戦塵-1.亡霊の矢と裁断の鋏
――僕とカリスがベスパとマンティと争い始めた一方、アストは一人、カリスとはぐれながらも戦場でベスパとマンティの兵士たちを蹂躙していた。
移動要塞『アバドン』が断末魔を上げて墜落し、戦場はさらなる混沌へと突き落とされていた。墜落の衝撃によるクレーターからは未だに高熱の蒸気が噴き出し、空は舞い上がった灰で灰色に濁っている。
その地獄の門が開いたかのような荒野で、二大組織の残党たちが狂ったようにぶつかり合っていた。
舞い上がった灰の中でも前線へ突撃しようとしたり、パニックに陥ったり、無理やりにでも乱射しようとする二大組織の兵士たち。墜落した地面の中でも雄たけびを上げる猛者たちが数名いる。
「野郎ども! 縮んでんじゃねえ! 要塞が落ちたぐらいで『冥府の羽音』が終わるかよ! 全員ぶっ飛ばせ!」
咆哮したのは、ベスパの側近であり、組織内でも随一の武闘派として知られるビルだ。筋骨隆々の肉体から放たれる『煉獄拳』が空振るたびに、周囲の空間が爆ぜ、巻き込まれた兵士たちが肉塊となって飛散する。彼にとって部下は使い捨ての駒に過ぎないが、その「駒」を効率的に使い潰すための野心だけは誰よりも熱く燃えていた。
「ベスパの兵士……。どいつもこいつも、下品な熱を撒き散らすゴミだな」
対照的に、冷徹な毒気を周囲に漂わせているのは『静寂の捕食者』の幹部、エルバだ。マンティ直属の薬剤師としての知識を殺戮に転用し、彼の手から放たれる揮発性毒ガスは、触れた生命の色彩を奪い、死の白へと脱色していく。彼が歩いた後には、苦悶の表情を浮かべたまま「真っ白」に干からびた死体の山が築かれていた。
その混沌のただ中を、翠色の閃光が駆け抜ける。
「あいつら、あの墜落でまだ生きてんのか? まったく、どいつもこいつも化け物揃いだぜ」
アストは、墜落の衝撃で離れ離れになったカリスの行方を気にかけながらも、眼前に迫る『冥府の羽音』の重装歩兵軍団を冷ややかに見下ろした。彼は今、地上での近接戦闘を余儀なくされていたが、その動きはもはや「弓使い」の範疇を遥かに逸脱している。
魔弓『風切の翼』を近接兵装として扱い、弦のない弓身で敵の首を刈り、零距離で魔力の矢を眉間に叩き込む。
「悪いが、俺は機嫌が悪いんだ。……自由な風を汚す不純物は、まとめて土に還れ」
アストの周囲では、物理法則を無視した殺戮が行われていた。彼の『千里眼』は、乱戦の中に潜む全ての魔力の流れと熱源を完全に捕捉している。敵が引き金に指をかける前に、その指はアストの矢によって消し飛ばされ、死角から迫る刃は、地面から急成長させた木の根によって阻まれる。
その姿は、かつて森の守護神と呼ばれた頃の「天空の亡霊」そのもの。国家規模の軍隊を一晩で肥料に変えた絶望の象徴が、今、荒野でその牙を剥いていた。魔王や勇者といった既存の強者の定義すら、彼にとっては「少し手応えのある標的」に過ぎない。
だが、その蹂躙を止める影が一つ、音もなくアストの背後に現れた。
「……随分と荒れた庭だな。剪定のしがいがあるというものだ」
アストの『千里眼』が、背後に生じた異常な「虚無」を察知する。反射的に跳躍して間合いを取ったアストの眼前で、先ほどまで彼が立っていた空間が、巨大な銀の刃によって「切り取られた」。
現れたのは、白い正装に身を包んだ男。巨大な裁断鋏を悠然と構える、マンティの直属幹部ルードだ。
「貴様も『剪定』されたいのか? 翠の亡霊」
ルードの瞳には、マンティと同じく冷徹な「秩序」への固執が宿っている。彼にとって、略奪を行う腐敗貴族も、それを裁くと言い張る義賊も、等しく「管理されるべき雑草」でしかない。
「ハッ、一番気に入らないタイプの義賊気取りじゃねえか。お前はその鋏で自慢の立派なヒゲでも切っとけよ」
アストは口角を歪め、弓を構え直した。マンティの「無」とはまた違う、ルードが放つ「高貴」という名の傲慢な魔力。それがアストの「自由」という矜持と激しく反発する。
