侵食-1.揮発する死
数時間後。南の大陸を揺るがした第5支部の崩壊から、熱核の余波はいまだ収まっていない。
ベスパは、焦土と化した天文台の残骸を背に、数十名の精鋭兵を引き連れて進軍していた。目指すは彼らの最終拠点、天空に君臨する浮遊要塞『アバドン』。勝利の余韻に浸る間もなく、彼の黄金の瞳は冷徹に次なる「放棄」の対象を見据えている。しかし、要塞への最短ルートである、本来ならば生命力に満ち溢れているはずの原生林に足を踏み入れた瞬間、異様な「静寂」が一行を包み込んだ。
初夏の陽光が降り注いでいるはずの森。だが、そこには緑も、土の茶褐色も存在しなかった。
視界に入るすべてが、病的なまでに蒼白く変色している。木々の葉は陶器のように硬質化し、幹は内側から色素を吸い取られたかのように白化し、足元の岩肌さえもが、強烈な薬品を浴びせられた実験室の床のように「脱色」されていた。
「……何だ、この色は。霜か? いや、この熱気の中であり得ん」
ベスパの背後を歩いていた精鋭兵の一人が、怪訝そうにその白い葉に触れた。
刹那。
「ガ、あ……ッ!?」
悲鳴を上げる暇さえなかった。触れた指先から瞬時に色が抜け、石灰のような白濁が血管を伝って全身を駆け巡る。わずか数秒。屈強な魔導兵は、断末魔の表情を浮かべたまま物言わぬ「白い彫像」へと成り果て、その場に固定された。
石灰の如き白の世界は、ベスパの周囲を瞬く間に包囲した。前後左右、逃げ場はない。
ベスパは足を止め、鋭い嗅覚を働かせた。大気に混じるのは、焦げた匂いではない。鼻腔を刺すような、無機質で、どこまでも清潔で、そして致命的な「薬品」の臭気。
茂みの奥から、冷笑を孕んだ声が響く。
「……ネールの老いぼれめ。死に際に俺に残した伝言がこれか。死ぬ勇気だけは一人前だったようだが、後始末をこちらに押し付けるとは、実に迷惑な話だ」
白銀の霧が森の奥から染み出し、視界を遮っていく。その霧を割って、カチリ、カチリと硬質な靴音を響かせ、一人の男が姿を現した。防護マスクのような異形の魔法具を装着し、白いコートの裾を揺らす男。
――静寂の捕食者幹部、薬剤師エルバ。
エルバはベスパを、道端に落ちている汚物を見るような目で指差した。
「ベスパのゴミ……。噂には聞いていたが、あの大爆発の爆心地にいて軽傷とはな。ゴミの分際で、随分と打たれ強い生命力だことだ。生きた粗大ゴミなのか、それともただの生ゴミか。分別の手間を考えただけで反吐が出る」
エルバの瞳には、戦士としての敬意も、強者への恐れもない。あるのは、目の前の存在が「生理的に受け付けない汚れ」であるという、狂信的なまでの潔癖と嫌悪だけだ。
「……略奪の炎を撒き散らす不浄な連中め。俺たちの庭に、これ以上見苦しい煤を落とすな。不潔極まりない」
ベスパは一歩、踏み出した。彼が歩むたびに、獄炎の王杓『デス・スティンガー』から漏れ出るプロミネンスの熱量が、周囲に漂う不気味な白い霧を強引に蒸発させ、爆発的な水蒸気を跳ね上げる。
「マンティの掃除屋か。……ネールの次は、薬剤師が死にに来たか。あのアニルの知略でも、俺を止めることはできなかった。貴様の安っぽい香水で、この煉獄の臭いが消せるとでも思ったか」
「死ぬのはお前だ、ベスパ。お前の存在そのものが、この世界の『汚れ』であり『病原菌』なんだよ。……すべて真っ白に、分子レベルで洗い流してやる」
エルバがコートの裏から数本の薄緑色の薬瓶を取り出し、流れるような動作で地面へと投げつけた。
パリン、と硬質な音が響き、割れた瓶から噴出したのは、炎でも氷でもない。無色透明でありながら、空間の光折率を歪ませるほど高濃度の揮発性毒ガス。
