断罪-2.砕け散る巨悪の自負
南の大陸で最もすさまじい光景。焦熱と鉄錆の臭いが立ち込め、移動要塞の残骸が折り重なる地獄は今まさに一人の女性に塗り替えられようとしていた。
だが今、僕の脳内には巨大な槌で殴られたような衝撃が走り、思考のすべてが真っ白に塗り潰されている。暗殺者としての冷徹な演算も、0.5秒先を視る『狼王の眼』も、たった一人の女性の登場という「理不尽」の前に、完全に処理能力を喪失していた。
瓦礫が山をなし、煙が視界を遮るその中央に、街の保育士であるアイリス姉さんが立っていた。まるで天気の良い午後に、近所の公園へ散歩にでも出かけるような、あまりにも自然で、あまりにも場違いな佇まいで。彼女が纏っているのは、殺気でも魔力でもない。彼女からは焦燥感すらも心拍数の上昇すらも感じられない。園児たちの昼寝の時間を見守るような、穏やかで、それでいて深淵のように絶対的な「静寂」だった。
「……終わった。なんて、思ってはいられない。……いや、思いたくないんだ……」
僕はガクガクと震える膝を必死に叩き、地面に深く突き刺した白狼剣の柄を支えにして、どうにか言葉を絞り出した。喉の奥が焼けるように熱い。どうしても、彼女がなぜこの「終わりの地」に辿り着いたのかを聞き出さなければ、僕の心は壊れてしまう。
一人称が「俺」から「僕」へ。戦闘モードの冷酷な仮面は、彼女の姿を網膜に捉えた瞬間に、粉々に砕け散っていた。
「なんでだ……。どうしてなんだ……。アイリス姉さん、なぜここにいる!? こんな血なまぐさい場所に……こんな地獄に来たら、姉さんは死ぬんだぞ! 流れ弾一発で、あなたのような普通の人は……!」
僕は、枯れかけた声を振り絞って叫んだ。
たとえ彼女がどれほど底知れない「魂の格」を持っていようとも、僕にとっては守るべき、何よりも尊い日常の象徴だ。彼女がこの汚れきった戦場に足を踏み入れること自体、僕にとっては自分の騎士道――暗殺者としての敗北と同義だったのだ。
「みんな聞いて。……この子が、こんなに傷ついて。とっても可哀そうだと思わない?」
「可哀そう……だと? いったい何を言っている……。貴様、正気か? 狂っているのか?」
ベスパの口から、困惑と侮蔑の混じった問いが漏れる。南の大陸を恐怖に陥れた巨悪でさえ、目の前の光景を既存の論理で処理できずにいた。
アイリス姉さんは、赤く染まった瞳……レッド・アイ・ドミナンスだ。
慈愛に満ちた、けれど背筋が凍りつくような極寒の微笑を浮かべた。そして、彼女が腕に提げていた丁寧に編まれた藁の手持かごを、僕の方へとそっと差し出した。
「え……?」
言われるがままに籠の中を覗き込んだ瞬間、僕の体感時間は完全に停止した。
そこには、艶やかな真っ黒な毛並みをした、ふわふわの一匹のウサギが丸まっていた。長い耳を力なく垂らし、ふかふかの特製クッションの上で、この戦場の喧騒が嘘のように「すやすや」と、信じられないほど安らかな寝顔で眠っている。
「この子はね? ヌーベくんっていうの。……ルウくんも、みんなで仲良く丸まればいいのに」
(……この気配、この魔力の残滓……嘘だろ。これを、あのヌーベだと言うのか……!?)
