集結-浮遊要塞の麓
見上げる空が、巨大な鉄の質量に塗りつぶされていた。
ベスパ率いる『冥府の羽音』の本拠地、空中要塞『アバドン』。全都市放棄計画の心臓部が、不気味な駆動音を響かせながらゆっくりと天へと昇っていく。その影に呑み込まれた麓の町は、まるで日蝕の中に放り込まれたかのように暗く、冷たい。吹き付ける風は不自然に熱を帯び、大気が悲鳴を上げているかのようだった。
「……いよいよ、始めるのか」
僕は、かつて慣れ親しんだ白いコートの襟を立てた。
隣にはカリス、アスト、ルビ、そしてフロス。アイリス姉さんに猫に変えられ、屈辱の「イチゴドレス」を着せられたり、「チラシ配り」に奔走したりと、散々な目に遭ってきた僕たちだが、今この瞬間だけは、かつて南の大陸を震撼させた義賊『白爪』としての姿を取り戻している。
僕の心臓は、いつになく激しく、そして規則正しく鳴っていた。
これは恐怖じゃない。いや、恐怖ではあるけれど、それはかつて僕が「最悪の終焉」と呼ばれ、ただ破壊の渦中にいた頃に感じていた「死」への恐怖とは根本的に違うものだ。
僕が今、一番恐れるのは、この理不尽な戦争のせいで、僕が守り抜いてきたあの退屈で愛おしい「日常」が、跡形もなく焼き払われることだ。
かつて便利屋だったころと白爪の猛者としての全盛期を思い出す。朝、眠い目をこすりながらやるドブ板さらい。
近所の子供に泣きつかれて引き受ける迷子の猫探し。
一ヶ月必死に働いても手元に残るだけの安月給。
唐突だったが、白爪全盛期の最中にアイリス姉さんからお説教でチームが滅亡した日。
その後の猫の姿で丸まって寝る、あの穏やかな午後の日差し。
(俺がやっているのは、日常を守るための戦いだ! 姉さんに正体がバレるのが怖いんじゃない! ……いや、それも相当怖いが、それ以上に、この光景が壊されることが我慢ならないんだ! 猫にされたからって、俺の魂まで飼いならされたと思うなよ……!)
「ルウ、前を見なさい。……招かれざる客がもう一人いるわ」
カリスの鋭い声に、思考が強制的に引き戻される。
要塞の直下、浮上用の魔力奔流が巨大な竜巻となって渦巻くその中心地に、一人の男が立っていた。
一切の無用な肉を削ぎ落とした、カミソリのような細身。銀の装飾が施された仕込み杖を突き、冷徹な演算機のような瞳で空を見上げる男。
「……やれやれ。ベスパめ。私という『管理者』が来ることを予見して、工程を早めたか。予定表を無視する行為は、実に不衛生だ」
『静寂の捕食者』のボス、マンティ。
彼もまた、ベスパの「無秩序な放棄」を剪定するために現れたのだ。だがそれは救済のためではない。彼にとっての世界の最適化のためだ。
「マンティ……!」
僕は、腰の『白狼剣』に手をかけた。
「お前もベスパを止めるつもりか? それとも、この混乱に乗じて大陸を自分の『庭』に作り変えるつもりか?」
マンティはゆっくりと僕たちを振り返った。その視界には僕たちの姿など映っていないかのようだ。ただ「そこに排除すべき動体が存在する」という事実だけを処理する、昆虫のような無機質な眼差し。
「……白爪のリーダーか。義賊どもに用はない。私の目的は『略奪者』の根絶。ベスパは世界の秩序から逸脱した、最も巨大な雑草だ。それを刈り取るのは庭師の義務であって、お前たちのような野良犬の仕事ではない」
「誰が野良犬だ、このカマキリ男が!」
アストが、獲物を狙う鷹のような鋭い視線でマンティを睨みつける。背中の大弓を引き絞る音が、重低音の駆動音に混じって響いた。
「お前もベスパも、やってることは結局『自分の理想の押し付け』じゃねえか。俺たちは、誰にも支配されない自由な風を守るためにここに来たんだ。管理なんてクソ食らえだ!」
要塞の浮上速度が、一段と加速する。
地上と要塞を繋いでいた、緊急用の巨大な昇降はしごが、強烈な上昇気流に煽られて引きちぎれそうな勢いでしなっている。金属の軋む音が、まるで巨大な獣の断末魔のように響き渡った。
「時間がないわ」
カリスが『狂牙|マゼンタ』をわずかに抜き放った。その瞬間に溢れ出したマゼンタ色の剣気が、周囲の重力さえも書き換えるかのように空間を微細に震わせる。
「ルウ、ここは私たちが引き受ける。貴方は要塞へ行きなさい。あんな巨大な『雑草』、貴方の剣で根こそぎにしてやりなさい」
「マンティは俺が引き受ける。お前はさっさとあのバカげたハチの巣に乗り込んで、ベスパの野郎を思いきりぶん殴ってこい!」
アストが不敵に笑い、矢を番える。カリスの剣気とアストの闘気が混ざり合い、マンティが放つ冷徹な威圧感を押し返していく。
「カリス、アスト……」
僕は二人の背中を見つめた。
マンティの能力は厄介だ。彼は相手の動きを「静止画の連続」として見切り、その隙間に正確無比な一撃を叩き込む。まともに突っ込めば、要塞に辿り着く前に全員がバラバラに剪定されるだろう。二人はそれを承知で、僕に「最短ルート」を作ろうとしている。
