要塞-1.処刑鎌と獄炎の王杓
雲を突き抜け、高度数千メートルへと達した移動要塞『アバドン』。その最上階展望デッキは、荒れ狂う暴風と、薄い空気がもたらす死の静寂に支配されていた。
そこへ、一筋の黒い影が重力を無視して舞い上がった。
彼は不可視の糸を空中要塞の柵にひっかけてアクロバティックな動きで見事に侵入した。
漆黒の魔力を纏い、音もなく着地したのはマンティ。乱れた呼吸一つなく、完璧に整えられた紳士の如き所作で、彼はベスパの前に立った。
「すさまじい跳躍力か。馬鹿にはできんな、カマキリ男」
ベスパは巨大な王杓『デス・スティンガー』を肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべた。彼の周囲の空気は数万度の熱量で歪み、デッキの装甲板がドロドロと溶け始めている。デッキの装甲板はもはや融点から沸点を超えて今にも気体へと蒸発しそうな勢いだ。
マンティは手にした仕込み杖を静かに展開した。現れたのは、カマキリの鎌を模した双鎌、処刑鎌『エデン・シザー』。その極薄の刃は、吹き荒れる暴風さえも抵抗なく両断し、鈍い銀光を放っている。
「ベスパ。貴方の存在は、この世界の美観を著しく損ねる『最大の雑草』です。秩序なき放棄、管理なき破壊。私がここで根こそぎ剪定しましょう」
「……ハッ! 管理された庭など反吐が出る。俺の炎に焼かれ、灰になるのがお似合いだ、管理者!」
南の大陸を恐怖で支配してきた二大組織の首領。
「絶対秩序」と「絶対放棄」。相容れぬ二つの極致が、天上の舞台でついに激突した。
先手を取ったのはベスパだった。
彼は王杓を力任せに振り抜き、万物をプラズマ化させる白銀のプロミネンスを解き放つ。
「消えろ、ゴミが!」
熱波がデッキをなぎ払い、視界の全てが白く染まる。しかし、マンティの姿は既にそこにはない。
「……遅い。貴方の動きは、既に私の演算の中で停止している」
マンティは心拍も体温も、魔力の揺らぎさえも「ゼロ」に固定した。彼はもはや生物ではない。ただの「風景の一部」となり、ベスパの猛火を最小限の予備動作だけで回避。炎の渦をすり抜けるように、ベスパの懐へと滑り込んだ。
そして、すれ違いざまに『エデン・シザー』を一閃させる。
「(……!?)」
ベスパの瞳に驚愕が走った。
彼の肉体は、勇者の聖剣すら胸元で受け止める「金剛の肉体」だ。さらには数万度の熱障壁が物理攻撃を蒸発させるはずだった。しかし、マンティの刃は、それらの防御をまるで存在しないかのように透過した。
斬られた感覚がない。
抵抗も、痛みも、音すらない。
ベスパが傷口を自覚したのは、数秒遅れて自身の脇腹から鮮血が噴き出した瞬間だった。原子の隙間を滑るように切り裂くマンティの刃は、切断面があまりにも平滑であるため、肉体が「斬られたこと」に気づくことさえ遅らせるのだ。
「防御という概念に頼るから、綻びが出る。……不完全なお前は、剪定される運命にある」
「……チッ、小賢しい真似を。だが、掠り傷だ!」
ベスパは溢れ出る血を、自らの熱量で瞬時に焼き塞ぐ。しかし、マンティの追撃は肉体的なダメージだけに留まらなかった。
「お前の熱は、騒がしすぎる。少しは静かに過ごしなさい」
マンティが指をパチンと鳴らす。
その瞬間、世界から全ての「音」と「色」が剥ぎ取られた。
『停滞する銀世界』。
ベスパの視界は、白と黒、そして灰色だけの無機質な空間に変貌した。吹き荒れていた暴風の音も、要塞の駆動音も聞こえない。自身の心音すら聞こえない完全な感覚遮断状態。
さらに、先ほど斬られた脇腹から、凍りつくような「停滞」の感覚が全身に広がり始める。
「……傷口の時間が止まっている。……いや、違う。マンティが指を鳴らした瞬間に、停止していたダメージが一気に爆発し、因果が『確定』するのか……!」
