要塞-2.絶望の二律背反
成層圏を切り裂いて進む移動要塞『アバドン』の最上部デッキ。そこはもはや、地上の法も理も通用しない、神話の断罪場と化していた。高度数千メートルを吹き抜ける猛風は、二人の怪物が放つ魔圧によって瞬時に灼熱のプラズマへと変質し、真空に近い大気が絶叫のような衝撃波を撒き散らしている。
マンティが指先から放つ「不可視の魔力糸」は、一本一本が龍の鱗さえ容易く断つ超高密度の断裁線だ。それが蜘蛛の巣のようにデッキ全域を埋め尽くし、ベスパの強靭な四肢を絡め取っていた。ダイヤモンドの硬度を凌駕する魔糸が、ベスパの重装甲を、そして鋼鉄以上の密度を持つ筋肉を、ミリ単位で「解体」していく。
肉を削ぐ不快な音が響き、傷口からは鮮血が噴き出すが、それは空中に舞う前に蒸発した。
破壊の化身、ベスパ。彼は一歩も引かなかった。
それどころか、肉を裂かれる激痛を、彼は最上の「燃料」としていた。かつて、自分を裏切った世界に対する憎悪が、血管の中を走る魔力と混ざり合い、核融合にも似た暴走を始める。
「糸か……。 この程度の『繋がり』で、俺の熱を繋ぎとめられると思いきや大間違いだ。庭師、貴様のその細い糸ごと、因果のすべてを焼き切ってやる!」
ベスパの咆哮と共に、彼の全身に刻まれた魔力回路が、赤黒い光を放ちながら限界を超えて逆流を始めた。
『終焉の煉獄・プロミネンス・アーマー』
刹那、ベスパの体温は太陽の表面温度に匹敵する数千万度に到達した。
物理的な「接触」そのものが死を意味する領域。周囲の酸素は断熱圧縮と超高温によって一瞬で電離し、彼を拘束していた魔力糸は、マンティが術式を維持する暇もなく、構造そのものが「蒸発」して消滅した。
――パァンッ!!
空間そのものが耐えきれずに弾ける凄まじい衝撃波が走り、要塞の巨大な装甲デッキが飴細工のようにぐにゃりと歪む。ベスパはそのまま、自身の肉体そのものを巨大な熱核弾頭へと変貌させ、マンティに向けて突進した。彼が踏みしめた足跡はドロドロの溶岩と化し、通り過ぎた後の大気は絶望的なまでの熱風となって、要塞の艦橋をドミノ倒しに溶かし去っていく。
「熱い。……脳漿が沸騰しそうな熱量だ。だが、この程度で私が『燃えカス』という不純物になることはない……」
マンティは、その地獄のような熱波の中でも、冬の湖面のように冷静だった。ドロドロに溶け崩れようとする要塞の残骸。足場は常に流動し、一歩間違えれば数千メートルの虚空へ真っ逆さまだ。しかし、彼は重力という物理法則そのものを嘲笑うかのように、垂直に直立したまま、不可視の糸を空中に編んで足場を作り出していた。
彼は音もなく後退しながら、一対の巨大な処刑鎌『エデン・シザー』を交差させる。ベスパの放つ、一撃で都市を消滅させるほどの灼熱の拳を、マンティは最小限の、美しくさえある動きで「受け流し」ていた。
刃と拳が衝突するたび、天空に巨大な雷鳴が轟き、その余波だけでアバドンの高度が数百メートル単位で急降下する。
だが、マンティの無機質な瞳は、戦闘の最中にあっても常にベスパの「瞳」の奥を、その精神の深淵を真っ向から捉えていた。
「ベスパ。……お前は表向きでは『利権』や『国家転覆』といった世俗的な野望を掲げ、この大陸を支配しようとしている。略奪と破壊の果てに、新たな強者の秩序を築く王として振舞っているが……」
マンティの声は、爆発音と烈風の中でも、まるで鼓膜の裏側に直接刻まれるかのように明瞭に響いた。
「利権が欲しいと言っておきながら、お前は最後には手に入れたはずの都市をすべて自爆させ、灰にしようとしている。資源も、人間も、土地さえも。お前は、一欠片の未来すらこの世界に残そうとしていない」
マンティの処刑鎌が、ベスパの持つ黄金の王杓と激しく火花を散らし、互いの顔が触れ合うほどの距離で拮抗する。
「お前の本当の目的は何だ? 略奪でも、ましてや支配でもない。……お前が行っているのは、ただの『この世からの完全な撤収』だ。生存という舞台そのものを焼き払って更地にする……。違うか?」
「……黙れ、庭師ッ!!」
ベスパの顔が、怒りと憎悪で歪んだ。その形相はもはや人のものではなく、憤怒の魔神そのものだ。
「貴様こそ、俺の計画への契約相手を勝手になんの意味もなく切り捨てただろうが!奴を利用して搾取しようとした報いだぞ!!俺の美学を、貴様の身勝手な管理という名の薄汚い物差しで測るな!!自分の庭だの管理だの、屁理屈をこねる貴様こそがこの大陸の汚点だ!!」