「貴様、なぜこの状況でウサギなどを持ち込んでいる! 愚弄するか!」
マンティもまた、必死の形相でアイリス姉さんに叫んだ。計算と管理を旨とする彼にとって、この非論理的な光景は生理的な嫌悪すら催させていた。
しかし、現実にそこにいるのは、藁の手持かごに収まった一匹の黒ウサギ。かつて「最悪の不可視」と恐れられ、幻術の一瞥で一軍を自滅させた白爪の参謀・ヌーベが、今や手のひらサイズの愛玩動物になり果て、平和の象徴のように眠っているのだ。
「何を言っているんだ、アイリス姉さん! あの男は、入院中のボロボロの体で、君を止めに行くと……命懸けで足止めをすると言っていたはずだ……!」
僕を「暗殺者」から「飼い猫」へと変えた彼女の支配から、僕を自由にするために。参謀であるヌーベは、プライドを捨て、死を覚悟して彼女の前に立ちはだかったはずだ。それが、なぜこんな姿に。
「あの人はね……。とっても元気よ、ルウくん。少しだけ、お行儀が悪かったけれど。今の彼には、この姿が一番似合うもの」
スタッフの仕事をサボって脱走し、アイリス姉さんの真心を「おままごと」だと断じたことへの、当然の報いなのか。いや、僕にはそれが、白爪としての矜持を貫こうとしたヌーベの『最期の叫び』が封じ込められた姿にも見えた。
白爪二人目のペット化。それは、僕たち義賊にとって、いかなる惨い死よりも深く、救いのない絶望の証明だった。
「アイリス姉さん……君は、一体何を考えているんだ……?」
僕の震える問いに答える代わりに、彼女はゆっくりと、そして重厚に視線を移動させた。
その先には、南の大陸を暴力と秩序で支配してきた二大巨悪――ベスパとマンティがいた。
彼らもまた、本能的な戦慄に囚われていた。
自分たちがどれほど多くの血を流し、どれほど強大な魔力を練り上げ、神に近い絶技を繰り出そうとも。目の前の「普通の女性」が放つ、抗いようのない威圧感の前に、指先一つ動かすことができないのだ。
「……何だ、この女は。魔力も……殺気も、何も感じないというのに……なぜ、私の因果律が、これほどまでに凍りつく……ッ!」
マンティが、血を吐きながら力なく膝をついた。計算と管理で世界を盤面のように支配してきた男の論理が、アイリス姉さんの存在そのものによって根底から否定され、崩れ去っていく。
「抜かせ……。俺は、煉獄を統べる破壊の王だ……! こんな、小娘一人に……ッ!」
ベスパが執念で右拳を握り締めようとする。だが、アイリス姉さんが「ふっ」と彼を真っ向から見据えた瞬間、彼の拳から立ち昇っていた紅蓮の業火が、まるで吹き消された蝋燭のように消失した。
「人が、一瞬で動物に変えられた」という、眼前の理不尽な現実。それが彼らの脳に焼き付いた時、彼らの中の「最強」という幻想は、安っぽいガラス細工のように粉々に砕け散ったのだ。
アイリス姉さんは、絶望に震える二人の前にゆっくりと歩み寄った。
その瞳は依然として、鮮血のような赤……『レッド・アイ・ドミナンス』のままだ。だが、その視線は彼らを「敵」としてではなく、導きを必要とする「迷える子供」として捉えていた。
「ベスパさん。マンティさん。……そして、ルウくん」
彼女の透き通るような、しかし重い声が、崩壊した要塞の静寂に響き渡る。
空を覆っていた死の暗雲が奇跡のように晴れ、夕暮れの黄金色の陽光が彼女の背後から差し込み、彼女を虹の女神、あるいは峻厳なる裁定者のように照らし出した。
「私はね、とっても悲しいの。……ヌーベさんは言っていたわ。『俺たちの生き様を邪魔するな』って。……けれど、その生き様というものが、こんなに汚れて、ただ傷つけ合うためのものだとしたら……それは、とっても寂しいことだと思わない?」
アイリス姉さんの言葉は、物理的な破壊力を超え、彼らの魂の最も深い、隠し通してきた痛みに直接訴えかけるような響きを持っていた。
「あなたたちは、自分がどれほど悪いことをしたか、わかっているのかしら? ……命を奪うことは、その人の明日を奪うだけじゃない。その人を愛していた誰かの心まで、永遠に殺してしまうということなのよ」
破壊の権化、ベスパが言葉を失い、項垂れる。
「放棄される悲しみ」を誰よりも知っていたはずの彼が、今、アイリス姉さんの言葉によって、自分が他人に与えてきた「放棄」という名の絶望の重さを、初めて真正面から突きつけられていた。
「マンティさんも。……管理をすることで、誰かの自由を奪い、人の心を機械の歯車のように扱う。それは平和ではなく、ただの『静寂という名の死』でしかないのよ」
マンティの手から、折れた鎌が音を立てて地面に転がり落ちた。
「……まずは、ベスパさん。あなたからゆっくりとお話を聞きましょう。……いいえ、お話じゃないわね。……『お説教』の、時間よ」
アイリス姉さんの背後に、般若の如き苛烈な威圧感と、聖母の如き底なしの慈愛が同時に立ち昇る。
大陸の支配者たちが、今、一人の「保育士」の前に、ただの「反省すべき生徒」として、力なく跪かされていた。
僕は、その光景をただ呆然と見つめることしかできなかった。
ヌーベが罵倒し、僕が剣を振るってまで抗おうとした、彼女の絶対的な「聖域」。
そこには、いかなる暴力も権力も通用しない。ただ、剥き出しの「善意」という名の、最も残酷で、最も温かい裁きが待っていた。
「……さあ、座りなさい。あなたたちの犯した罪を、一つずつ、その心に刻んでもらうわ」
虹の女神による、逃げ場なき「慈悲の救済」が始まった。
それは、南の大陸の歴史が塗り替えられる、最も静かで、最も恐ろしい瞬間の始まりだった。




