断罪-1.暴力の果て、静寂の「宣告」
いよいよ第5部の戦争もクライマックスを迎えることに......。
俺とカリス、ベスパとマンティがぶつかった修羅場は、原始的な生存本能と剥き出しの殺意が衝突する泥沼の様相を呈していた。
マンティが誇った、原子の隙間さえ切り裂く神の剪定具『エデン・シザー』は、俺の白狼剣によって叩き折られてその機能を失い、ベスパが掲げていた、触れるものすべてをプラズマ化させる王杓『デス・スティンガー』も、自身の魔力過負荷に耐えきれずひび割れ、ただの融点を超えて溶解した金属の塊へと成り下がっていた。
視界が、じわりと真っ赤に染まっていく。脇腹の深い裂傷から溢れ出す血のせいか、それとも極限状態の脳が沸騰しているせいか、自分でも判然としない。数時間が経過したのか、それともまだ数分足らずの出来事なのか。三半規管はとっくに破壊され、立っているのが不思議なほど平衡感覚は失われている。だが、俺の魂だけは、凍てつくような静寂の中で、かつてないほど鋭く、青白く燃え上がっていた。
「カリス、下がっていろ。ルビとフロスは……ゴフッ……まだ息がある。彼らを連れて、一刻も早くここを離れるんだ。……ここからは、俺の『個』としてのケジメだ」
震える脚を執念だけで地面に縫い付け、抗いようのない殺意を込めて俺は告げた。カリスを戦線から外すのは、重傷を負った仲間を確実に救出させるため。……そして何より、この二人の「巨悪」と対峙し、その歪んだ魂を叩き潰すのは、組織のリーダーでも伝説の暗殺者でもない、ただの便利屋であり一人の男である「俺」の役割だと、本能が叫んでいたからだ。
「……分かりました。貴方の『俺』がそう決めたのなら。……露払いの雑兵は、私が責任を持って剪定しておきましょう。ご武運を、リーダー」
カリスがマゼンタ色の残光を残し、一陣の風となって距離を取る。それを見届けた瞬間、俺は手にした二振りの白狼剣を、迷いなく瓦礫の山へと深く突き刺した。
「……武器など、もう不要だ。お前たちのその、虫唾が走るほど歪んだ矜持……俺のこの拳で、直接ブチ壊してやる」
剥き出しの拳を、骨が鳴るほどに握り込む。444人リストに名を連ね、国家を揺るがす魔王や勇者さえも凌駕する超重要国際指名手配犯たちによる、理性も技術もかなぐり捨てた、凄まじい「殺し合い」が再び幕を開けた。
地を蹴る。もはや時速400kmという神速の加速に耐えられるほど、肉体の細胞は残っていない。だが、アドレナリンが限界値を突破し、強制的に痛覚を遮断していた。
俺の超高速の掌打が、ベスパの熱を帯びた厚い胸板を正確に射抜く。
「ガハッ……!」
破壊神と呼ばれた男がたじろぐ。だがその直後、マンティの針のように鋭い貫手が、俺の肩の肉を深く、無慈悲に貫通した。
「くたばれ……ッ!」
俺は熱い飛沫を撒き散らしながら叫び、マンティの腕を掴んで強引に引き寄せる。そこへ、ベスパの熱核エネルギーを宿したパンチが、マンティの顔面を真っ向から捉えた。鼻骨が砕け、顔面が歪む嫌な音が、荒れ狂う暴風の中で響き渡る。
(速すぎる……! だが、俺の『狼王の眼』は、この極限の混沌ですら、すべてを視ているぞ!)