ベスパの王杓『デス・スティンガー』が、全魔力を込めて振り下ろされる。マンティは不可視の糸を幾重にも重ねて多層防壁を構築するが、太陽の質量を宿したかのような一撃の前では、空間防御すら紙細工のように消し飛ぶ。
王杓がデッキを叩き潰すたび、要塞内部の気密隔壁が次々と破裂し、アバドンは断末魔のような駆動音を上げた。
吹き飛ばされたマンティは、空中を飛散する瓦礫を足場に、ダンスを踊るような優雅さで着地した。しかし、その瞳にはいまだ感情の揺らぎはない。
「質問の答えになっていないぞ......」
マンティとベスパが一歩間違えれば即死という超がつくほど絶望的な状況下で厳かに問う。
「もう一度言おう、お前は、なぜそこまでして『すべて』を消し去りたがる。お前の本当の目的は何だと聞いている!」
マンティの静かな問いは、ベスパの深層心理に突き刺さった。
その問いを拒絶するかのように、ベスパの周囲で熱せられた酸素が猛烈な爆発を繰り返す。彼の体表温度はさらに上昇し、鎧の装甲は白熱し、もはや視認することさえ困難な閃光と化していく。
「目的だと……? 教えてやる。俺が憎いのは、汚れそのものじゃない。……『放置されている』という、その耐え難い事実だけだ!!」
ベスパの脳裏に、数十年経っても一秒たりとも色褪せない「地獄」が蘇る。
燃える故郷。自分を愛していたはずの両親が、保身のために貴族の馬車へ飛び乗り、幼い自分を戦火の中に、まるでゴミのように『放棄』した、あの冷たい午後。
唯一の宝物だった、貧しい父が削ってくれた不格好な木彫りの人形。それさえも、名もなき敗残兵に笑いながら足蹴にされ、暖を取るための焚き木にされた、あの絶望の瞬間。
「親に捨てられ、神に忘れられ、誰の手にも触れられずに腐っていく命……。そんな無能な『放置』を許すこの世界を、俺が責任を持って、俺の手で『放棄』してやるだけだ!!」
ベスパの破壊衝動は、低俗な支配欲などではない。
自身が味わった「孤独」という名の放棄に対する、世界への究極の報復。
「守れぬ愛や管理できぬ絆に価値はない」。ならば、何者かに無惨に見捨てられる前に、自らの意志ですべてを焼き尽くし、絶対的な「無」へ帰すことこそが、彼にとって唯一の、そして最も誠実な「救済」なのだ。
「誰にも……二度と俺を、この世界を『放置』させはしない!!すべてを俺が焼き尽くし、誰の所有物でもない『無』へと変えてやる!!」
ベスパの魂の叫びに対し、マンティはただ一言、憐れみすら感じさせない平坦なトーンで返した。
「……理解不能だ。不要なものは、ただ消せばいい。お前のやり方は、あまりに感情的で……無意味なコストがかかりすぎている。そして、……あまりに悲しい」
マンティにとって、感情とは効率を阻害するノイズに過ぎない。
略奪者も、被害者も、結局は等しくこの世界の調和を乱す「害虫」であり、そこにある個別のドラマなど、剪定されるべき枝葉の一部に過ぎないのだ。
「略奪者など、どいつもこいつも結局は感情の塊に過ぎない。……管理されるべき雑草としては、いささか美しさに欠けるな」
マンティは、完全に光を失った「管理者の瞳」でベスパを観測し、エデン・シザーを十字に構え直した。
『略奪者の選別』
マンティの視界の中で、ベスパの無敵とも思える熱核の肉体が「透過」される。
装甲の隙間、激昂によって乱れた魔力の奔流。そして、幼少期の記憶という呪縛に固執する精神的な「脆い急所」が、鮮明なひび割れとして浮かび上がる。
対するベスパは、狂気と純粋な情熱が混ざり合った、この世ならぬ笑みを浮かべた。
全身の血管を流れるのは血液ではなく、流動する超高圧の炎。王杓の先端からは、光さえも歪ませ、あらゆる物質の分子結合を崩壊させる漆黒の超高熱線が収束していく。
「悲しいだと? 抜かせ、管理者! 貴様のその、反吐が出るほど凍てついた『静寂』ごと……、この世界のすべてを俺が、今ここで終わりにしてやる!!」
-----
天空の移動要塞アバドン、その頂上。
一方は、凍てつく静寂と完璧な秩序を掲げる「剪定者」。
一方は、すべてを焼き尽くし虚無へ帰そうとする「放棄者」。
二つの、決して交わることのない絶望的な意志が、互いの存在理由を懸けて最大出力で激突しようとしていた。
その凄まじいプレッシャーは、厚い装甲を貫き、要塞内部を死に物狂いで駆けるルウたちにも、背筋を凍らせるような「終わりの予感」として伝わっていく。
「(……来るぞ! この要塞、もう持たないぞ!!)」
ルウが心の中で叫ぶ。
地上が豆粒のように見える成層圏で、今、南の大陸の命運を……いや、この世界の在り方そのものを左右する「最悪の激突」が始まろうとしていた。




