像にしてしまったのね。オーガさんがこの花を守り抜いたのは、あなたがいつか、この香りを思い出して笑ってくれる日を信じていたからよ。あなたの命令だからじゃないわ」
「黙れ……黙れ! 感情など、庭を腐らせる肥料に過ぎん!」
叫ぶマンティの声は震えていた。完璧な論理は、一輪の花が放つ「思い出」という不確定要素に屈したのだ。
「剪定のやり直しです、マンティさん。今度は、誰かに管理される側として、その枯れかけた心を育て直してきなさい」
アイリス姉さんが無造作に踏み込む。マンティの超人的な反射さえも、彼女の圧倒的な「主導権」の前では無効化された。いや、マンティが自ら動くことができなかったという表現が正しいのかもしれない。
「再教育が必要ね。セダさんから借りてきた『出席簿』で、じっくり学びなさい。……大丈夫、気まぐれな世界も、意外と楽しいものですよ?」
姉さんの手がマンティの額に触れる。
「変容 ―― 誇り高き秩序の主よ。あなたは、その気高さを美しい毛並みに変えて、自由という名の気まぐれを楽しみなさい」
眩い光が収まった後、地面にいたのは青い瞳をした気品あふれるシャム猫だった。かつての『静寂の捕食者』は、その神経質な性格を反映したかのような美しい猫――「ルナ」へと転生させられたのだ。
「にゃ~ん(私が猫に......)」
「あら、とっても素敵。ペロちゃんとも仲良くするのよ?」
大陸最凶の二人が、わずか数分で犬と猫に変わってしまった。僕は冷や汗を拭いながら、そっと気配を消して逃げ出そうとした。ベスパとマンティを止める仕事は終わったんだ。あとは便利屋として……。
「ルウくん……。……なんで逃げるの?」
背中に、氷のような冷気が突き刺さった。振り返ると、赤眼のアイリス姉さんが、出席簿を握りしめて微笑んでいた。
「ルウくん。あなた、さっき『殺して終わらせる』なんて言っていたわよね? 自分の命も、相手の命も、安売りしちゃダメだって、いつも言っているでしょう?」
「あ……いや、それは仕事っていうか……」
「平和のために誰かを傷つけるのは、お仕事じゃありません。あなたも、再教育が必要みたいね?」
ティーカップ・プードルのベスパ(ペロ)と、シャム猫のマンティ(ルナ)が、哀れみの視線を僕に送る。
「……さあ、ルウくん。ちゃんとお座りして? あなたの『お説教』、たっぷりと時間をかけて行いましょうね」
「あ……あああ……!」
伝説の暗殺者「ルウ」の時速400kmの脚が、恐怖で地面に縫い付けられた。僕の、長い長い「再教育」が今、始まろうとしている。
やはり、アイリス姉さんは会話が通用しない。