0.5秒先の未来。ベスパが怒りに任せて振り回す重い拳の軌道。マンティが冷徹に狙う神経節への一撃。それら全てを脳内でシミュレートし、最小限の回避動作で「死」をすり抜けながら、ベスパの脇腹に強烈なボディを叩き込み、返り際にマンティの急所へ膝蹴りを突き上げる。
三人の体温と殺気が激突し、周囲の空気は物理的な限界を超えてプラズマ化していた。紫色の放電が三人の影を不気味に、そして神々しく照らし出し、余波となる衝撃波が周囲の瓦礫をさらに細かな塵へと変え、空間そのものを削り取っていく。
息が続かない。肺が熱い。吸い込む空気そのものが刃のように喉を焼く。
血を吐き、ボロボロになった三人は、膝を突き、よろめきながらも、互いにドロドロとした呪詛を吐きかけた。
「……管理、管理と、さっきからやかましいんだよ! お前のその、反吐が出るほど気取った庭なんてな、俺がションベンかけて全部枯らしてやるよ、このカマキリ男が!」
ベスパが醜悪な顔を歪め、千切れかけた服の袖で口元の血を乱暴に拭いながら吐き捨てる。その瞳には、未だ衰えぬ破壊の衝動が宿っている。
「……野蛮な破壊衝動しか持たぬ、度し難いゴミが......。貴方の存在そのものが、この美しき世界の『バグ』であり、不純物なのだ。早く灰にすら残らず消えたまえ、この不潔な害虫め」
マンティは氷のように冷徹な声で返す。その眼は、満身創痍の今なお、俺とベスパを「不燃ゴミ」として効率的に処理することしか考えていないようだった。
「二人とも、いい加減にしろ!!」
俺の怒号が、二人の醜い罵り合いを切り裂いた。いくら俺の体が奴らより小さかろうが関係ない。ボロボロになった喉から血を吐き出しながらも、俺は吠えた。
「放棄だの管理だの、そんな、後付けの小難しい理屈で人を殺して回るんじゃねえ! ……お前たちは、ただの『寂しがり屋のガキ』なんだよ! 誰かに認めてほしくて、誰かに構ってほしくて、世界を巨大な玩具にして暴れてるだけだ! 自分の過去に甘えてんじゃねえぞ!!」
「……ハッ、甘えてるだと? 3万人以上を刈り取った『最悪の終焉』が、今さら聖人君子の真似事かよ! 笑わせるな、義賊の底辺が!」
「……お前にだけは、口が裂けても言われたくはない……! 他人の因果に土足で踏み込む、お節介な……倒産間近の便利屋風情のチビが……!」
罵倒の応酬と共に、再び三人の拳が、牙が、交錯する。
だが、その時だった。崩壊し、燃え盛る要塞の空から、この世の終わりのような光景には絶望的なまでに不釣り合いな、「穏やか」で、不自然なほどに美しい花の香りが漂ってきた。
三人の殺気は、ついに臨界点を突破しようとしていた。
ベスパは右拳に全魔力を集約し、太陽の黒点を凝縮したような黒赤い光を纏わせる。
マンティは折れた鎌を数万の魔力糸で繋ぎ合わせ、空間の概念ごと断ち切る巨大な断頭刃を形成する。
俺は『狼王の眼』を最大出力で稼働させ、その両方の「急所」を同時に射貫く、全霊の一撃を放とうと、全身の筋肉をバネのようにしならせた。
「お前らを殺して……この不毛な戦争を、今ここで終わらせる……! 死ねッ!!」
俺が地面を爆砕して踏み込んだ、その瞬間。
世界の「音」が、完全に消失した。
激突するはずだった俺たちの拳が、真空の中で目に見えない不可視の「壁」に遮られたように、ピタリと、不自然なほど静止する。空を覆い尽くしていた禍々しい黒煙が、まるで神の指先でなぞられたように左右に割れ、そこから一筋の、暖かな光が降り注いだ。
その光と共に、戦場を満たしたのは、煮え滾る鉄や血生臭い死の臭いとは無縁の、のんきな「カモミールの香り」だった。
「おいおい、嘘だろ……。なんで……なんで、ここに居るんだよ……」
俺の背筋に、ベスパやマンティのどんな絶技を受けても感じたことのない、根源的な戦慄が走り抜けた。
視界の端。高く積み上がった瓦礫の山の上に、透き通るような水色の髪を優雅に揺らし、聖母のようにおっとりと微笑む「彼女」が立っていた。
「あらあら、ルウくん。ずいぶん泥だらけじゃない。お洋服もボロボロにして。……そんなに悪い子たちと激しい喧嘩をしちゃ、めっ、ですよ?」
アイリス姉さんだ。彼女の両手には、丁寧に編まれた藁の手持かごが二つ。まるで今からピクニックにでも行くかのような、あまりにも場違いな装い。
獣化解除の薬の効果、そのタイムリミットまではあと4日あるはずだった。計画では、彼女たちがここに到達することなど、万に一つも有り得ないはずだった。
そのとき俺の脳裏に、短いようでいて永遠のように眠っていた記憶がフラッシュバックした。
数日前、アイリス姉さんはルピナさんと「女子会」を開いていたはずだ。そこで彼女たちが、穏やかな笑顔のまま語り合っていた「巨悪への効果的なしつけ方」という、背筋の凍るような冗談の数々を。
そして、かつて彼女が、アニルを殺害したあのマンティを単身で撃退したという、悪夢のような事実を。
(闇医者のもとに入院したヌーベが、死に物狂いで彼女たちを足止めしていたはずなのに……! なぜ……!?)