「兵を連れてきても無駄だ。数が多いほど、死体の色が増えて見苦しくなるだけだからな」
エルバの言葉は、残酷な予言として即座に的中した。
ベスパに従っていた残りの精鋭兵たちは、慌てて多重結界を展開しようとしたが、その動作よりもガスの浸透の方が遥かに速かった。ガスは皮膚の毛穴から、そして防ぎきれない肺の粘膜から内側へと侵入。細胞のタンパク質を瞬時に凝固させ、腐食(漂白)していく。
「あ、が……っ……白、い……世界が、真っ白に……!」
「助け……て……」
叫びは喉の奥で泡となって消える。数十名の兵士たちは、苦しむ間もなく次々と「白い灰」のような亡骸に変わり、風に吹かれて砂のように崩れ落ちていく。それはもはや死体の山ですらなく、ただの汚れた雪の吹き溜まりのような、無機質な物質の塊に成り下がった。
「……貴様、俺の所有物を勝手に『放棄』したな」
ベスパの黄金の瞳に、静かだが底知れない、マグマのような怒りが宿る。彼にとって部下は駒に過ぎないが、それを勝手に「処分」されることは、王としての尊厳、そして管理権に対する重大な侵害であった。
「放棄? 違うな、ベスパ。これは『清掃』だ。不衛生な資材を処分して何が悪い?」
エルバは指先をパチンと弾き、更なる術式を起動した。大気中に散布された薬剤が、ベスパの放つ異常な熱量と反応し、触媒となってさらに性質を変化させていく。
「傷口に薬剤を塗ったらどうなるか、知っているか? 俺の薬剤はお前のその自慢の筋肉も、脂も、すべて石鹸のように溶かして分解してやろう」
『漂白術式・ホワイト・アウト』
ベスパの周囲を、逃げ場のない純白の壁が取り囲む。
普段ならば、ベスパの『プロミネンス・アーマー』が近づく魔法をすべて蒸発させるはずだった。しかし、エルバの毒ガスは実体が極めて希薄な揮発性物質であり、ベスパが熱を高めれば高めるほど、分子運動が活発化して皮肉にも体内への浸透速度が増していくのだ。
「……ちっ。酸素を燃やしても消えぬ毒か」
ベスパの皮膚がピリピリと焼け付くような感覚に襲われる。強靭な筋肉が僅かに弛緩し、熱の制御に綻びが生じ始めた。毒素が血流に乗り、彼の無敵を誇る肉体を内側から白く変色させようと侵食を続けている。
「混ぜるな危険という言葉があるが……お前は、俺が特別に混ぜ合わせたこの極上の薬剤を、骨の髄まで味わうがいい。熱くなればなるほど、毒は回るぞ。さあ、綺麗に消えてなくなれ」
エルバは不敵に微笑む。彼にとって、この戦いは決闘ですらない。害虫の駆除であり、実験室の消毒であった。
しかし、ベスパの熱量は、そこからさらに一段階跳ね上がった。
「毒を吸い込む前に、その肺ごと貴様を蒸発させれば済む話だ。……俺の炎を、化学反応ごときで御せると思うなよ!」
ベスパは自ら体内で毒を燃焼し、代謝経路の材料として使った。もはやエルバからすれば逆効果でしかない。
庭の「漂白」を掲げる潔癖な薬剤師と、すべてを焼き尽くす「煉獄」のボス。
目に見えない死の霧と、すべてを飲み込む紅蓮の業火。
二人の怪人が放つ殺意は、周囲の森を白と赤の地獄へと変えながら、激しく絡み合っていく。
その戦いの余波は、大気を震わせ、数キロ先で「カリス」という名の剣豪と合流しようとしていた義賊たちの鼻腔をも刺激し始めていた。
そして同時に。
その戦いから発せられる「騒がしい不調和」は、静かに、しかし確実に、この南の大陸のどこかでジョウロを手に花を愛でる「世界の剪定者」の注意を惹きつけようとしていた。
均衡を乱す巨大な炎と、それを消そうとする猛毒。
そのどちらが剪定されるべき「余分な枝」なのか。
因果の庭師が鋏を鳴らす音は、まだ、誰の耳にも届いていない。




