侵食-2.静寂の庭師
南の大陸の森は、今や生物が生存することを許されない絶望の領域と化していた。
ベスパが放つ白銀の熱波は、周囲の大気を断熱圧縮してプラズマの渦を作り出し、対するエルバの漂白術式は、触れるものすべての分子構造を破壊し、色を奪い、真っ白な虚無へと変えていく。
紅蓮の暴力と、蒼白の静寂。
二つの相反する「死」の概念が真っ向から衝突し、その境界線では空間そのものが軋み、火花を散らしている。
ベスパが王杓『デス・スティンガー』を垂直に振り下ろすと、地割れから噴出した溶岩がエルバを飲み込まんと牙を剥く。だが、エルバが指先で弾いた揮発性の薬瓶が空中で炸裂すると、猛烈な中和反応が起こり、数万度の熱源が瞬時に「白い石膏」へと凝固し、砕け散った。
「無駄だと言っている。俺の領域では、お前の熱さえも『汚れ』として分解される!」
エルバがコートを翻し、数十本の極細針を投擲する。針の軌跡は空気を白く脱色し、ベスパの『プロミネンス・アーマー』の隙間、魔力経路の結節点を正確に狙い撃つ。
「抜かせ! 溶けぬなら、その理屈ごと焼き切るまでだ!」
ベスパは回避を放棄し、肉体を金剛の硬度へと引き上げる。突き刺さる白銀の針を筋肉の収縮だけで弾き飛ばすと、彼は地を蹴り、エルバの眼前に肉薄した。熱核を帯びた拳がエルバの防護マスクを掠め、余波だけで周囲の木々が瞬時に炭化し、さらにエルバの薬剤によって白い塵へと還元される。
赤と白、破壊と清掃。二人の怪人が交差するたび、周囲の風景は「存在すること」を許されず、絶えず崩壊と再構築を繰り返す地獄の万華鏡へと変貌していった。
「……しぶといゴミだな、ベスパ。お前のその自慢の肺を内側から完全に漂白し、物言わぬ石膏像に変えるまで、あと数秒といったところか。地獄で生物学と化学の勉強でもしてこい」
エルバは防護マスクの奥で、冷徹な勝利を確信していた。ベスパのアーマーは確かに強固だが、エルバが散布する揮発毒は、熱を触媒にしてその浸透度を増していく。ベスパの強靭な筋肉は、目に見えぬ毒素によって僅かに白く弛緩し始めていた。
だが、追撃の薬瓶をエルバが手に取ったその瞬間。
二人の超感覚が、この地獄のような戦場において「あり得ないノイズ」を捉えた。
それは、金属がぶつかり合う音でも、魔力が爆ぜる音でもない。
軽やかで、どこまでも場違いな、少女の鼻歌だった。
凄惨な死闘の最中、そのメロディは戦場の空気を一瞬で凍りつかせた。いや、凍らせたのではない。戦いという概念そのものを「無効化」するような、圧倒的な日常の響き。彼らにとってこの鼻歌は、積み上げてきた殺意とプライドを台無しにする、許しがたい不協和音でしかなかった。
白銀の霧と炎の渦を割り、一人の女性がゆったりとした足取りで迷い込んできた。
手押し車に色とりどりの苗木や切り花を載せ、麦わら帽子を揺らしながら歩くその姿は、凄惨な戦場をまるで春の陽だまりの草原か何かと勘違いしているかのようだった。
移動花屋のルピナである。
彼女の周囲だけは、数万度の熱量も、肺を一瞬で溶かす毒ガスも、あたかも物理法則そのものが彼女を避けて通るかのように、一切の影響を与えていない。彼女の踏み出した一歩ごとに、脱色された大地に色が戻り、微かな草の香りが漂い始めた。
「な……ぜだ。なぜ、ただの一般人がこの致死性の高濃度毒霧の中で平然としていられる!?」
エルバの計算が根底から崩れ去った。彼はルードから「飼い主」と呼ばれるイレギュラーな存在が複数いるという報告を受けてはいたが、目の前の少女が放つ、あまりにも無防備で「無風」な佇まいに、本能的な嫌悪と恐怖が混ざり合う。
「こいつ、この前のセダという女の仲間か? 死にたくなければ、お前のその無謀な記憶ごと、ここで漂白してやるッ!」
