独白-虚無の主義
――肺呼吸が苦しい......。瞼が重い......。
「はっ……どこだ、ここは……」
重苦しい意識の泥底から、ソルはシャボン玉がパチンと割れたかのように無理やり引きずり出された。
目を開けると、視界を覆っていたのは燃え盛る街の火柱ではなく、清潔で無機質な、しかしどこか温かみを感じさせる不思議な一室の天井だった。
身体を動かそうとして、金属の擦れる音が響く。自身の魔力を封じる特殊な鎖――因果律さえも縛り上げるかのような絶対的な拘束具が、彼の四肢をベッドに繋ぎ止めていた。だが、激痛はない。あれほどボロボロだったはずの肉体には、驚くほど丁寧に包帯が巻かれ、適切な処置が施されていた。
「目が覚めたかしら。初めまして、といえばいいのかしらね」
ソルの耳に静かな声がしたが、どこか温かみを感じる。対面に座っていたのは、眼鏡を指先で押し上げた知的な女性、セダである。彼女の隣には、水色の髪を揺らし、悲しげな、それでいて全てを包み込むような瞳をしたアイリスが立っていた。
セダやアイリスにとって、全世界を震撼させる「444人リスト」の猛者たちは、恐るべき暗殺者などではない。彼女たちの基準からすれば、それはただ道を誤り、制御を失って暴走している「迷子のペット」に過ぎなかった。
「貴様……私を誰だと思っている!今から拷問でもするというのか?誘拐罪だぞ! 離せ、今すぐ影の中に沈めてやる!」
ソルは叫び、魔力を練ろうとした。しかし、影は微塵も動かない。影を操る能力を失った葬儀屋は、ただの深手を負った青年に過ぎなかった。いくら体を震わせようとしても無駄だった。
だが、セダが用意したのは、彼が予期していた凄惨な拷問器具ではなかった。そこにあったのは、湯気を立てる香りの良い一杯の紅茶と、一冊の古びた「道徳」の教科書だった。
アイリスは手元に小さな手帳を広げ、羽ペンを走らせる。
「……最後は自害をしようとしていたのね。死ぬことで全てを終わらせようとした。その覚悟、最後の慈悲として私がここに『メモ』を取ってあげます。貴方の生きた証として」
「さて、ソルくん」
セダの眼鏡の奥の瞳が、冷徹な分析官のそれへと変わる。
「授業を始めましょう。貴方の行ってきた『救済』について、論理的に説明してもらえるかしら? 感情論ではなく、あくまで教育的な観点から。なぜ、死を与えることが救いになると結論づけたのかをね」
その圧倒的な「格上」のプレッシャー。セダから放たれるのは、暴力的な殺意ではなく、逆らうことのできない「正解」そのものが押し寄せてくるような精神的重圧だ。ソルは呼吸を乱しながら、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「説明など必要ない! お前たちこそ、この吐き気のする現実を見ろ! この世界は、生きているだけで苦痛を撒き散らす泥沼だ! 親が子を打ち、国が民を捨てる。神は黙ってそれを見下ろしているだけだ!」
ソルの脳裏に、封印していたはずの記憶がフラッシュバックする。
酒に溺れ、自分を「無価値なゴミ」と罵りながら殴り続けた両親。助けを求めても目を逸らした村人たち。空腹で泥を啜った夜。そして、初めて影の力に目覚めた夜、自らの手で村という地獄そのものを焼き尽くし、平らな更地へと変えたあの静寂。
「俺はただ、その終わりのない地獄に『終止符』を打ってやっただけだ! 葬儀屋として、彼らを泥沼から引き揚げてやったんだ! これが俺の、俺にしかできない聖業だ!」
それは、彼が飼い主たちに向けて放った、死神としての最期の矜持だった。自分を全否定されてしまえば、これまで奪ってきた数万の命の重みに、彼自身の魂が耐えられなくなる。彼は、自分が「正義」でなければならなかった。
「俺は、無価値な命が放置され、腐っていくのを見ていられなかった!」
ソルの声は、次第に慟哭へと変わっていく。
「弱い蕾のうちに摘んでやることの何が悪い!? 踏みにじられ、汚れ、絶望を知る前に終わらせてやる。俺は必要な分だけ『間引いた』のだ! ベスパ様も仰っていた……守れぬなら壊すべきだと! 死こそが、奴らが唯一得られる、平等で絶対的な平穏だったんだ!」
血を吐くような叫び。ソルの言葉には、彼自身の人生に対する深い悲しみと、それゆえの歪んだ慈愛が混ざり合っていた。彼にとって、死者はもはや苦しまない「完成された存在」だったのだ。
しかし、セダは動じることなく、静かに紅茶を啜り終えた。陶器のカップがソーサーに当たる小さな音が、ソルの叫びを霧散させる。