(……やるしかない。いや、俺にしかできないやり方があるはずだ)
僕は『狼王の眼』を全開にした。視界が急速にモノクロームへと変色し、世界の「色」ではなく「魔力の流れ」が線となって浮き彫りになる。上空を見上げたところ、ベスパの空中要塞にはすでに幾重にも重なる多層結界が張られていた。通常の飛行魔法や強行突破では、接触した瞬間に分子レベルで分解されるだろう。
――よく観察しろよ、俺。
そのとき、脳の奥底で眠っていた、あの「マンチカン」としての記憶が鮮烈に蘇った。
人間だった頃には、決して見向きもしなかった。地面からわずか数センチの世界。
アイリス姉さんの家で過ごした日々。フローリングの僅かなささくれ、ドアの隙間から漏れ出す料理の匂いの粒、そして、カーペットの毛並みの揺らぎ。
そこで培われたのは、全身の産毛で空気のわずかな対流を察知する超敏感な触覚と、一度狙った獲物を決して逃さない執念深さだ。
『狼王の眼』が捉える魔力の奔流。その無機質で複雑な幾何学模様の中に、僕は猫特有の「動体視力」を重ね合わせた。
人間には「静止した壁」に見える結界も、猫の眼には違う。魔力の供給サイクル、1秒間に数万回繰り返される微細な明滅、その周期のズレ。
(……見えた。あそこだ)
魔力の供給が途絶える、コンマ数ミリの「継ぎ目」。
そこには、巻き上げられつつある昇降はしごの基部があった。運がいい。だが、運が良いだけでは届かない。はしごは猛烈な勢いで要塞へと回収され始めていた。
「……わかった。ルビ、フロス、俺たちはあのはしごを使う。絶対に、絶対に離すなよ!」
僕は呼吸を整えた。
心拍数を意図的に下げ、全身の筋肉を限界まで弛緩させる。これは猫が獲物に飛びかかる直前の「無」の状態。
結界の周期が重なり、ほんの一瞬だけ強度が揺らぐその瞬間――。
それは、獲物が喉元を晒す一瞬の油断。あるいは、アイリス姉さんがおやつをテーブルに置き忘れた、あの刹那の隙に似ていた。
僕は、猫のしなやかな背骨を再現するように、人の身でありながら身体を極限までしならせた。
「いっけええええええ!」
爆発的な跳躍。
低重心から生み出されるその初速は、かつて僕が「人類の終焉」として恐れられたあの伝説的な速度――時速400kmを優に超えていた。猫の姿に慣れきってしまった肉体が、急激な加速度と要塞からの爆風に悲鳴を上げる。血管が浮き出し、視界が赤く染まりかけそうだ。
「ぐっ……あああああ!」
吹き荒れる気流は、もはや透明な壁となって僕の行く手を阻む。
空中ではしごが不規則に揺れ、千切れた鉄の鎖が弾丸のような速度で四方八方へと飛散する。
僕は『未来予知(0.5秒)』を脳が焼き切れるほどの過負荷で回し、コンマ数秒先の「安全な軌道」を無理やり網膜に焼き付けた。
(なぜだ、ベスパ! お前は世界に見捨てられた過去があるっていうじゃないか。放置された苦しみを知っているお前が、なぜ今、すべてを『放棄』して焼き払おうとするんだ!)
加速する思考の中で、僕はベスパの孤独を想像する。
「守れないなら壊す」
「管理できない命に価値はない」
そんな悲しい結論を出すまでに、彼はどれほどの絶望を見たのだろう。
――だが、ふざけるな。
価値があるかないかは、ベスパに決める資格はない。
僕が便利屋として出会った、あのお節介で口うるさい近所の婆さんも。
泥だらけになって、家族のために必死に働いてる職人たちも。
みんな、お前の勝手な「掃除」を待ってるゴミなんかじゃないんだ。
彼らには、彼らの紡いできた、美しくも泥臭い「今日」があるんだ!
「離すもんか……! この手が、日常を掴み取るんだ!」
空中ではしごの最下段に飛びつく。
鉄の冷たさと、荒々しい震動が手のひらを通じて脳まで突き抜けた。指先が鉄板に食い込み、剥がれそうな爪の痛みをアドレナリンが塗りつぶしていく。
上昇気流が、まるで巨大な手のひらのように僕の体を空へと引き剥がそうとするが、僕は指を鉄の芯までめり込ませ、奥歯が砕けんばかりに食いしばった。
僕たちに下を振り返る暇などない。
だがそこには、マンティの放つ不可視の魔糸を、鮮やかなマゼンタの閃光と鋭い矢の雨で切り裂きながら乱舞する、仲間たちの姿があった。彼らが道を作ってくれたから、僕はここにいる。
上を見れば、煉獄の炎が渦巻く要塞のハッチが、獲物を飲み込む怪物の口のように開いている。
「待っていろ、ベスパ! お前の、何も生み出さない独りよがりの戦争は、今日ここで俺がブチ壊してやる!」
僕は、僕自身の「帰る場所」を守る義務がある。
愛すべき「日常」をこの手に取り戻す義務もある。
白いコートを猛烈な風に翻し、魔火の降る絶望の空へと、真っ直ぐに駆け上がった。