潔癖症のエルバが激昂した。彼は手にした特製の致死性揮発毒を、ルピナへ向けて一斉に放射する。それは一国の軍隊を数秒で全滅させる、死の化学反応の奔流。
しかし、ルピナは困ったように眉を下げると、手に持っていた年季の入ったジョウロを、花に水をやるように軽く傾けた。
そこから溢れ出た水は、空中で霧状に広がると、一瞬にして七色の輝きを帯びた。エルバが放った禍々しい毒ガスは、彼女の霧に触れた瞬間、甘く芳醇な香りを漂わせる「雨上がりの虹」へと変質し、無害な花の肥料となって地面に降り注いだ。
「あらあら……。せっかくこれから綺麗なお花が咲こうとしているのに、そんなにツンとした匂い(毒)を撒き散らしてはダメですよ? 呼吸が苦しくなってしまいますわ」
ルピナは、まるでいたずらっ子を諭す母親のような、穏やかな笑みを浮かべていた。
「……何者だ、貴様」
ベスパの瞳に、これまでにない警戒の色が宿る。彼は王杓『デス・スティンガー』を振り抜き、彼女の存在ごとこの空間を焼き尽くそうと、白銀の業火を放った。対象を「不完全なもの」として因果律から切り離し、消滅させる『放棄の審判』。その視線が、ルピナを真っ向から捉える。
だが、そこでベスパは、人生で初めての「異常」を体験することになった。
放たれたはずの炎が、彼女に届く直前、まるで誰かにハサミで切り取られたかのように、ふっと消失したのだ。
(何だ……? あの女の周囲だけ、俺の炎の因果そのものが『剪定』されている……!)
ルピナの手にある園芸バサミが「チャキッ」と小気味よい音を立てるたび、ベスパが放つ世界を滅ぼすほどの殺意の熱量が、窓辺から差し込む「暖かい日差し」程度のエネルギーに変換され、無害化されていく。
物理的な強度や魔力の多寡ではない。彼女は、この世界の「理」そのものを、自らの庭を整えるように書き換えているのだ。このまま戦いを続ければ、自分という存在そのものが「不要な枝」として切り落とされ、組織の根幹が根こそぎ「無害な肥料」に変えられてしまう。
ベスパの直感が、最強の捕食者としての本能が、最大級の警告を鳴らしていた。
「……チッ。全員、退け! この女は『異常』だ。まともに相手をする価値すら計算できん!」
ベスパは即座に判断を下した。彼は残った精鋭兵をまとめ上げ、周囲を視界を遮るほどの大規模な爆炎で包み込む。目くらましの煙幕を張り、その隙に浮遊要塞『アバドン』の方角へと全速力で撤退を開始した。
一方のエルバもまた、自慢の「漂白」が通用せず、むしろ自分の薬品を肥料に変えられたという屈辱と本能的な嫌悪感に突き動かされ、白銀の霧と共に別の闇へと消えていった。
嵐が去った後の、脱色された真っ白な大地。
そこには、手押し車を引くルピナだけが一人残り、満足げに周囲を見渡して微笑んでいた。
「ふふ、これで少しは風通しが良くなったかしら。少し空気が濁っていましたものね」
彼女が足元をジョウロで湿らせると、ベスパとエルバによって徹底的に焼き尽くされ、毒に侵されたはずの死の大地を突き破り、鮮やかなマゼンタ色のルピナスの花が、魔法のように次々と芽吹いていった。
「カリスちゃん、どこへ行ってしまったの? 早く戻ってこないと、お庭のパピヨン(蝶)たちが寂しがっちゃうわよ。さあ、次のお仕事に行かなくては……さて、アイリスさんも呼ばなきゃ......」
彼女は誰に聞かせるでもなくそう呟くと、再び鼻歌を歌いながら、花を載せた車を引いて歩き出した。
彼女の歩いた後には、死の灰の代わりに、色鮮やかな花道が出来上がっていく。
南の大陸を支配する二大巨悪が初めて直面した、理外の存在「飼い主」。
ベスパの「全都市放棄計画」という歪んだ枝は、この静かなる庭師の登場によって、今、思わぬ方向へと剪定されようとしていた。




