捕食-1.停滞する銀世界と二つの牙
空中要塞『アバドン』が、重力を引き裂く轟音を立てて高度を上げている。その巨大な影が地表を這い、麓の荒野には不気味な黄昏が訪れていた。しかし、その直下では、物理的な騒音さえも吸い込まれるような、異様な「静」と、全てを微塵に切り裂かんとする「動」が交錯していた。
「……目障りな羽虫だ。私の『庭』に、不規則な軌道で飛ぶ矢はいらぬ」
マンティは、手にした仕込み杖を一歩も動かさず、ただその場に立っていた。しかし、彼の周囲30メートルは、すでに常理を逸した魔力によって支配された『静寂なる造園』の領域と化している。そこは、彼の意志に沿わぬ動き――すなわち「攻撃」という名のノイズを即座に排除する、絶対的な管理空間だ。
「ハッ、羽虫だって? 相手は444人リスト入りの俺たちだろうが。随分と余裕じゃねえか、カマキリ野郎!」
遥か上空、要塞の浮上によって生じた凄まじい気流の乱れを、羽ばたき一つで完璧に読み切り、アストが空中に静止していた。彼の持つ弦のない魔弓『風切の翼』が、翠色の魔力を凝縮させ、刺すような光の矢を幾重にも形成する。
アストの瞳は、鷹のごとき鋭さでマンティの全身を俯瞰していた。もふもふされるだけのウサギではない鷹としての感覚は一切衰えていない。筋肉の弛緩、魔力の揺らぎ、呼吸の間隔。その全てを数値化し、回避不能な死の格子状を脳内に描き出す。
「カリス! そいつの『糸』が見えるか!? 俺が道をこじ開ける、お前はその細い喉元を掻っ切ってやれ!」
「ええ、アスト。香りで空気の揺らぎは掴んでいるわ……。私の間合いに入った瞬間、彼の『静寂』をマゼンタに染めてあげる」
地上では、カリスが豹のように低く身を構え、愛刀『狂牙マゼンタ』の柄に細い指をかけていた。彼女の『超感覚』は、マンティが展開している不可視の魔鋼糸が、蜘蛛の巣のように、いや、血管のように戦場全域に張り巡らされていることを正確に捉えていた。
「『緑界創生・千風の矢』!」
アストが指を放すと、一本の主矢が空中で爆ぜるように千の光条へと分裂した。放たれた矢は音速を超え、衝撃波を撒き散らしながら、地上のマンティへと一斉に殺到する。しかも、その一本一本が自律的な意志を持つ生き物のように軌道を変え、マンティの死角――背後、足元、さらには頭上から、一点の狂いもなく収束していく。
「……無駄だ。動きに無駄が多すぎる」
マンティは一歩、右に踏み出した。ただそれだけの、散歩でもするかのような予備動作のない動作で、背後から迫る百の矢を紙一重で回避する。同時に、仕込み杖をわずかに回転させた。
「剪定」
キンッ、という硬質な音が一度だけ響く。
アストが放った千の矢は、マンティの周囲に張り巡らされた不可視の魔糸に触れた瞬間、原子レベルで「切断」され、光の塵へと還った。マンティの処理能力は、時速400kmで動くルウさえ「静止画」として捉える。アストの音速の矢ですら、彼にとっては「伸びすぎた枝」を切り落とすだけの、単純な作業に過ぎないのだ。
「チッ、化け物め……。なら、こいつはどうだ!」
アストはさらに高度を上げ、要塞の影にその身を同化させる。彼の『環境同化』は完璧であり、目の前にいても気づかれないはずの潜伏術だ。だが、マンティの無機質な瞳は、空中に漂うわずかな魔力の乱れから、アストの正確な位置を既に「管理下」に置いていた。
アストの矢がマンティの注意を引きつけたその隙に、カリスが地を滑った。
「『紅蓮の香界』……吸い込みなさい、死の香りを」
カリスが撒いた魔力の香気粒子が、マンティの領域を侵食する。肺腑に届けば神経を麻痺させ、幻影を見せる「調香師」の奥義。
だが、マンティは無表情のまま、自らの心拍と呼吸を「ゼロ」に固定した。生体反応を完全に遮断した彼にとって、毒も香気も、無機質な石像に風が吹くのと同じでしかない。