「お前ら『庭師』の連中は、どいつもこいつも型にハメたがる。だがな、風ってのは誰にも縛られねえから風なんだよ。お前のそのデカいハサミで、空が切れると思ってんのか?」
「空を切る必要はない。その翼を切り落とせば、お前はただの土塊だ。……安心しろ、痛みを感じる暇もなく、美しく整えてやろう」
激突は刹那だった。
ルードが巨大な裁断鋏を力任せに振るう。それは単なる物理的な斬撃ではない。鋏の刃が閉じる瞬間、その空間に存在する「因果」そのものを断ち切る絶対的な切断だ。
「『白銀の裁断』!」
鋏の持ち手の両方に取り付けられた刃はもはや空間をも食らう肉食獣の咬合。胴体を両断されてしまえば、アストの体はただの餌になるのも同然だ。
アストは『環境同化』を瞬時に発動し、空気の屈折率を操作して自身の残像を残す。本物の体は、ルードの鋏の隙間を縫うようにして上空へ。
「『緑界創生・風切の双翼』!」
空中で形成された二本の巨大な翠の光矢が、ドリル状に回転しながらルードへ降り注ぐ。地脈から吸い上げた魔力を上乗せしたその威力は、一撃で城塞を粉砕する規模だ。
しかし、ルードは動じない。彼は鋏を広げ、迫りくる光の激流を「正面から挟み込んだ」。
「……剪定」
キンッ、という耳鳴りのような音が響き、アストの最強の矢は、まるでもろい枝でも切られるかのように、ルードの鋏の間で四散した。
「……何ッ!?」
「私の鋏に、斬れぬ枝はない。お前の魔力、お前の意志、その全てが私の管理下にある」
ルードは地面を蹴り、アストの懐へと肉薄する。巨大な鋏は、近距離では防ぐ術のない処刑具と化す。アストは弓身を盾にするが、ルードの繰り出す変幻自在なハサミの機動に、少しずつ翠の武装が切り裂かれていく。
戦場は加熱し、ビルやエルバの咆哮、そしてアストとルードの金属音が交錯する、まさに南の大陸の歴史の転換点。誰もがこの戦いの先に「勝利」か「死」しかないと信じて疑わなかった。
しかし。
この凄まじい「非日常」の極地から、わずか数キロ離れた森の境界線。
そこには、スコップを片手に、のんびりとハーブの種を植えている一人の女性がいた。
「あらあら、今日はなんだか賑やかね。あっちの方は、少し風が荒れているみたい」
武力もなんも持たない常人ならこんな血なまぐさい場所を見ただけでも逃げ出してしまう。たとえ獣であろうと大パニックは間違いなしだ。
しかし理論上の戦闘力ゼロのピセアは、戦場から伝わってくる、山を消し飛ばしかねない膨大な殺意の波動を感じ取っても、眉一つ動かさなかった。彼女にとって、444人リストに載るような暗殺者たちの意地も、国家を揺るがす野望も、庭に生える雑草の勢いが少し強い程度の認識でしかない。
「困ったわね。あんなに土を荒らされちゃうと、来年の薬草の育ちに響いちゃうわ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、エプロンの土を払った。その背後のカゴには、既に「収穫」された一匹のロップイヤー、そして一匹のチンチラが借りてきた猫……もとい、借りてきたウサギのように大人しく収まり、もぐもぐかじっている。
ピセアは、戦場の方角を見つめて、おっとりと微笑んだ。
「少し、お掃除をしに行きましょうか。……元気すぎる子たちは、みんな『ふわふわ』にしてあげないとね」
伝説の『調律師』が、その圧倒的な「日常」を携えて歩み出す。
アストも、ルードも、そして狂奔するビルやエルバも。
自分たちの背後に、戦場の全ての熱量を「毛の柔らかさ」へと変換してしまう絶望的なまでの包容力が迫っていることに、まだ誰も気づいていなかった。
アストの放つ翠の矢が空を裂き、ルードの裁断鋏が大地を切り取る。
二人の暗殺者が、誇りを懸けて最後の一撃を放とうとしたその瞬間、戦場の空気は、急速に「ハーブの香り」へと塗り替えられていく――。




