開演-煙幕と崖際の博打
南の大陸、その天を突くように浮かぶ空中要塞『アバドン』。その真下、焦土と化した街の影に広がる鬱蒼とした森の中を、一団の影が音もなく進んでいた。
「……歩幅を維持せよ。乱れは『無能』の証左。我が庭に不揃いな石はいらぬ」
冷徹な指示を飛ばすのは、マンティ。
彼は普段の紳士的な仕込み杖を手に、数百の精鋭『静寂の捕食者』を率いてベスパの本拠地へと迫っていた。彼にとって、この戦争はもはや戦略的な衝突ではない。庭を荒らす害虫であるベスパという「雑草」を根こそぎ引き抜くための、淡々とした清掃作業に過ぎなかった。
だが、そのマンティの行く手を阻むように、森の木々からヒラヒラと一枚の紙片が舞い落ちてきた。
トランプの「ジョーカー」だ。
「やあ、お偉い庭師様。随分と仰々しいお出ましじゃないか」
樹上、太い枝に腰掛けた男が、指先で器用にトランプを弄んでいる。エナガだ。
彼は『冥府の羽音』の遊撃隊として、要塞周辺のパトロールを任されていた。享楽主義者である彼にとって、マンティのような「完璧主義の塊」は、最もイカサマの仕甲斐がある、最高の「客」に見えていた。
「ベスパ様のパトロールは俺だ。悪いが、ここから先は『入場料』が高いぜ?」
「……賭博師エナガ。ただの遊撃隊風情が、私の時間を奪うつもりか」
マンティの瞳が、無機質にエナガを捉える。
『略奪者の選別』。
その視線はエナガの魔力の流れ、心拍数、さらには彼がどこに「仕掛け」を隠しているかさえも透視しようとする。だが、エナガは不敵に笑い、手元のトランプを扇状に広げた。
「さて、お堅いボス。この先に俺のトラップがあるかないか……どっちに賭ける?」
「戦場で馬鹿な質問をするのか?」
マンティはエナガの質問に対して無意味と一蹴する。しかし、エナガにとってもこの答えは駆け引きの材料に入っていた。
「答えは――『全部』だ」
エナガがトランプを放り投げた瞬間、マンティの背後に配置されていた数人の兵士たちの足元が、激しい爆炎に包まれた。
『煉獄の虚妄・連鎖爆破』。
エナガのトランプは、単なる爆弾ではない。空中を舞う際に放たれた微細な毒針と、爆圧が重なり合い、逃げ場のない「殺意の網」を形成する。
「がぁぁっ……!?」
マンティが連れてきた精鋭兵のうち、数名が反応すらできずに即座に爆散し、炭の塊へと変わる。だが、その爆炎の渦中から、マンティは髪筋一つ乱さず、優雅に歩み出してきた。
「人生は『隠れる』に賭けるぜ!」
エナガは追撃の手を緩めない。彼は瞬時に身を翻し、木々の影へと潜り込みながら、次々とトランプをばら撒く。エナガの真骨頂は、その場しのぎの嘘と、事実を織り交ぜた「絶望のギャンブル」だ。
「そこに兵士がいるというトリックか。面白いが、私の瞳からは何一つ隠せん」
マンティは仕込み杖を軽く振るった。
その瞬間、杖の内部から極薄の処刑鎌『エデン・シザー』が展開される。
「原子の隙間」を切り裂くその刃は、エナガが放った爆発トランプを、起爆する前の「紙の分子」の段階で両断し、その魔力循環を強制的に停止させた。
「……っ、流石だな。俺のカードが爆発する前に『剪定』しやがった」
木陰からエナガの顔が引きつる。マンティの動きは、時速400kmを超えるルウの神速すら「静止画」として処理する究極の反射。エナガのイカサマなど、彼にとっては子供の遊びに等しい。
「無駄な足掻きだ。貴様の命も、その小賢しい手品も、我が庭には不要な枝に過ぎない」
マンティが一歩踏み出した。その動作には予備動作が一切なく、まるで風景の一部が突然スライドしたかのような不自然な加速。一瞬でエナガの喉元に、不可視の魔糸を纏った鎌が迫る。
「くっ……! まだだ、俺の持ちチップはまだ残ってるぜ!」
エナガは懐から特製の暗器を取り出し、至近距離で地面に叩きつけた。
凄まじい密度の煙幕が、マンティの視界を真っ白に染め上げる。
「煙幕か。だが、熱源と魔力で位置は特定できている」
マンティが鎌を横一文字に薙ぐ。切断の感触。
しかし、霧が晴れた後にそこにいたのは、切断されたエナガの死体ではなく、彼が身につけていたコートの端切れと、最後の一枚のカードだった。
「俺がここで『自害』をしたら、この要塞全体に仕掛けた爆弾がどうなるかな? ……なんてな! 嘘に賭けるか、実に賭けるか、ゆっくり考えてな!」
エナガの声は、すでに背後の崖の先から響いていた。
彼はマンティの追撃を避けるため、そして自らの命を守るための最後のギャンブルとして、高さ数百メートルの断崖絶壁から迷わず身を躍らせたのだ。
「消えたか。……だが、無意味な時間稼ぎだ、ベスパ」
マンティは、エナガが消えた崖の下を一瞥すらせず、再び空中要塞の方向へと歩き出す。彼にとってエナガを追うことは「非効率」な選択肢に過ぎない。最優先事項は、不純物の根源であるベスパそのものを剪定すること。
「貴様の命は、次に会った時に刈り取る。今はまだ、庭の隅で震えているがいい」
マンティは無傷のまま、自身の軍勢を整え、地獄の火が燃え盛る空中要塞へと侵攻を再開した。マンティは表情を一切変えずに自身の兵に指示を飛ばす。
「お前たち、これ以上深追いはするな。最短ルートでベスパのもとに行け」
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一方、崖の下。
川の流れをクッションにし、ボロボロになりながらも這い上がったエナガは、全身を震わせながら要塞を見上げた。
川の下から這い上がったエナガの体は水浸し。多くの爆薬は湿気や水分に弱いが、エナガの爆発トランプは濡れた程度で爆破の威力が下がる代物ではない。
エナガは濡れたトランプを見ながらニヤリと確信している。
「……はは、死ぬかと思ったぜ。崖から落ちて死ぬ確率はおおよそ2分の1。死なないに駆けて正解だ」
マンティには直接負けたが、自身の組織そのものがまだ負けていないという絶対的自信。彼は冥府の羽音の幹部たちにも事前に自らの爆破トランプを配り、ベスパの『全都市放棄化計画』にマネーとして賭けていた。
「流石は『静寂の捕食者』のボスだ。まともにやり合って勝てる相手じゃねえ」
彼は折れた指を自嘲気味に見つめ、だがその瞳には依然として享楽的な光が消えていなかった。彼は知っている。ベスパという男が、どれほど理不尽な「放棄」の力を秘めているかを。
「俺は、ベスパ様が勝つことに全財産を賭けるぜ……!」
エナガは痛む身体を無理やり引きずり、再び影へと潜む。
彼は確信していた。マンティという完璧な庭師が、ベスパという煉獄の炎に触れた時、一体どちらが「ゴミ」として処理されるのか。その歴史的瞬間の特等席を手に入れるため、エナガは再び、マンティの背後を追跡し始めた。
空中要塞の周辺では、ベスパの焦土とマンティの静寂が、ついに直接交わろうとしていた。
大陸の運命を決める最後のギャンブルの鐘が、今、鳴り響く。