「……呼吸を止めた? ならば、物理的に断つまで!」
カリスの姿が、視界から消失した。
筋肉の予備動作を完全に排した、無拍子の「縮地」。0.005秒の反射速度を誇る彼女が、マンティの懐へと一瞬で潜り込む。
「『一閃万華・蓮華断』!」
マゼンタ色の閃光が、マンティの細い胴体を真っ二つに薙ごうと走る。
しかし、カリスの『狂牙マゼンタ』がその肉体に触れる直前、マンティの全身の骨格が、まるで可変式の機械であるかのように、人間離れした角度で歪んだ。
「……『庭』の管理を乱す不純物には、相応の処置を」
マンティの手元で、仕込み杖が瞬時に双鎌『エデン・シザー』へと展開される。カマキリの鎌を模したその薄い刃が、カリスの超反応さえ上回る速さで彼女の首筋へと振り下ろされた。
「カリス、伏せろッ!!」
上空からアストの叫びと共に、巨大な魔力の衝撃波が二人の間に打ち込まれた。アストが自身の魔力を限界まで込めた「重圧矢」だ。その物理的な衝撃でカリスは無理やり後方へ吹き飛び、マンティの鎌は空を切った。
「はぁ……はぁ……。なんて奴だ。アスト、援護に感謝するわ」
カリスは着地し、マゼンタ色の魔力で全身を覆う。彼女の服の袖が、かすかにマンティの不可視の糸に触れただけで、抵抗なく音もなく切り落とされていた。
「ああ、だが笑えねえぞ。あいつ、まだ本気じゃねえ……。俺の千里眼が、あいつの『核』を捉えられねえんだ。まるで幽霊を射ってるみたいだぜ」
アストは樹上で弓を構え直すが、その指先がわずかに震えていた。マンティから放たれる圧倒的な「捕食される恐怖」。444人リストの中でもトップクラスの暗殺者である二人が、同時に冷や汗を流していた。
マンティはゆっくりと双鎌を構え直し、抑揚のない声を響かせる。
「……遊びは終わりだ。我が庭に『冬』を呼ぼう」
マンティの周囲から、色彩が剥ぎ取られていく。
『停滞する銀世界』。
領域内の音、熱、そして「因果(時間)」さえもが凍結し、モノクロームの静寂が世界を支配していく。
「カリス……動けるか?」
「ええ……。でも、身体が重いわ。五感が奪われていく……。これじゃ、香りの流れさえ掴めない」
全神経が凍り付きそうな状況下でもアストは歯噛みし、上空からマンティを見下ろして叫ぶ。
「お前はなぜ、そうまで管理管理とこだわってんだよ! 呼吸も止め、心臓も止めて、そんなもん植物も育たねぇ死の世界じゃねえか! そんな『庭』に、一体何の意味があるってんだ!」
マンティの瞳に、わずかな暗い影が差した。それは怒りではなく、底なしの虚無。
目の前にいる彼らから見たマンティは一瞬だが心が揺らいでいるかのようにも、涙を流しているかのようにも見える。
「……私は、荒らされたのだ。お前らごときには理解不能だろうがな」
かつて、彼が丹精込めて育てた小さな庭。そこにいた唯一の家族。それらは強欲な権力者の軍勢により、「軍の通り道」というだけの理由で、無価値なゴミのように蹂躙され、焼き払われた。
守れなかったのではない。管理が、秩序が、力が欠けていたから、不当に奪われたのだ。
「私は守りたかったのだ......。家族も、自分の庭も」
絶望を吐露するマンティ。生気を失ったかのような声ですべてを物語ろうとしていた。
「略奪者も、それを気取る義賊も、等しくこの土を汚す害虫だ。まとめて『剪定』してやろう」
「はぁ......理解できねぇ、お前も結局はそこら辺の外道と同じだ」
呆れつつも矢を番えるアストと体制を建て直そうとするカリス。
マンティの一歩が、停滞したモノクロームの世界を滑るように進む。
アストとカリス、二人の天才義賊が、かつてない「死の静寂」に飲み込まれようとしていた。