ヌーベ。参謀として、俺とフォルト、アストの脱走を命懸けで助けてくれた最高の相棒。彼が命に代えても彼女たちを遠ざけていたはずなのに、彼女は今ここに、まるで近所の公園を散歩しているような足取りで立っている。……ということは、知略を尽くしたヌーベでさえ、既に「断罪」の果てに屈したというのか?
これからどう挽回し、この場を切り抜けるべきか。脳内で数万通りの戦術シミュレーションを走らせようとしたが、それは瞬時に無意味な砂の山へと帰す。
――今更思い出したところで、もう全てが遅すぎたのだ。俺は、アイリス姉さんが追ってきていないことを「前提」にして、目の前の二人を殺害する計算をしていた。その前提そのものが、彼女という絶対者の前では、砂上の楼閣に過ぎなかったことを初めて思い知らされる。
「誰だ……一般人風情が……。俺の邪魔を……するな……」
息も絶え絶えのベスパが、重苦しく血を吐きながらも、威圧しようと口を開いた。
「また貴様か……ゴフッ……。しつこいにも程がある……私を追うなど……いい加減にしてほしい……」
マンティもまた、肺から漏れるような音と共に血を吐きながら、かろうじてその場に立っていた。ベスパも同様に、全身を痙攣させながらアイリスを睨みつける。
だが、愚かな彼らはまだ気づいていない。
自分たちが「南の大陸で最も恐ろしい存在」だと自惚れていたその自負が、目の前で微笑む「一人の保育士」を前にして、いかに脆弱で、滑稽な幻想であるかを。
アイリス姉さんの、穏やかで慈愛に満ちた水色の瞳が、ゆっくりと、逃れようのない速度で俺たち三人を捉える。
その刹那、彼女の瞳が、深淵より深い鮮血のような「赤」へと変色した。
「……身近な人が、自分の命を安売りして、あんなに大切にしていたはずの体で、誰かを傷つけている。……私、とっても、とっても悲しいわ。ねえ、あなたたち。……自分が今、どれほど悪いことをしたか、ちゃーんと、頭でわかっているのかしら?」
アイリス姉さんから放たれたのは、洗練された魔法でも、血を滲ませた物理スキルでもない。この世の全生命が抗い得ない、魂の格の差による「絶対君臨」のプレッシャー。
先ほどまで世界を焦土に変えようとしていたベスパとマンティの顔が、生まれて初めて見る「本物の捕食者」を前にして、見るに堪えないほど恐怖で引き攣っていく。
俺は、全てを悟った。
足止めなんて、最初から無駄な足掻きだったんだ。この大陸において、彼女という飼い主の手のひらから逃げおおせるペット(ルウ)も、その遊び相手(巨悪)も、最初から存在しなかったのだ。
「……ああ、終わった。全部終わったよ……」
俺は、力なく地面に膝をついた。それは、目の前の巨悪たちに敗北したからではない。
「世界で一番見られたくない人物」に、自分の「一番見られたくない、血生臭い本性」を、最悪のタイミングで見られてしまったことへの、絶望的なまでの降参だった。
アイリス姉さんの影が、赤く染まった夕陽を背に、俺たちの頭上を覆い尽くしていく。
俺の脳裏をよぎったのは、これから始まるであろう「しつけ」の時間への、言葉にできない恐怖だけだった。




