凍結-2.絶望の「おやつタイム」
「――大地よ、喰らい尽くせッ!」
フォルトの咆哮と共に、空中要塞への山道が大きく波打った。ハルバード『大地の牙』を起点に、数千、数万の鋭利な岩の棘が、意志を持つ獣のようにレニへと殺到する。それは、かつて一万人以上の帝国兵を森の肥料へと変えた、文字通りの「大地の怒り」そのものだった。
「ハルバードはこうやって使うんだよ! 枝打ちのつもりで、その細い足をへし折ってやる!」
「……小生を、ただの彫刻家だと思わないことだ。動く素材には、それ相応の冷遇を!」
レニは跳躍し、空中で優雅に一回転した。彼の指先から、目に見えないほど細い、しかし絶対零度の魔力を宿した数千本の「極低温の細針」が、まるで銀色の雨のように降り注ぐ。
『庭の氷結・永久欠土』
激突の瞬間、フォルトの岩の棘が凍りつき、その振動を止める。逆に、レニの針を弾き飛ばす衝撃波が森を震わせる。お互いの間合いはゼロ。フォルトの巨大な斧刃がレニの喉元を掠め、レニの針がフォルトの肩を貫く。
鮮血が雪の上に飛び散り、熱気が氷に変わる。
両者、一歩も引かぬ死闘。体力と魔力の限界が近づき、次の一撃が勝負を決める――その刹那だった。
「あらあら……。こんなに土を掘り返して、後の植え替えが大変そうだわ」
戦場の真ん中、殺意が渦巻く真空地帯に、場違いなほどおっとりとした声が響いた。
重厚なドレスでも、漆黒の戦闘服でもない。つぎはぎのあるエプロンを身に着け、片手に古びたスコップ、もう片手に薬草の入った背負いカゴを抱えた女性。
「迷子のウサギさんはどこかしら……。あ、いた。フォルト、またこんなところで泥だらけになって」
薬草農家のピセアである。
彼女が歩くたび、レニが展開していた絶対零度の領域が、春の日差しを受けた霜のように、音もなく溶けて霧散していく。
「貴様……一般人か!? どこから入り込んだ!」
レニは驚愕に目を見開いた。自分の極低温の結界内に、一介の村娘が傷一つなく入り込めるはずがない。だが、彼の中の狂信的な「管理思想」が、即座に排除の結論を出す。
「この光景を見たからには、死を以て記憶を消さねばならんな。名もなき村娘よ、貴様も氷の彫刻に――」
「待て、レニ! そいつに関わるな! 逃げるぞ!」
フォルトが叫んだ。444人リストに載る猛者が、ただの農家の女性を見て、恐怖で顔を青ざめさせている。フォルトは本能的に悟っていた。ピセアが「この場に来た」ということは、自分たちの「自由時間」が終了したことを意味するのだ。
「こうなったら植物の壁を使って逃げるか! 俺はアストの元に行くぞ、離せ!」
フォルトは『緑界創生』で巨大なシダの壁を作り出し、全速力で逃走を図った。
だが、フォルトの予想に反し、ピセアは一歩も動いていないように見えて、気づけば彼の数歩先に立っていた。
「逃げちゃダメよ、フォルト。ブラッシングの時間が遅れてしまうわ」
ピセアはニコニコと微笑んでいる。
「嘘だろ……? 巨悪を目の前にして、一歩も怯えていないだと……!?」
フォルトは絶望した。マンティの幹部であるレニが放つ、世界を凍らせるほどの殺気。それを彼女は、まるで「少し風が強いわね」程度の現象としてしか認識していない。いや、認識すらしていない。
「貴様、何者だ? 怪物なのか?」
レニの背筋に、生まれて初めて「理解不能な存在」への根源的な恐怖が走った。
彼は渾身の魔力を込め、レニの心臓を目がけて最後の一針を放とうとした。しかし、針がピセアの周囲数メートルに入った瞬間、氷の魔力は瑞々しい「クローバーの香り」へと変換され、針そのものが柔らかな「干し草」に姿を変えて、パラパラと地面に落ちた。
「殺気は、植物に毒よ。もう少し優しくなりましょうね」
ピセアがそっと手をかざす。
『全生変換』
刹那、戦場を支配していた極寒と震動が、眩いばかりの翠の光に包まれた。
光が収まった後、そこには「翠影双翼」の亡霊も、「庭の氷結」の芸術家も存在しなかった。
「……キュッ?(……えっ、身体が……重い?)」
そこには、耳をだらりと垂らした、最高に毛並みの良いロップイヤー・フォルトと、それより一回り小柄な、グレーのふわふわな毛に包まれたチンチラのレニが、雪の上にポツンと取り残されていた。
「アストもどこにいるかしら。カゴの隣が空いているわ」
「……キュ(……さあね、どっかでタカでもやってるだろ)」
ロップイヤーに戻されたフォルトは、前足で顔を洗いながら力なく答えた。一方、チンチラにされたレニは、自身の小さな手足を凝視し、絶叫しようとしたが、出たのは可愛らしい「クィー」という鳴き声だけだった。
「クィィッ!?(私の……私の芸術が! 野望が! 完璧な氷結の庭が……こんな、こんな毛玉のような姿にッ!)」
「はいはい、騒がないの。少しお説教が必要ね」
ピセアは二人をヒョイと持ち上げると、慣れた手つきで背負いカゴの中へ入れた。
そこは、外界の戦争など嘘のような、薬草の香りと柔らかな毛布が敷かれた「絶対中立の揺り籠」だった。
「(貴様、私を子ども扱いするのか! 放せ、私はマンティ様の――!)」
レニは小さな手足を動かして暴れようとする。しかし、体が小さくなったレニはもはやピセアに無意味な行動を見せているだけに過ぎない。
「レニちゃん、あまり動くとブラッシングを2時間に増やすわよ?」
ピセアの穏やかな、しかし逃げ場のない声に、レニは震え上がった。この女は、444人リストの猛者を、本気で「しつけの悪いペット」としか思っていない。
カゴの中で揺られながら、レニは一つの恐ろしい事実に辿り着いた。
(……待て。マンティ様への忠誠を誓い、常に周囲の異常を知らせていたはずのオーガ……。奴からの『警笛』が一切途絶え、行方不明になったというのは、まさか……!)
レニは、ピセアが何気なく口にした言葉を思い出し、戦慄した。
「アイリスさんに連絡を取ろうかしら。最近、新しい『番犬』さんが増えたって聞いたし、皆で集まった方が楽しいわよね」
かつての同僚オーガは犬に。
目の前にいたフォルトはウサギに。
そして自分は、チンチラに。
マンティが誇った「静寂の捕食者」の幹部たちが、一人、また一人と、この恐るべき「飼い主」たちの手によって、文字通り「無害な愛玩動物」へと作り替えられている。
「……キュ(諦めろよ、戦争を起こした罰当たりの新入り。このカゴの中が、今の俺たちの『庭』なんだよ)」
「(小生がお前たちなんかと仲良くすると思うな......)」
フォルトが悟りきったような目でレニに語りかける。
森の奥へと消えていくピセアの足取りは軽く、その背負いカゴの中には、大陸の命運を握るはずだった猛者たちが、おしくらまんじゅうをするように詰め込まれていた。
一方、空中要塞の中枢。
自らの幹部たちが次々と「毛玉」に変えられていることなど露ほども知らないマンティは、ついにベスパの喉元に刃を届かせるべく、最後の一歩を踏み出そうとしていた。
だが、そのマンティの背後にも、ある「不敵な道化」の影が迫っていた。