「……なるほど。貴方は、自分自身が誰かに『摘み取られたかった』のね」
セダの言葉は、ソルの心臓の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。
「自分が誰かに救ってほしかった、止めてほしかった。その未遂の救済欲求を、他人に一方的に押し付けた。教育用語で言えば、それは『自己投影の暴走』による独りよがりな押し付け。……落第点よ、ソルくん」
「……な、に……?」
「死者に同情していると言うけれど、貴方は死者の声を聞いたことがあるの? 彼らが幸せだったかどうかなんて、貴方が勝手に決めた幻想に過ぎない。貴方は自分の心の穴を、他人の死体で埋めていただけよ」
セダは静かに立ち上がり、ソルの額にそっと手を置いた。隣でアイリスが優しく微笑み、祈るように手を組む。
その瞬間、部屋中にマゼンタ色と翠色の魔力が混ざり合い、神聖なオーラを伴った光が溢れ出した。
「貴方のその歪んだ『救済欲求』……もっと正しい場所で使いなさい。死を与える死神としてではなく、新しい命を守るための『盾』として。強制転生。3歳児からやり直しなさい」
「やめろ……! 俺を消すつもりか! 記憶を……俺の矜持を……!」
ソルの身体が、まばゆい光の粒子へと分解されていく。それは暴力的な死による消滅ではなく、彼の魂を構成する因果の糸を、一度解いて編み直す作業だった。
ボフッ。
数秒後、光が収まった場所。そこに、冷酷な葬儀屋の姿はなかった。
真っ白なシーツの上にいたのは、太い眉毛のような飾り毛と、賢そうな瞳、そしてふわふわとした灰色の毛並みを持つ一匹の仔犬――「ミニチュア・シュナウザー」だった。
「……ワンっ!?(な、何だこの情けない声は!? 俺の影の魔力が……消えたのか!?)」
犬となったソルは、自分の短い足を見つめて絶望した。だが、セダは満足げに彼を抱き上げ、その首元を優しく撫でる。
「今日から貴方は、アイリスちゃんの孤児院の『番犬』よ。ソル……いえ、シュナくん。子供たちが寂しくて泣いていたら、死を与えるのではなく、寄り添って温めてあげなさい。それが貴方の、人生をやり直すための新しい授業よ」
アイリスが彼を見つめ、そっと手帳を閉じた。
「……貴方の悲しいメモは、私が預かっておきます。その虐待の記憶は、もう貴方を苦しめる鎖ではなく、子供たちの痛みを理解するための『教訓』として書き換えました」
「ワ、ワン……(俺は、自害を選ぶつもりだったのに……なぜ、なぜだ。記憶が……あの冷たい床の感触が、暖かい日差しの記憶に書き換えられていく……えへへ、お姉ちゃん大好き......)」
ソルの意識の中で、暗く濁った過去が漂白されていく。それはある意味、この上ない拷問であり――そして、救いでもあった。自分を愛さなかった世界の記憶を失い、誰かを愛するための存在へと変えられること。
足元でロシアンブルーの姿をしていたカバロが、毛を逆立てて震えていた。
「にゃっ……!(確かにソルも私もあれだけの命を奪った。だが、ソルなんぞ罪なき人を大量に殺したから当然の報いだ。……だが、あの『記憶改ざん』……過去一恐ろしい拷問じゃないか。セダ、君はやっぱり昔から変わらない……!)」
そのときカバロがソルが落とした何かを口で拾う。
「(なんだ、これは?証拠になるものか......?)」
ソルの衣服の隠しポケットからこの「歪な金の塊」が転がり落ちたものだ。確かに文字通り歪な形をしているが、どこか閉じ込められた人の形をした黒い何かがその奥に閉じ込められていたようにも見える。
「カバロちゃん、貸しなさい。汚いですよ」
セダがカバロの口から金塊らしきものを引き離した。セダが金塊をよく観察するが、彼女の瞳がどこか寂し気に感じたのをアイリスは見逃さなかった。
――誰かさんの『忘れ物』なのかしら。アニルさんと同じ感じもするわ......。
こうして、最強の暗殺組織『冥府の羽音』から一人目のペットが出た。飼い主から見たら『人』というよりも『匹』という表現が正しいかもしれない。
命の炎が潰えたアソラやアニルとは違い、彼は飼い主側からみるとただの迷子だった。
破壊神ベスパの右腕であったソルが、フリフリの首輪を付けられ、孤児院の子供たちに尻尾を振る愛玩犬へと変貌したという事実は、間もなく要塞を揺るがす戦慄となって伝わることになる。
ベスパが築き上げた恐怖の理が、飼い主たちの「愛の剪定」によって、音を立てて崩れ始めていた。