ベスパは自らの身体が内側から崩壊し始める予感に、狂気混じりの不敵な笑みを漏らした。五感を奪われ、時間の連続性すら奪われる領域。普通の人間なら絶望に狂うところだが、破壊神ベスパにとっては、それさえも「焼き払うべき不純物」に過ぎない。
「感覚がないなら、全てを焼き尽くすのみ! 停滞など、俺の『放棄』という名の加速が食い破ってやる!」
ベスパの体温が爆発的に上昇する。モノクロームの世界に、彼を中心に紅蓮の亀裂が走り始めた。
ベスパの全身から溢れ出る熱量が、マンティの銀世界を内側から無理やり焼き溶かし始める。熱が「色」を、咆哮が「音」を取り戻そうと荒れ狂う。
しかし、マンティは冷徹な演算を止めていなかった。彼は双鎌を振るいながら、もう一つの罠を完成させていた。
「……気づくのが遅すぎましたね」
マンティが指先を僅かに動かす。
その瞬間、ベスパの周囲の空間が、キラリと銀色に光った。
ダイヤモンドをも断つ「不可視の魔力糸」。
それが、デッキ全域を緻密な蜘蛛の巣のように覆い尽くしていたのだ。ベスパが熱量で空間を歪ませれば歪ませるほど、その熱に反応して糸は強度を増し、彼の肉体を縛り上げる。
「マンティめ、デッキに乗り込んできたときからそれを出して囲んでいたのか、だがこの程度で追い詰められたと思い込むな......!」
「いや、チェックメイトだ。一歩でも動けば、お前の身体は数百の賽の目に切り分けられる。……美しく整えられた『遺体』として、我が庭の礎になりたまえ」
「……ハッ! 面白い。この糸ごと、貴様を地獄へ連れて行ってやる!」
ベスパはマンティの不可視の魔糸の熱に反応する能力を逆手に取り、王杓の温度を上げなかった。無理矢理にでも鋏のようにチョキンと切断した。
物理的な破壊の権化と、計算され尽くした処刑の極致。
二人の怪物が、互いの命を削り合う死の舞踏。
その衝撃で要塞のデッキが軋み、天上の空が激しく明滅する。
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その頃、デッキの真下――要塞内部の居住エリアに、三つの影が音もなく滑り込んでいた。
その三人は俺ことルウ、ルビ、フロスだ。
居住エリアはもはや鋼鉄よりも強度の高い無機質な廊下だが、その道は迷路のようにも入り組んでいる。
「……すごい振動だな。上で何が起きてるんだ?」
俺は、足元から伝わってくる不規則な衝撃と、鼓膜にも伝わる遮断された爆発音に眉を潜めた。
ルビは巨大な大太刀『紅蓮石』を背負い、フロスは鞭剣『散花』を携えて要塞の奥へと急いでいる。
「この気配、ベスパとマンティがやり合い始めたか。あんなバケモノ二人が本気を出せば、この要塞が墜ちるのも時間の問題だ。急ごう、ルウ」
気配を感じたフロスが冷徹に告げる。
彼らは外壁の通気口から侵入し、既に中枢エリアへの入り口にまで辿り着いていた。二人のボスが互いの首を狙って死闘を繰り広げている今、内部の警備は手薄になっているはず――。
しかし、曲がり角を抜けた瞬間、ルウの『狼王の眼』が、通路の影に潜む殺意を捉えた。
「――止まれ! ルビ、フロス!」
暗闇から、銀色の光弾が放たれる。
ベスパが、万が一の侵入者に備えて配置していた伏兵たちだ。
「……フン、鼠が紛れ込んだか」
影から現れた数名の兵士たちは、一般兵とは明らかに違う、禍々しい魔力を纏っている。猫のように足音を立てずに最小限の歩数で忍び込んだつもりだが、兵士どもは気づくのが早い。
「上であのお方が戦っている間、ここを一歩も通すわけにはいかんな。……掃除の時間だ」
俺は二刀『白狼剣』を抜き放ち、鋭い視線を向けた。
「悪いけど、こっちは急いでるんだ。……どいてくれないなら、俺も行かせてもらうよ」
頭上で響く巨悪たちの激突音。
そして、要塞内部で始まる新たな戦い。
天空の移動要塞『アバドン』は、今や巨大な棺桶と化して、破滅へのカウントダウンを刻み始めていた。




